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かくあれかしと笑顔を願い

           ぼくの命が役立ちますよう

           せめて愛しいあなたの為に

           祈りほほえむあなたの為に




 ――その一心に祈る横顔が、余りにも美しかったから、悪魔はある日、恋に落ちた。


 街外れの、天蓋(てんがい)の崩れた教会で祈る少女。

 腐食(ふしょく)と雨風によって草木の生い茂ったそこは、屋内であるにも関わらず花が芽吹き、ステンドグラスに反射した月の光によって、円状に照らし出されていた。


 少女はぼろぼろになった聖書をめくり、折れそうな細腕で十字を切り、擦り切れた衣を引きずって祈りを捧げる。だが先刻から鳴り続ける腹の音とは裏腹に、少女が食べるパンはもう無い。――なぜなら少女は、既に眠った子供たちに、自分の分すらも分け与えてしまっていたからだ。


 ――だのに何故だってこの子は祈るのだろう。

 少女が毎夜祈りを捧げる事実を、悪魔はとうに知っていた。だけれど少女の祈る神とやらが、少女にパンを与えてくれた事は一度だってない。




 悪魔が生まれておよそ十年。瓢箪(ひょうたん)の様にあどけない見た目の彼は、それでも人の世の無惨をこれでもかと目にしてきた。暴虐、略奪、戦争に強姦。――それらは時に少女の祈る神の名の元に為され、また同じ神の名によって復讐の道具とされた。


 だから悪魔にとっては、神というのは戦争と虐殺を生み出す、悪魔以上に悪辣(あくらつ)な何か。か弱い人が自らの罪を押し付け、逃れるべく生み出した、姿の無い化物にしか思えなかった。


 そんな空想上の化物に祈りを捧げたって、君の元にはパンの一欠(ひとかけ)だって転がり込みはしないのだ。悪魔はそう思うと、今度は無性に腹ただしくなった。君にパンを与えるのは、神様なんかじゃあないのだと。今すぐ飛んでいって耳元で真実を叩きつけたい衝動に駆られた。


 だがそこまで悪魔が思案した所で、遠くからガサガサと、何者かが近づいてくる足音が聞こえる。恐らく少女は気づいていないだろう。そもそも飢えと寒さで、ろくに頭も回らないに違いない。


 悪魔は仕方が無いなと(かぶり)を振ると、礼拝堂に(そび)える、鐘の無い塔からふっと姿を消した。




 教会に歩を進める、あからさまに不審な男。右手にはククリナイフを、空いた左手には麻袋を。その目的が強盗である事は、獲物を狙う猛禽類(もうきんるい)の様な彼の眼光が、暗黙のうちに語っていた。


 ――今日はこいつを狩らねばならんか。

 悪魔はそう内心で独りごちると、音もなく男の背後に忍び寄り、無慈悲な鉤爪(かぎづめ)で腹わたをえぐり出した。


「ぎょえっ!?」

 頓狂(とんきょう)な、蛙の様な声を出し息絶える男の遺骸(いがい)を、無造作に郊外に放り投げると、悪魔は男が有していた幾許(いくばく)かの食料、それに金貨を持って、少女が居た教会に舞い戻った。




 ――チャリン。

 祈りを捧げる少女の背中に物音がして、そうして少女は振り返る。そこには先刻まで(こいねが)った金貨とパンが、申し訳程度にだが置かれていた。


「神さま!」

 崩れそうなくらい切ない笑顔で駆け寄ってくる少女の姿を、悪魔は闇に紛れてひっそりと見守っていた。


 ――それ見た事か。お前の言う神様は、結局何一つしてはくれないのだぞ。

 これまで少女に降りかかる災厄の、その一切を切って捨てて来た悪魔は、腕を組んでそう思った。恐らくこの悪魔無しには、既に少女の命は守られていなかったろう。


 だが神に祈り平和を愛し、戦争を嫌う少女にとって、悪魔の所業は非道に映るに違いない。だから悪魔は、可能な限り人目につかぬ様、彼女を狙う悪意の全てを、秘密裏(ひみつり)に狩っては夜闇(よやみ)に捨て置いてきたのだった。

 

 確かに悪魔は神を嫌っていた。いや寧ろ憎んでさえいた。

 だけれども、それを愛する少女の笑顔だけは、どうしても奪いたくなかったのだ。




*          *




 それから幾年の時が過ぎた頃、少女の居た聖堂は在りし日の威容を取り戻していた。周囲には人だかりが出来、壇上に立つ颯爽(さっそう)たる乙女の託宣(たくせん)を、今か今かと待ちわびている。


「神を信じ武器を捨てれば、平穏が訪れます。――かくあれかし、神の御名(みな)と共に」


 その胸を張り高らかに声を上げるのは、あの日、骨と皮ばかりだった(かつ)ての少女。今では白い柔肌に少しばかり紅が差し、誰が見ても女神の化身とばかりに(ほが)らかに、(ある)いは勇ましく微笑んでいる。


「――ああ、聖女様!」

 そうして手を合わせる周囲の民草(たみくさ)に説かれるのは、神の奇跡と、やがて来たるべく福音(ふくいん)の時。――そう、少女は今や、神の恩寵(おんちょう)をその身に受ける、信仰の象徴として(あが)められていたのだった。


 悪漢に暴漢、そして聖堂を壊そうとする地主や貴族が相次いで命を落とす中、祈りを捧げ清貧(せいひん)を守り、謙虚に日々を過ごすだけの少女の姿は、神に見守られた清らかなる乙女(ピュセル)として映ったのだろう。その伝聞に()かれ集まった人々によって、聖堂の周囲には穏やかな集落が築かれつつあった。


「剣を掲げる者に、剣を以て抗ってはなりません。不正義には必ずや神の裁きが下されます。耐え忍び、自らの信仰に全てを捧げるのです」

 

 そう満面の笑みを浮かべるかつての少女を、木陰に立つ悪魔は疲れきった表情で見つめていた。


 ぜえぜえと肩で息をする悪魔。彼の身体は幾分か大きく、禍々(まがまが)しく(たくま)しくなってはいたが、代わりに無数の(むご)たらしい傷跡が刻まれていた。


 ――あとどれだけの敵を、俺は(ほふ)れば良いのだろう。

 悪魔は聖女の心地よい声に耳を傾け、天を仰ぎ目を閉じる。


 非武装、中立、不服従。

 聖女の掲げる理想はどれも美しい。誰しもが「かくあれかし」と望み、そうして実現出来なかった全てが、ここにはある。だがその代償に、悪魔の身体は人知れず傷つきつつあった。


 最初は野盗の群れ。次に騎士崩れ。領土拡大を目論(もくろ)む隣国を始め、聖女の異端を罰する為に遣わされた聖騎士団。非武装を謳う辺境の村落は、周辺の血走った有象無象(うぞうむぞう)の、格好たる餌食とされていたのだ。


 だがそんな障害の(ことごと)くを打ち払う悪魔の挺身(ていしん)は、皮肉にも一層聖女の神話に尾ひれをつけて、村を越え町を越え、挙句(あげく)国境を越え駆け巡った。ある時は嵐が吹き、またある時は(いかづち)が落ち、聖女の集落に攻め入る全ての敵は、散り散りになって逃げ帰る他なかったからだ。


 そうして今日も、悪魔は誰に知られる事も無く虚空に羽根を羽ばたかせる。――背後では止むことの無い祈りの声と神への讃歌が、絶えること無く響いていた。




*          *




 またそれから幾年が過ぎた頃、かつての少女は王宮に立っていた。聖女の奇跡に心打たれた或る国の王子が、熱烈な求愛の末、彼女のハートを射止めたからだ。


 しかし聖女は、嫁ぐにあたって一つの条件を相手方に突きつけた。それは自身の理念に基づく、国家としての武装放棄だった。かくて頷いた王子によって、この国は軍を解体し武器を捨て、名実共の非武装国家となったのだった。


 やがて国は聖女の説く慈愛に導かれ、各国から文人や詩人が群れ集った。路傍(ろぼう)に孤児は無く、芸術の花は咲き乱れ、女子供は歓びの歌を口ずさむ。世は正に太平。順風満帆(じゅんぷうまんぱん)の黄金時代を、聖女の国は歩みつつあった。――ただ一人、王宮の天蓋に立つ、傷だらけの悪魔を除いて。


 悪魔はあれからさらに大きく、醜く、(おぞ)ましく成長していた。四肢は隆々の筋骨で満ち、幾重にも刻まれた傷は痛々しくも禍々しい。人からも魔からも孤立し、ただ彼は聖女の笑顔を守る為だけに牙を振るっていた。


 だが悪魔はふと思った。果たして自分が守りたかった笑顔とは、今の彼女の笑顔なのだろうか、と。かつては弱々しく所在なげで、手折(たお)ればぽきりと折れてしまいそうだった薄幸の花は、気がつけば時に傲慢(ごうまん)で、自らを正義と信じ疑わない慢心(まんしん)(とげ)に姿を変えていた。


 しかしそれでもなお。聖女の微笑みは美しく、彼にとっては掛替(かけが)えの無い茫漠(ぼうばく)たる希望だったのだ。


 明日にも襲い来るであろう、諸外国の連合艦隊を前に悪魔はすぅと深く息を吸い込む。


 ――守ってやろう。あの日自分が恋い焦がれた、たった一つの笑顔の為に、と。




*          *




 翌々日、たった一匹の悪魔と、それを取り囲む連合艦隊の戦闘は熾烈(しれつ)を極めた。理由は単純で、敵方にも魔の者が潜んでいたからだ。


 悪魔とは本来、人に仇為し、世に混乱を(もたら)すべき者。しかし本来の(ことわり)を大きく外れ、特定の国家に肩入れをする悪魔の存在は、次第に魔の中にあっても異端として糾弾(きゅうだん)されつつあった。


 敵方が正体さえ知らなければ、幾らでも天変地異で片がつく。だが絡繰(からくり)を知る身内が居るとなれば話は別だ。轟音を上げる砲火の最中で、二つの影が鍔迫(つばぜ)り合いを繰り返す。


 最初の頃は押している様に見えた悪魔だったが、事態は次第に劣勢に傾く。片や悪魔一匹を狩れば良いだけの魔の者と、片や全軍を相手にしながら、聖女の国そのものを守らねばならない悪魔。勝敗は始めから明らかだった。




*          *




 ――それは真の意味で奇跡、と呼ぶべき事態だったかも知れない。人間の砲弾に魔の者を当てた悪魔は、辛うじて戦線を硬直させると、息も絶え絶えで王宮へ舞い戻ったのだ。


 聖堂と化した王の間では、聖女が一心に祈りを捧げ、その周囲もまた追随し祝詞(のりと)を唱える。――確かに敵の手は止まったが、早晩攻撃は再開されるだろう。そうなれば一巻の終わりだ。悪魔は最後の力を振り絞って、天蓋から城内へ崩れ落ちた。


 ――ガシャン。

 割れるステンドグラスに、祈りは消え悲鳴が響く。それもその筈、自らの姿を消しておけなくなった悪魔の醜貌(しゅうぼう)は余すところ無く衆目に(さら)されたのだ。

 

 ――逃げ、ろ。

 悪魔はそう口を動かしたかった。だけれどもヒューヒューと息がするだけで、上手く言葉が出ない。そんな悪魔を、聖女は汚らわしいものでも見るかの様に(さげす)んでいる。


「悪魔よ! 貴様らが如何なる奸計(かんけい)を用いようとも、神は我らを救い(たも)う!!」

 

 せめて、せめてまた笑ってはくれないのか。あの清らかな顔を見せてはくれないのか。悪魔は心の中で何度もそう問いながら、無慈悲に振り下ろされる聖女の鉄槌(てっつい)を耐え忍んでいた。


 ――ざくり。ざくり。

 開いた傷口のあちこちに、何かが打ち付けられる音がして、どんどんと体温が下がっていくのを悪魔は感じた。


 薄れ行く意識の中で、祈りの代わりに罵倒(ばとう)を叫ぶ、かつての少女の醜い姿が、悪魔の目には(かす)かに映った。


 ――ああ。

 そうして悪魔は初めて笑った。ぷつりと、最後の景色が色を落として、世界は音を失った。




*          *




 それから数ヶ月が過ぎた頃、聖女の国は地図から姿を消していた。

 防備も兵士も無い脆弱(ぜいじゃく)な国土は、瞬く間に他国に蹂躙(じゅうりん)され、かつて花の都と謳われた一帯は、灰になった後いくつかに分かたれた。


 聖女が今、どこで何をしているのか。

 それは誰も、知らない。

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