君へ
それでも歌おう。届かないこの想いを、届かないこの歌に載せて。
ベランダから、君に届けと空に願う。
愛なんて、恋なんて。そんな儚いものじゃない。ただ僕は、君に幸せでいて欲しい。
同じ空の下で過ごす君へ。
『歌手志望』だなんて呑気に言っていたのは、中学だろうか。高校だろうか。事実、僕は歌が上手い方だと思う。けどきっと、それだけだった。大成するための努力も、気概も欠けていた。それこそ、決定的に。
だから僕は、大学生になった今、気が合う仲間とバンドを組んで、小さなスタジオで気分次第に歌う、そんな人間だ。歌手になりたいとは思う。けど、そうじゃない人生だって、きっといいものなんじゃないかな。そんな風に、自分に言い訳してる。
彼女と僕の違いは、ただその一言に尽きた。
僕はただ、彼女にできた努力ができなかっただけなんだ。もしかしたら、才能というどうしようもない壁があったかもしれないけど。それすら確かめられてないから。
あの日僕の前からいなくなった彼女は、今ではボタン一つで、どこでも見れる。文字通り、日本中どこででも。ある時は娘だったり、ある時は彼女だったり。看護師だったり、刑事だったり。その姿は、顔は、口調は、日によって違うけど。
彼女はそれが仕事だから。様々な役を演じ分けて、今では『演技派』だなんて言われている。
でも僕は、それを聞くたびに少しだけ笑ってしまうんだ。
だって彼女は、きっとただ必死なだけだから。夢を叶えるために、叶え続けるために。本当の彼女は、いたずら好きで、意地っ張りで、優しくて、努力家で、でも脆い。そんな人だから。僕はそれを、一番近くで見ていたから。そのいたずらの痛みも、身を持って知ってる。
その痛みは、僕しか知らないはずなのに。彼女の努力は、僕が一番知っていたはずなのに。彼女の優しさも、脆さも。僕が、僕だけが知っていたはずなのに。
でも。そんな優越は何の役にも立ちやしない。もしもそれが役に立つのなら、僕はきっと、彼女の隣にいられるから。
彼女の隣に僕はいない。僕の傍に彼女はいない。それは、紛れも無い事実で。僕と彼女の間に立ち塞がる壁は、空間でも、時間でもない、どうにでもなるのに、どうしようもない、そんなもの。
ただ、僕が自分を許せないだけなんだ。彼女に追いつきたくて、勢い任せに口にした口約束だけど、そんなか細い糸が、きっと今僕と彼女を繋ぐ最後の一つ。僕をがんじがらめに締め付ける、拘束衣。
ああ、そろそろ、日が暮れる。いつもの日課を始めようか。
窓を開けてベランダに踏み出せば、彼女と初めて出会ったあの日のような、澄んだ夕焼けが目に染みる。そろそろ、寒くなってくるだろうか。寒くなったら、ベランダでギターを構える事もできなくなるかな。なんて、そんな事ありえないのに。
手がかじかんで痛くても、きっと僕はここでギターを構えるのだろう。冷たい空気で喉が痛くなっても、きっと僕はここで歌を歌うのだろう。
座りなれた椅子に、腰掛ける。尻から伝わる冷気に身震いして、ギターを構えた。
こんなもの、自己満足だってわかってるけど。いくら首都圏とは言え、こんな片田舎で、ベランダで声の限り歌を歌っても何も言われないような場所で歌ったところで、誰の目に留まるわけでも、誰の耳に届くわけでもない。なにより一番届いて欲しい人の耳には、余韻すら届かない。
それでも歌おう。届かない想いを、届かない歌に載せて。
ベランダから、君に届けと夕暮れに願う。
愛なんて、恋なんて。そんな儚いものじゃない。ただ君に幸せでいて欲しい。
同じ空の下で過ごす君へ。
願わくば、この想いが届きますように。
いつもの時間、ひんやりとした塀に背をつける。見上げれば、簡素なベランダの錆び付いた底が見える。
この仕事は不規則だから、毎日ここに来られはしないけれど。それでも、少しでも時間があればここを訪れている自分に、苦笑する。
あれだけ焦がれた職業について、充実した毎日を送っている。そう思う。
けれど、最近よくする空想がある。
その空想の中では私は何も無い平凡な女子大生で、何かを目指して努力する事もなければ、何かになりたいと夢を抱く事も無い。ただただ、平凡な毎日を過ごして、試験に一喜一憂して、色恋沙汰に興味を示す。そしてその隣には、当たり前のようにギターを携えた彼の姿。学祭なんかで歌う彼の姿に、目を輝かせて見とれている。そんな私。
けれど、それに憧れると同時に思うの。こんなのは、私じゃない。私であって私ではない、いわばもう一人の私。そんな私を、彼は同じように好いてくれるのかな。なんて。
『女優志望』だって大口を叩いて、そのために血の滲むような努力を重ねて。中学、高校と演劇部でひたすら演技をして。
気づけば、私の周りに人はいなかった。ただ、役目と仕事と、責任だけがあった。
それが嫌になって。全部嫌って全部憎んで、投げ出したあの日の放課後。部活をサボって校内をうろついていた時に、不意に耳に飛び込んできた歌声。それが、とても印象的だった事を覚えている。
ふと、空を彩るオレンジ色に目を移す。そういえば、あの日もこんな夕焼けだった。
歌声を追って、立ち入り禁止の屋上に飛び出して、彼を見つけて。声を掛けようと歩み寄った私に、彼は「君も嫌になったのか」なんて。
後から聞けば、「足音が重かったから」なんて言われて。彼の音楽家らしい耳の良さと推理力に感心したのも、いい思い出。
そんな彼の歌には、テレビで流れるような派手さなんて無いけれど。その代わり、聞く人の心を貫く素朴さがあった。
だから、私は惹かれた。彼の歌に、それを生み出す彼自身の思いに。美しい装飾を切り捨て、ただ自分の想いだけを込める彼に。
彼がいたから、私はここまで来られた。彼の歌があったから、私は何度だって立ち上がれた。
いつか、こんな事言った気がする。
あなたが伝わらない想いを歌うのなら、私は伝えてみせる。言葉を、口調を、表情を、私の身体全てを使って、伝わらない言葉を伝える。と。その言葉に準じて、私はこれまでたくさんの感情を伝えてきた。それは、私自身のものではなかったけれど。
高校卒業直前に受けたオーディションに合格して、それ以降、とんとん拍子ではもちろんなかったけれど、それなりに成功してきたのだと思う。反対に、「追いついてみせる」と泣き笑いで意気込んだ彼は、上手くいかなかったようだけど。
私は仕事、彼は音大。私たちが選んだ道は平行線どころか、少しずつ遠ざかってしまっている。
それもまた人生だと、言ってしまえばそれまで。死ぬまでに星の数ほど繰り返す別れの一つだと、言ってしまえばそこまで。
けれど私は、それを受け入れられるほど、大人になりきれていなかった。
いつもの時間ピッタリ。頭上から歌が降ってくる。私の心を締め付ける、聞き慣れた声音。その静かなギターに、小さくハミングを乗せた。
それでも伝えよう。届かない想いを、届かない言葉に載せて。
塀の向こうから、あなたに届けと夕暮れに願う。
ただあなたに幸せでいて欲しいだなんて、そんな奥ゆかしい事じゃ足りない。愛したい。恋したい。
同じ空の下で過ごすあなたへ。
願わくば、この想いが届きますように。
「……ただ君に幸せでいて欲しい。それだけで、よかったんだ」
「お、その歌誰の歌? いい歌だね」
「あ、これは、知り合いが作った曲ですけど……」
「え、そうなの!? その知り合いって、歌手?」
「いえ、音大生です」
「そっかそっか。ねえ、他にも歌とか、ないの?」
「……高校の時のなら、いくつか録音してありますよ?」
「あ、じゃあそれ聞かせてよ。あ、これは、音楽事務所プロデューサーからのお願いって事でよろしく」