54.雪がいない
どこかで虫が飛んでいるような音がしていた。
ぼんやりと司の意識が浮上してくる。体中が気だるい重さに支配されていた。
薄く目を開けると、覚醒に応じてテーブルの上に投げ出された線の細い腕がわずかに動く。
虫が飛んでいるような音は続いていた。
ぼうっとした目に、穏かな光が灯る。
司の意識は未だはっきりしなかったが、見慣れたロココ調のテーブルが置いてある事から自分の部屋に居るのだと分かった。
自分は何故ここで寝ているのだろう。
テーブルの上にあるティーカップを見て、遊園地に行った次の日、雪や間宮と一緒にお茶を飲んでいたことを思い出した。
――そこから司の意識は途切れている。
もう辺りは暗くなり、人が大勢いるはずの一条院家は恐ろしいほど静まり返っていた。
傍らに目をやると、司と同じようにテーブルに突っ伏した間宮がいる。
マナーモードで震え続けている司のスライド式携帯端末が、お茶の支度と共にテーブルに乗っていた。雪はどこへ行ったのだろうと、司は薄っすらと考えた。
携帯の着信は『橋本友宏』となっていた。
司ははっきりしない意識のまま通話キーを押す。
「おい! 何回掛けても出ないで、どうしたんだよ!」
友宏の喚き声が司の鼓膜を叩く。
「トモ……どうしたの」
「どうもこうも、さっき街歩いてたら、津川さんが、この前見たあの銃喰らっても動いてた男と普通に歩いてるの見かけて、心配で電話したんだよ」
「いや、でも一緒にお茶飲んでて、まさか、そんなっ」
とっさに司は反論したが、無意識では異常を感じ取り携帯を持つ手が小刻みに震えた。
「なおさら、おかしいじゃねぇか。お前と茶飲んでる津川さんがどうして街歩いてるんだ。それにあの男とは敵なんじゃないのか?」
司は、友宏の言葉で、今日は雪が手ずから紅茶を淹れてくれた事を瞬時に思い出した。
それを飲んだ後、ほとんど気を失うようにして眠ってしまった事、間宮が雪の名前を呼んでいた事も次々と思い出される。
血の気が引いて、顔が紙のように真っ白になった。指先が冷たくなって携帯を持っている感覚もしないほどになる。
雪は睡眠薬を紅茶に淹れる必要もない。自分の奇跡の力で、最初から睡眠薬が入った紅茶を作る事ができる。遊園地であれ程、男たちが襲ってこないと自信たっぷりだったのも、頷けた。
司の脳裏に、重症を負って倒れた夜、『もう十分だ』と諦めたように笑った雪の顔が横切る。
雪は勝手に諦めてしまい、自分を追う男達の元に行ってしまったのだ、と司は衝撃のあまり足元がぐらつくような錯覚を覚える。
「追っかけようと思ったけど、見失うし。くそっ」
「どこに行った!」
「とりあえず、見かけたところと、大体行った方向は案内できるから、出て来い! 門の前にいるから! 何でお前んち誰も出てこないわけ?」
司が慌てるあまりテーブルや椅子にぶつかりながら窓に駆け寄ると、一条院家の門の鉄柵の向こうに、門の照明で金髪がきらきら光って見えた。司のところからは表情は分からなかったが、友宏は司が窓から顔を出したのが分かったのかしきりに手を振っている。
その頃には、間宮が緩慢な動作で身を起こし、それからはっとしたように目を見開いて、
「電話を途中から聞いていました。雪様は?」
と司に詰め寄っていた。忌々しげにティーカップを横目で見ている。
司よりも間宮の方が状況を把握できているようで、友宏の話を聞くと、
「雪様は、あの化け物の所へ行ったのですね。行きましょう。銃とナイフは持っていますか?」
ともどかしげに司の手を引っ張った。
「うん」
装備は常に身に付けていた司は、力強く頷いて間宮に続く。
二人は長い廊下をひたすら走った。
途中、通りがかった部屋で、間宮が同じように寝ていた護衛団の者達に、
「起きろ!」
と一喝し、中央の長テーブルを蹴り上げた。
護衛団の者たちがふらふらしながら起き上がる。
それから間宮は流れるような動作で、色々な物が散乱する合間を縫って奥の金庫に行き、素早く中の物を取り出す。
司にも見覚えのある、処刑者が持っていた古びたあの本だった。
「あの化け物が、最後まで執着していた『生贄の書』です。脅しのネタになるかもしれない」
間宮が、真剣な顔で司に本を手渡す。
雪が男達と戦う事を諦めてしまったという事に動揺していた司は本を取り落とす。
古いボロボロの紙に浮かび上がる赤い文字が鮮やかだった。
「こんなものがあるから雪ちゃんが……、こんなもの無かったら」
さすがにお人よしの司も、どこまでも雪を苦しめる男達が憎く思えて、毒づきながら本を取り上げようとした。
嫌々ながらも何か役に立つかもしれないと丁重に持ち上げようとする。
しかし、間宮と司の見ている前で、古びた本は司の手の内にあるのを嫌がるように、静かに端から消えていった。
えっ……?
本を持ち上げようとしていた司の手が、勢い余ってものの見事に宙を切る。
雪に作り出された者は一般の者達とは違うのか、消えた瞬間をきちんと認識したらしく、間宮は信じ難いといった視線を司に向ける。
「これは」
前もって、司に話を聞いていたとしても、目の前で物が突然消えてしまうのはショックだったようだ。
「これは、今の現象が私の見間違いで無いとしたら、以前、司様は雪様の作り出したものを消せると仰っていましたが、まさかこの相当年代を経ているような薄汚い本が雪様の作り出した物……」
間宮が冷静な彼らしくなく、呆然として立ち尽くしている。
「だとしたら、あの男も雪ちゃんが作り出した者って事?」
「『生贄』を殺す『処刑者』を自ら作り出した……何の為に」
「分からない……でも、そうだとしたら、あの男の人は僕の力で消せるはずだ。でも、なんで今まで消えなかったんだろう……。とにかく急ごう。雪ちゃんが心配だ!」
司の言葉に間宮が力強く頷いた。




