46.手当
それからしばらく平和な日々が続いた。
あの陰鬱な男は、鎖で厳重に縛られて一条院家の頑丈な部屋の一室に閉じ込められていた。
雪を男達の集団が襲ってくることは……もう無い。
間宮が、陰鬱な男に本拠地(意外と近所の廃工場だったらしい)について口を割らせて襲撃に行ったが、人が居た気配はあったものの誰も居なかったと伝えた。リーダーが居なくなった今、のこのこと戻ってくる事はないだろうと引き上げたらしい。
余談だが、間宮が陰鬱な男に口を割らせた手段については、司がどうしたのかと何度聞いても答えてくれなかった。
また、陰鬱な男が持っていた生贄の書を取り上げる時、男が取り乱して酷く暴れたと言った。
司はその話から推測して、生贄の書を盾に脅迫したのか、と間宮に聞いたが、間宮は表情を全く変えず『いえ、そうではありません』とだけ言った。
あの事件の後、友宏は詳しい話を聞かないで居てくれている。
ただ、『何かオレにできる事があったらすぐに声をかけてくれ』と優しい言葉をかけてくれていた。
――司の腕の傷は、不幸中の幸いにも骨や神経を損傷することなく、腕の肉を抉っただけに済んでいた。それに加えて、一条院家のお抱えの医療班の働きもあり、二週間も経つとなんとか傷口も塞がりかけ、新たな肉が盛り上がってきていた。
「ごめんなさい、司。私のせいで」
今日も司の部屋で、雪が泣きそうになりながら司の腕の包帯を巻きかえていた。
もう傷口は塞がりかけているし、司はガーゼを当てるだけで良いと言ったのだけれども、雪が巻くといって聞かない。
司の部屋の大きなテーブルの隅に二人で寄り添って、そんな少し不毛なやり取りをしている。雪は手際よく新品の包帯を巻いていくのに、ずっと俯き気味だった。
そんな雪らしくない弱気な様子に、司は頬を緩めてみせる。
「大丈夫だって。そんな事よりも最近、雪ちゃんが初めのころみたく強気じゃないのが寂しいよ。もう男は捕まえたんだから大丈夫だよ」
司は、そうやって泣きそうになっている雪よりも、自分に怒鳴ったり叩いたり手玉に取ったりしている方が彼女らしいと思うのだった。司に自信満々に笑いかけたり、いたずらっ子みたいに目を輝かせたり、可愛い他愛もない我侭をぶつけている時の方が何倍も生き生きしている。
「……司って、前から思ってたけど、結構……マゾ?」
慰めの司の言葉に少し調子を取り戻したらしい。
司の大事な婚約者は、目の前のマゾ(仮)が卒倒寸前になるような可愛い上目遣いのポーズで、無慈悲な言葉を喰らわせる。
「ま、マゾじゃない。絶対マゾじゃない」
司は額に冷や汗を感じながら、全力で否定する。あの陰鬱な男にも『マゾヒストか?』と聞かれた記憶も新しいため、洒落にならない。
「怪しいのよね。この前、私が叩いちゃった時も、その後妙に嬉しそうな顔してたじゃない」
「いや、違う。あれは、雪ちゃんの気持ちが嬉しかっただけで」
雪の言っているこの前とは雪が来て一日目、男たちに襲撃されて、その後司が呆けた事を言って間宮を困らせた時の事だ。
雪は司がそういう事で喜んでいたわけではないと分かっているだろう。
それなのに、冷や汗を垂らす自分の婚約者の額を、意地悪く指で突っついた。
「婚約者としてはそういう趣味にも付き合ってあげないとダメね。これからもっと司を困らせて、我侭で振り回してあげる」
包帯を巻き終わった雪は、女王様風に司の頬をぺちぺちと軽く叩く。口はかろうじて笑っていないが、大きくて黒い瞳が笑いを含んでいる。
そして、そういう態度は、困ったことに彼女の貴族的で優雅な容貌に非常に合っていた。
司を弄ぶ事で雪は早くも完全復活を遂げている。
「まあ、雪ちゃんの我侭は別に嫌じゃないけど、…………いやいや、あの、違う。僕はそうじゃないから、違うから」
雪のそんな態度に、司は見蕩れて思わず間違った方向に口を滑らした。
慌てて訂正するが、
「明日、学校でトモくんにも司を嬲ってくれるように協力を頼んどくね」
と雪は更に悪い方向に持っていく。
司は、友宏なら簡単に悪乗りしそうなのが予想できて、
「違う! 僕はマゾじゃない!」
と慌てて叫んだ。
叫んでから大きすぎる声だった事に気付き、更に部屋の前に見張りが立っていることを思い出す。
悪い事は重なるもので、コンコンと扉を叩かれ、
「司様、橋本様がお見えになりました。お通しして宜しいでしょうか?」
「おーい、イチジョー。今、取り込み中? 危ない事とかしてる?」
と間宮と今日遊びに来る予定だった友宏の遠慮がちな声が聞こえた。
目の前の雪は、ニヤニヤと小悪魔ではなく悪魔のように笑っている。
司は、終わった、と感じた。




