37.ドSとDO M
司は、目の前で見た情景を否定したくて、でも否定し切れなくて、力なく、
「嘘だ」
と呟いた。
司のほうに否定する材料は何もなかったため、酷く頼りない反論だった。
「こんなに惨い人殺しをする生贄を放っておけないでしょう。即刻殺して罪を償わせ、人々の罪も浄化させるべきだとは思いませんか」
男は口だけでニタリと司に笑いかける。
司はなんとか否定したくて、回らない頭で必死に考え、答えを出した。
「力によって間接的に殺すことが人殺しというなら、既に僕は雪ちゃんが作り出した人を消している。間接的に殺す事が罪というなら、誰だって人殺しじゃないか」
「ほう、あの少女を弁護するんですか。まあ、分からなくもありません。生贄は誰よりも美しく気高く多くのものを魅了し、強大な力を持っている。でも、多分相手が生贄だからそういう生温い気持ちになっているだけです」
男の優しく諭すような声色に、司は頭を振った。
「違う! 雪ちゃんは確かに綺麗だけど、そんなんじゃない。泣いたり笑ったり怒ったり、ちょっと気の強い普通の女の子だよ。どこか一人で寂しそうで、僕はそんな雪ちゃんを守ってあげたいと思った」
「殺されたのも殺したのも生贄。生贄が死んでも人々は憎むことなく祈りを捧げる。人殺し、という説得の仕方はまずかったようですね」
男は穏かに話し、口だけ笑ったまま、勢いよく司の腹部に拳をめり込ませる。
男が拳を元に戻すと同時に、司の体が回りの机や椅子を巻き込みながら倒れる。夜の帳が落ちて冷たい木製の床が、少年の体温を無慈悲に吸収した。
司は痛みのあまりに声も出ず、意識を失いそうになりながら、必死に男に意識を傾ける。
このままだと調理部にいる雪に手を出されるかもしれない、といった恐れから、震える手を男の足に伸ばす。
男のスラックスに手が届く寸前で、ダンッと音がするほど強く司の足が磨き上げられた革靴に踏みつけられた。
司の声にならない悲鳴のような激しい息づかいと、男の曇った笑い声が静かな教室内に響く。
「元生贄、君の幼い恋心などどうでもいい。君は生贄に捧げられる事がどんなに光栄な事か知っているはずだ。君が今回生贄を生み出すための一番の鍵となる負の存在でなければ、均衡など気にせず殺したのだが」
司の手の甲に今にも骨が折れるような圧力がかけられる。男のぞんざいな言葉が幾つも司に突き刺さった。
「君はマゾヒストか? 時間をやるから、あの逃げ回る少女を説得しろ。でなければ、守るなんて馬鹿げたことを考えず放り出せ。あの少女が生贄に捧げられれば、我々が責任を持って日常に戻してやる。なるべくなら君は殺したくない。分かってくれるだろう?」
「い、やだ……ごほっ」
殴られた衝撃でままならない呼吸の下から、司が、なんとか拒否の言葉を紡ぐ。
すると、今度はわき腹に強烈な蹴りを入れられて、机にぶつかりながら仰向けに転がった。
司は男に説得されるほど、自分の中の雪への気持ちが固まっていくのを感じていた。背負いきれない罪や日常の誘惑と引き換えにしても、あの強くてもどこか寂しげな少女を守りたいと強く思った。
守りたい、とこんなに誰かを強く思ったのは初めてだった。
司は、最後の力を振り絞って、男の足に飛びついてしがみつき、そのまま意識を失った。




