36.ドS「大丈夫か?」
「あーあ、こうやって張り切っている時に限って躓くんだよな」
放課後の教室、乾拭き用モップを手にしている司の独り言が響いた。
友宏からのアドバイス、さっそく間宮さんに話そうと思ったのに、と溜息をつく。
クラスメイトから日直と教室の掃除当番を頼まれて断れずに、一人で掃除を続けているのだった。大勢でやればすぐに終わる教室掃除も一人でやると果てしない。
こんなときに頼りになる友人の橋本友宏は、高校から始めた軽音楽部に行ってしまっていない。
『後でね』と言っていた津川雪は、友達に誘ってもらったという調理部のお菓子作りに参加しに行ってしまっていた。
唯一、帰宅部の司が、夕闇迫る教室を念入りに掃除しているという次第である。
夕方、教室に残る生徒もなく、司は一人きりで黙々と床をモップで拭いていく。
「こんばんは、元生贄」
誰もいなかったはずの教室に、酷く冷たい声が広がった。
司は慌てて声がしたほうを振り返る。
窓際にダークスーツを纏ったあの陰鬱な男が立っていた。
外に刻々と迫る闇を吸収してできたかのような陰を極めた美貌は。間違いなく昨日、雪を狙っていた男だった。
「だれ……っ」
『誰か、助けて』と、とっさに叫ぼうとした司の口が、音もなく移動してきた陰鬱な男の大きい手に塞がれる。
そして、男の反対の手が司の鳩尾に鈍い音を立ててめり込んだ。
司は、気を失うまではいかなかったものの、内臓が握りつぶされるような強い衝撃で、その場に力なくゆっくりと崩れ落ちた。
「元生贄、大丈夫ですか? 昨日、あれから私なりに考えてみましてね」
口だけで笑い、『元生贄』と男は司に向かって実に親しげな甘い声で話しかける。
殴っておいて『大丈夫か?』はないだろう、と司ははっきりしない頭で考えた。
「どうやらあなたは津川雪が生贄だと信じていないようなので、大事な生贄の書を持ってきました。ほら、見てください。このページのまだ色が変っていない名前です」
「うぐっ」
殴られたせいで力が入らず俯き加減の司の後頭部の髪を、男がひんやりした手で引っ張った。司の目を、ふところから取り出した一冊の本に向けさせる。
生理的な涙でぼやけた司の視界に、古びたボロボロの紙へ黒い墨のような掠れた筆跡で書かれた『津川雪』という文字が飛び込んでくる。
その他にも英語で書かれた名前や、司には判読できない字で書かれたものもある。『津川雪』の前の字は全て血のような鮮やかな赤で書かれていた。
「生贄の処刑者に代々伝わる生贄の書です。あなたが元生贄である事もこの本が教えてくれました。最近、テロで死んだ人種問題に尽力していた者の名前も予言されていましたね。はら、ここに……と言っても確かこの者は、可笑しい事に津川雪の力によって死にましたが……くくっ」
口だけを歪めて男が笑う。
男の言葉を聞き、司は驚きのあまり息苦しくなって酸素を求める魚のように口で息をする。強く殴られた衝撃と未だ髪を掴まれている苦しさの為、喉からは風が抜けるような音がした。
男は、雪と司だけが知っているはずの、昨日テレビでやっていたテロ事件の真相を知っていた。
でも、まさか……。
「生贄があんな立派な処刑者の真似事とはね。何か不満そうな顔をしている所大変申しわけありませんが、津川雪が生贄を殺したのはこの生贄の書が教えてくれたのですよ」
「嘘だっ!」
司は、雪が間接的に人を殺したという事と『生贄』であるという事を認めたくなかった。認めてなるものかと思った。
男は司の叫びに、やれやれと冷たい目を崩さぬまま溜息をつく。掴んだままだった髪を放して英語で書かれた一つの名前を指先で軽く弾いた。それから弾いた指で、力なく崩れ落ちたままの司の額を軽く弾く。
今よりも幼い感じの雪が、憎しみのままにテロを生み出す様々な人物を作り出す様子や、優しげで美しい顔をした年の若い男性が爆発に巻き込まれて千切れ消える瞬間、その後悔い改め祈る人々等、様々な場面がまるで目の前で見ていることのように、司の頭を通過する。
通過する景色の中で、時を越えて、優しい目をした若い男と爆発で消える前に目があった。
……その暖かな瞳は、司を家族とでも見るような慈愛に満ちた目をしていた。同じ種類の人間に向けるような同胞への愛情に満ちていた。消えるその時まで優しい目をしていた。




