過去
僕は門崎伶麻。父と母、兄が二人居る。母がハーフだから僕にそれが片目だけ遺伝してしまった。
父と兄はこんな僕でも受け入れてくれた。あの三人は大好きだ。
しかし母は違った。僕の顔を見た瞬間、発狂したらしい。僕の面倒はほとんど父や兄が見て、母は一切育児はしなかったと聞いた。
周りからは奇異の眼差しを向けられ、母から毛嫌いされた。彼女は僕を蔑み、軽蔑した。
そんな僕は三人に守って貰ってばかりで自分では何も出来なかった。
「眼は誰にも見せちゃ駄目よ。ほら早く隠しなさい」
母が口を開けば僕の眼の事ばかり。
その母の言い付けを守り、前髪を伸ばし続けた。眼を見られるのを恐れて人と関わる事も極力避けるようにしていた。
小学生になり、僕は虐められるようになる。リーダーは藤原耀太だ。
彼は前から人を虐めるのが好きだったみたいで、たまに誰かが虐められているのを目撃した事もあった。
その矛先が僕に向いたのだ。
「伶麻くん」
休み時間、数人の男子生徒を引き連れて藤原くんはやって来る。
「…っはい」
小さく答えてみた。
「お前、幽霊みたいに暗いから渾名は伶くんだ!」
僕は指差されそう言い放たれる。
それを聞き周りの男子生徒は下品にゲラゲラと笑う。その他の生徒はただ見ているだけ。
当たり前だ。口出ししようものなら、多分次の標的にされる。皆はそれを恐れているんだ。
小学校低学年から始まった虐めは卒業するまで続いた。毎日毎日死にたくなった。
真冬に外に呼び出され冷水を浴びせられたり、靴を隠されたり、殴られたり蹴られたりもした。体中が痣だらけだった。
先生も クラスメートも 誰も助けてはくれなかった。ただ見ているだけ。
それもそのはず、藤原くんの家はお金持ちで逆らえば先生はクビにされる可能性があったからだ。
それでも家族には言わなかった。眼の事だけでも大変な迷惑をかけているのに、虐めだなんて聞けば苦悩するだろう。
僕は家族にそんな思いをさせたくなかった。だから頑張って毎日学校に行った。虐められると分かっていても行くしかなかった。
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そんなある日。確かこれは小学4年生ぐらいの時。
授業中、僕は鉛筆を落としてしまった。拾おうと思い鉛筆に視線を落とす。
見ると落ちたはずの鉛筆が消えていた。どこに行ったんだろう、と思っていると隣から声がかかる。
「伶くん」
思わずその声にびくついてしまう。
勢い良く声の主を見る。その人は男の子だった。誰だろう、この人。
普段から余り人と関わらない為、クラスメートの名前さえ分からない。
―――――眼が 合った。
眼を見られた。
彼は驚いたように目を丸くし、固まってしまう。
けれどはっと我に返ったように鉛筆を渡してくれる。僕は鉛筆を受け取り、小さな声でお礼を言った。
人から優しくされるのが久しぶりな気がして嬉しかった。最近は父や兄ともきちんと顔合わせしていない。
帰ると独りきりだから家ではずっと寝っぱなしだ。誰も居なかったから寝転んでずっと泣いていた。
泣いて目が腫れたとしても長い前髪では目元が隠れて見えない。こういう時は少し好都合だ。
この前、独りで家に居る時にコップを割ってしまい硝子の破片で手首を切った。流れ出る朱は美しく思わず見入ってしまった。
その硝子の破片を手に持ち、手首にそれを当てがう。そしてすうっと引くと赤いものが流れ出るのだ。その感覚が堪らなく好きで、つい癖になってしまった。虐められる辛さをその時だけは忘れる事が出来た。
それが自傷行為だと知ったのは後になってからだ。
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そういえば、僕の鉛筆を拾ってくれたのは何て名前の子なんだろう。不意に気になった。
隣の席で彼が笑っている。
「おい尚ー」
誰かが誰かの名前を呼んだ。
「何だよ」
あの子だ。あの子が笑ってどこかに走って行った。
名簿を見て、尚という名を見つけ出した。"松本尚"、それが彼の本名だった。
名前を知る事が出来て嬉しい気持ちになった。
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卒業し、虐めは終わりを告げた。
中学に入学してからも僕の人へ対する態度は変わらなかった。なるべく人を避け、関わらないようにする。
当たり前だが今まで友達なんてもの出来た事が無い。
虐めは終わったが幸福感が訪れる事はない。
――…そして、あの日。
いつもと何ら変わらない日だった。
突然、家の電話が鳴る。二人の兄が珍しく家に居て長男、馨が電話に出て言葉を失う。
「…はい、分かりました。…はい、今から行きます」
そんな風に言い受話器を置く。
「馨、どうしたの?」
次男の漱汰が訪ねる。
「父さん、が……」
震える声で彼は言う。
父さんが
死んだ。
馨兄ちゃんの口はそう動いた。
なに、それ。
目の前が真っ暗になる。
気付けば僕は狂ったように叫んでいた。
「うわあぁああぁ、あぁあぁあぁぁあ…っ!!」
涙より先に声が溢れた。
「落ち着け、伶麻!」
耳元で漱兄ちゃんの声が聞こえる。どうやら抱き締められているようだ。
「ああ、うあ…っやだ、嫌だあぁああぁあぁあぁああ」
頭がぐらぐらする。息が上手く出来ない。
「伶麻…!!」
馨兄ちゃんが駆け寄って来て僕の名前を呼んだ。
僕は声が枯れるまで泣き叫んだ。それはまるで狂人のように。その間兄二人はずっと僕を抱き締めてくれていた。
少し落ち着き、馨兄ちゃんにおんぶして貰って病院に向かった。既に母が居て、遺体の隣で泣き崩れていた。
父は眠ったように死んでいた。顔には痣や切り傷があり、痛々しかった。
僕は遺体を見て吐いた。食べたもの全てを吐き出してしまった。馨兄ちゃんは母に付き添っている為、漱兄ちゃんが僕の傍に居てくれた。
気付いたらいつの間にか火葬は終わっていて、僕は家に寝かされていた。
少しの間何か口にしても吐き、学校にも行く事が出来なくなってしまった。
僕がそういう状態だった為に兄二人は付きっ切りで面倒を見てくれた。
早く元気にならないと。そう思い必死に笑顔を繕ってみた。僕が作り笑顔を向ける度に二人は辛そうにしていた。
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やっと少し食べれるようになり、学校に行けるようになった。
そんな頃、母が知らない男性を家に連れて来た。感じの良い人で、兄たちも歓迎していた。
けれど僕はその人の事が好きになれなかった。
その人はよく家に居て母は仕事、兄二人は高校なので二人きりになる事がよくあった。僕が中学から帰るとほぼ毎日彼は居た。
「おかえり、伶麻くん」
にっこり笑顔で彼はいつも迎えてくれた。
人付き合いが苦手な僕はお辞儀するしか出来なかった。
「ねぇ伶麻くん。俺の事嫌いなの?」
ある日そう尋ねられる。
「そんな訳じゃ…」
目を反らして答えた。
「じゃあこっちにおいで?」
ほぼ強制的に彼は僕を引き寄せた。
そして無理やりキスをされる。驚いて彼を突き放してしまった。
「…いってぇなあ!」
逆ギレしてあの人は僕を殴る。
「ご、ごめんなさいっ…」
身体に痛みが走って急いで謝った。
「悪い子にはお仕置きが必要だな」
彼はそう言うと僕の制服を脱がせ、押さえつけた。
何をされるんだろう。そう思っているとカチリと音がした。振り向いて音の正体を確認する。
ライターだった。煙草に火が付いている。
ジュー、と音を立てて付けたばかりの煙草が背中に押し当てられた。
「熱い……っん、うぅ」
叫ぼうとしたら口に指を突っ込まれる。声を挙げるにも挙げられなくなる。
「お母さんやお兄ちゃんに言ったら……どうなるか分かってるよね?」
彼は耳元でそう囁きながらまた違う箇所に煙草を押し当てる。
「んーっ、んぅ…!!」
涙を流しながら必死に頷く。
熱い、痛い、怖い。いろんな感情が駆け巡った。
こうして僕はこの人に怯える日々が始まった。母や兄が居ない時に限ってこの人が居る。
何度もキスをせがんで来た。それを拒むと必ず"お仕置き"された。
根性焼きされたり、殴られたり、蹴られたりした。もう僕はぐちゃぐちゃだった。
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そしてあの日がやって来た。
いつものようにキスをせがまれ仕方無く受け入れた。しかし今日はそれだけで済まなかった。
彼は服の中に手を忍ばせて来る。
「や…やだ…っ」
そんな彼の腕を掴むも怖くて力が入らない。
「可愛いねぇ…伶麻くん」
耳元でそう囁き、彼は首筋をべろりと舐める。
「……っ」
気持ち悪くて、怖くて、声にならなかった。
急に下着ごとズボンを脱がされて、彼自身が当てがわれる。
まさか。
一気に嫌な予感が過ぎる。
そんな予感がした瞬間に彼のモノが中に入って来た。
「いっ…!!」
凄く痛かった。まるで何かが突き破られたような感覚だ。
「…っ痛い?」
快感なのかあの人は笑顔を歪ませて僕を見下ろし尋ねる。
こくこくと頷けば彼は余計に腰を突き上げて来た。
何度も何度も僕の中へとぶちまけ、ぐちゃぐちゃになった。身体全体が痛んだ。
体中、彼の欲望まみれになって気持ち悪かった。生きている心地なんてしなかった。
もう どうでもよくなった。
僕はぼーっとして天井を見て転がされたままになっていた。
――――――ガチャッ…
音を立てて玄関が開かれた。
兄二人が笑いながら帰って来ていたのに、部屋の中を見て目を見開き息を呑む。
「…っお前、伶麻に何して…」馨兄ちゃんが言い終える前に漱兄ちゃんがあの人に殴りかかる。
バキリと鈍い音が鳴り、彼が吹き飛ぶ。
「伶麻に何してんだ!!」
声だけが聞こえる。
「やめろ漱汰…っ」
尚もあの人に殴りかかろうとする漱兄ちゃんを馨兄ちゃんが押さえつける。
「出てけ!この家から早く出て行けよっ…!!」
漱兄ちゃんは殺気に満ち溢れた声で彼に怒鳴り散らす。
そんな態度に驚いて彼は急いで出て行った。
「…伶麻…」
ぐったりとした僕に二人が駆け寄って来る。
応答する気力なんてなかった。ぼんやりと彼等を見上げる。
「ごめん、伶麻…っ」
馨兄ちゃんは僕の眼を見て泣きながら謝る。
「助けてやれなかった…!!」
続いて漱兄ちゃんも僕に謝った。
そんな二人の顔は悲しそうだったけれど、今の僕には何も感じる事が出来なかった。
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外に出られなくなった。
もしかしたらあいつが居るかも知れない。そんな事を考えたら外出なんて恐ろしい事、出来ない。
前みたいに食べては吐き、食べては吐きを繰り返す内に吐くのが嫌になって何も食べなくなった。
兄二人が僕にまた付きっ切りになった。急いで治そうとしても少ししか食べれなくなってしまった。
食べれるようになったので二人は学校に行くようになり、僕は毎日家で留守番をしていた。
母が自殺した。あの人が居なくなってヒステリックを起こし歩道橋から飛び降りたみたいだ。
何も 感じなかった。兄たちは泣いていた。僕はただぼんやりとそんな兄たちを見ているしか出来なかった。
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「母さんは僕らを捨てて逃げたんだ。馨兄ちゃんと漱兄ちゃんが…」
「…もういい」
途中で尚に言葉を遮られる。
「………」
ぼーっとしながら彼を見詰めた。
「嫌な事思い出させてごめん」
そう言って僕は身体を抱き締められる。
「大丈夫」
彼の服を握ってみる。
尚の身体が少し震えているように感じた。
「尚?」
何だか不安になって彼の名前を呼んでみた。
「少しだけ動くな」
命令口調の尚が言った。
「…分かった」
そんな彼にわざわざ言いなりになってる僕は多分馬鹿なんだろう。
尚に抱き締められると胸が苦しくなる。尚の事以外、何も考えられなくなってしまうんだ。
何だか泣き出したい気分になって それを抑えるのが精一杯で 痛くて切なくて、それなのに心地良くて。
これが何ていう気持ちなのか僕には分かりもしない。
けれど。
駄目だ、こんなの。
僕はあの人に犯されて穢れてるんだ。汚い。汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い。
気付いたら尚を突き放してしまっていた。
「…伶麻?」
キョトンとした顔で彼は僕の名前を呼んだ。
「……帰って」
俯いてそう告げる。
「嫌だ」
前から尚の視線を強く感じた。でも僕は顔を上げずに黙り込んでいた。
僕みたいな奴に関わったら彼まで穢れてしまうような気がして怖くなった。
だって尚にはあんな暖かい家族が居て、この人は穢しちゃいけない。そう思ったから。
だから駄目なんだ。僕と関わりなんか持たない方が良いに決まってる。絶対に。
「早くっ、早く帰っ…」
声が上手く出ない。視界が歪む。目が 喉の奥が 身体が熱い。
…僕は 泣いている?どうして泣く必要なんかあるんだ。別に泣く事じゃないのに。
そう、戻るだけ。僕は引きこもりで尚は高校の一生徒。ただ戻るだけ。
それだけなのに。
本当にそれだけの事なのに。
尚に会えなくなると思うと苦しくなった。とても胸が痛くて。
「帰れよ…っ頼むから…!!」
口ではそう言いながらも傍に居て欲しくて。ぼろぼろと涙が溢れて止まらない。
もう会えなくなる。そんな考えが頭を巡って来た。
「伶麻」
名を呼ばれ上を向かされる。
「……っ」
すぐそこには尚の顔があって、どこを見れば良いか分からない。
「それ、本気で言ってんの」
低い声で彼は言う。
「…っあ、ぐ」
声が掠れてちゃんと出ない。
「答えろ伶麻」
真剣な瞳が僕を見てる。目を離したいのに離せなくなってしまう。
本気じゃない。帰ってなんか欲しくない。
「けど尚は…僕と一緒に居ちゃいけないから」
帰らないで。そう言いたい気持ちを必死に飲み込む。
「何言ってんだお前」
呆れ顔が溜め息混じりに言う。
「僕は汚い、から…っ」
お願いだから帰って欲しい。泣き顔なんて見られたくないのに、気持ちが涙になって零れる。
これ以上 近付いてはいけない。頭ではちゃんと分かっているんだ。
「伶麻は汚くなんかない」
余りに酷く傷付いた顔で言うから。
そんな辛そうな顔で言う尚に、これ以上帰れなんて事を言えなかった。
目を伏せると再び身体が引き寄せられた。暖かくて心地良くて。
また涙が溢れ出してしまった。
ごめんなさい、ごめんなさいと何度も謝った。その度に尚はいいよと言い、僕を許してくれた。
尚と一緒に居ると苦しいのは確かだ。でも安心するのも確かで、今はそっちの気持ちの方が大きい位だ。
「尚、尚…っ」
名前を呼ぶ声が震えてしまう。
「泣くな」
耳元で囁いたその声は悲しげで、余計涙が溢れた。
尚が悪いんだ。こんなに優しくするから涙が止まらなくなる。胸が苦しくてどうしようもない。
怖い。尚が離れて行ってしまうんじゃないかと考えるだけで不安になる。父のように突然消えてしまうんじゃないかって。
「帰らないで…っお願い」
さっきと逆の事を泣きながら言った。
「伶麻がいいって言うまで居る。離れないから」
そんな風に言われたらずっと離れたくないと思ってしまう。
「…ありがと」
小さくお礼を言い、彼の背中に腕を回し抱き締め返す。
「それに、一緒に居ちゃいけないなんて誰が言った?…居るか居ないか決めるのは俺だ」
尚の大きな身体に簡単に包まれてしまった。
それを聞いてまた涙が溢れた。呼吸が乱れる。嬉しくて切なくて。離したくないと思った。
尚が僕を抱き締める力強さは痛かったけど嬉しかった。
こんなに近くに居る。もっともっと触れていたい。この気持ちは何だろう。よく分からない。
「…だから…俺は離れない。ずっと伶麻の傍に居る」
荒い息遣いで尚が言った。
「尚…?」
様子の異変に気付き、名前を呼ぶ。
「はあっ…」
身体が凄く熱くて、顔が赤らんでいる。
「…っ熱がある」
彼の額に触り、発熱している事に気付く。
そうだ、そういえば尚は風邪で倒れていたんだ。きっと熱が上がってしまったんだ。
「尚、早く家に帰ろう。熱が出て来た」
ぐったりとしている彼に呼びかけた。
「これ位、大丈夫だ」
僕から離れて尚は笑みを浮かべる。笑っているものの余裕は無さそうだ。
「駄目だよ、帰って早く看病して貰わないと」
僕は彼に帰るよう促す。
「伶麻は看病してくれねーの?」
熱に潤んだ瞳が僕を捉え、そう尋ねられる。
「…っこんな時に何言ってんの。家族に看病して貰いなよ」
ばっと視線を反らしそうあしらう。
「冗談。伶麻が言うなら帰る」
そう言った彼を支え、玄関まで送る。
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尚の家を開けると、予想外の人物が玄関に立っていた。
「……尚」
その人が口を開く。
「あ、恒誠?何してんの」
尚の友人、恒誠だった。
「お前が心配で来たんだよ。つか何してんだお前ら」
僕と尚を見て彼は眉間に皺を寄せて不機嫌そうにしている。
「何でもねー。…ありがと、伶麻」
そう言い尚は僕の頭を撫で、軽く背中を押した。
帰ろうと思い背を向け歩き出すと後ろで恒誠くんの声がした。
「お前、あいつと何してたんだよ。風邪引いてんのに阿呆か」
どうやら怒られているようだ。
「何もねーって。俺が勝手に行っただけだし、伶麻は何も悪くねーから」
これは庇ってくれてるの、かな。
そんな事を思い、嬉しくなりながら僕は家に帰って行った。