百人待ちの試験営業
「注文したのは、魚の缶詰です」
宗久が見本の缶を見せると、魚屋の男は大樽をたたいた。
「だから魚を持ってきた」
「缶詰は日本から届きます」
「うちの魚を、その鉄へ入れるんじゃないのか?」
どこで話が変わったのか。
発注記録を確認すると、原因はすぐに分かった。昨日、市場でロアンが両替を呼びかけたとき、店の説明として「魚を鉄の中へ入れて売る」と話していた。魚屋は加工の依頼だと思い、売れ残る前に活魚を運んできたらしい。
「ロアン」
「嘘は言ってないだろ」
「大事なところが抜けてる」
「日本の魚だなんて、俺も知らなかった」
宗久は十八品の商品一覧を見せた。魚の缶詰は日本から一本。現地の生魚は入っていない。
魚屋は大樽の蓋を閉めた。
「なら持って帰る。運び代は払え」
当然の要求だった。注文書はないが、店員の説明を信じて運んできた。店側に責任がないとは言えない。
「運び代は払います。魚も少し売らせてもらえませんか」
「店長」と雨宮が止める。
「商品を増やすには組合への申請が必要です。冷蔵試験も終わっていません」
「今日売るんじゃない。明日、魚を冷やす方法を試したい」
「その魚、明日までもたないぞ」と魚屋。
「生きたままでも?」
「樽の水じゃ弱る。夜までだ」
試験営業まで二日。ここで三樽買えば、開店前に廃棄になる。
「一樽だけ買います。残りは運び代を払って持ち帰ってもらう」
「一樽で何をする」
「冷やして、締めて、明日まで品質を確かめます。問題がなければ、次の営業から仕入れを相談したい」
魚屋は宗久を値踏みするように見た。
「死んだ魚を、誰が買う」
「この街では売らないんですか」
「朝に捕った魚は昼まで。夕方には塩漬けだ。翌日の魚なんて、貧民街でも売れん」
冷蔵する習慣がないなら、冷やした魚の価値も知られていない。売れるかは別の問題だった。
「だから試します」
一樽分を買い、魚屋にも作業を見てもらった。
ネネが手早く魚を締め、内臓を外す。宗久は温度計で魚体と冷蔵箱の温度を測った。水気を拭き、重ならないよう金属の盆へ並べる。
「冷え石を腹へ詰めた方が早い」とネネ。
青白い石を布で包み、魚の腹と盆の下へ置いた。日本の冷蔵箱と現地の冷え石を一緒に使う。
「そんなに冷やしたら、凍るぞ」と魚屋。
「凍らせません。朝までこの温度を保ちます」
温度、時間、匂い、目の濁り、身の張り。確認項目を札へ書く。魚屋は文字を読んだあと、冷蔵箱の前へ座った。
「帰らないんですか」
「うちの魚だ。朝まで見る」
「買いましたけど」
「俺が見る」
頑固さでは、ネネと合いそうだった。
翌朝、魚は冷えていた。
魚屋が一尾をさばき、薄く切る。匂いを嗅ぎ、身を指で押し、火を通して自分で食べた。
「昨日より、身が締まってる」
「売れそうですか」
「死んだ魚だぞ」
「味を聞いています」
「……うまい」
宗久も焼いた身を口へ入れた。淡泊だが脂があり、塩だけで十分だった。
試験営業の商品には加えない。販売許可も説明も間に合わないからだ。代わりに、開店時の試食として少量を出す許可を組合へ申請した。
ヴァルドは申請書を読んで顔をしかめた。
「十八品で始めると言った翌日に、魚を増やすのか」
「売りません。現地の魚を冷やすとどうなるか、味を見てもらいます」
「客寄せだろう」
「客は呼びたいです」
「正直に言えば通ると思うな」
「通りませんか」
ヴァルドは魚屋の署名と、温度記録を見た。
「加熱した物だけ。一人一切れ。残りは日が一番高くなる前に処分しろ。腹を壊した者が出たら、すぐに営業を止める」
「分かりました」
「あと、魚屋の名前を札に書け。異邦人の魚だと思われたら、市場の商売にならん」
反対するだけの男ではない。地元の商人を守るためなら、店の使い方まで考えている。
「ありがとうございます」
「礼を言うな。保証人の仕事だ」
開店前日。
グレンの白根と土中芋、ミーナの葉野菜、サナとメルの火蜜の実が届いた。ネネが鮮度を確認し、宗久とロアンが数量を数える。雨宮は契約書と納品書を照らし、支払先まで読み上げた。
日本からは、しょうゆ一本、植物油十本、乾麺二十袋、魚の缶詰二十四個が届いた。
「缶詰、一個じゃなかったんですか」
「見本販売は一本。缶詰は一箱です」と雨宮。
「商品一覧の『一本』、しょうゆのことか」
「現地語では瓶も缶も同じ数え方になっています」
「開店準備中に作った番号と絵札がなければ、また間違えていた。」
売場へ十八品を並べる。
青果だけで埋めず、日本の商品を入口から見える棚へ置いた。魚の缶詰には、中身を描いた札。乾麺には鍋と水の量。植物油には獣脂との違い。しょうゆには豆と麦を使っていることを示す。
生活用品も、肉も、パンも、惣菜もまだない。
それでも、ここは八百屋で終わる店ではない。十八品は、何千品へ増やすための最初の売場だった。
ネネは焼いた魚を小さく切り、木串へ刺した。一人一切れを守るため、用意した串の本数も数える。リリアが一本へ手を伸ばし、手の甲を軽くたたかれた。
「味見は朝しただろ」
「昨日の魚と今日の魚、違うかもしれない」
「それを確認するのはネネです」
ネネが一切れ食べ、うなずいた。
「大丈夫。昨日より少し固い。でも臭くない」
「札には『冷やして一晩置いた魚』と書いてください。朝捕れとは書かない」
「うまければ同じじゃない?」とリリア。
「同じじゃない。客が知ったうえで食べる」
魚屋の名前、捕れた川、処理した時刻、加熱済みであることを札へ書いた。日本の冷蔵箱だけを宣伝するのではなく、魚屋とネネの仕事も分かるようにした。
魚の缶詰は別の棚へ置く。生の魚と取り違えないよう、開けた見本をガラス容器に入れて展示した。
「鉄の中で泳いでない」とリリア。
「最初から言ってるだろ」
「ロアンは泳いでるみたいに説明した」
「してない」
「魚屋はそう思ったぞ」とガルド。
ロアンは缶詰の説明札へ、自分で『日本で調理済み』と大きく書き足した。
夜、全員で店内を歩いた。
入口で籠を取る。青い線に沿って商品を選ぶ。会計台で支払い、黄色い線から出る。冷蔵箱の温度、釣り銭、価格札、消火用の砂、裏口の施錠を確認する。
「明日は、全部うまくいきますか」
リリアが聞いた。
「うまくいかないところを見つけるのが、試験営業だ」
「失敗していいの?」
「客に怪我をさせない。腹を壊させない。金を間違えない。そこは失敗しちゃだめだ。それ以外は、直せばいい」
雨宮が点検表の最後へ印をつけた。
「店長。今日は帰って寝てください」
「雨宮さんは?」
「釣り銭をもう一度数えます」
「二人で数えて封をしたでしょう」
「念のためです」
「数え直すなら、俺も残ります」
「店長が残ると、私も帰れなくなります」
「じゃあ帰りましょう」
雨宮は釣り銭箱を見たが、手を離した。
「分かりました」
翌朝。
宗久は日の出前に店へ着いた。
入口の向こうから、人の話し声が聞こえる。
外へ出ると、店の前から通りの角まで列が続いていた。籠を持った者、子どもの手を引く者、作業着のまま来た者。先頭には、買い物籠の練習へ参加した女がいる。
「何人います?」
雨宮が列を数え始める。
「百を超えてます」とロアン。
「目標来店客数は百人でしたね」
「一日で、です」
開店前に達成してしまった。
鐘が鳴るまで、あと十分。
宗久は全員を集めた。
「入口はリリア。籠は一人一つ。ロアンは売場。ネネは魚の試食。ガルドは出口。ポルカは設備。雨宮さんは会計、私は全体を見ます」
「分かりました」
返事が重なる。
宗久は店の鍵へ手をかけた。
「異世界一号店、試験営業を始めます」
扉を開けた瞬間、百人の客が一斉に前へ動いた。
「走らないでください!」
最初の仕事は、商品を売ることではなかった。
入口へ押し寄せる客を、止めることだった。




