買い物籠を持たない客
「籠は持ってこなくて大丈夫です」
宗久が説明すると、店の前に集まった人々は一斉に自分の籠を見た。
「じゃあ、この絵は何だ」
先頭の女が看板を指さす。
リリアが描いた大きな籠。その周りに魚、パン、壺、布。宗久たちには品ぞろえを表した絵に見えたが、現地の人には「籠を持つ者だけが入れる店」と読めたらしい。
「店の中で使う籠です」
「店の籠を持ち帰っていいのか?」
「持ち帰らないでください」
「なら、何に使う」
もっともな疑問だった。
市場では、客が店ごとに商品を買い、自分の籠へ入れる。一つの店内を歩いて、青果や魚や調味料をまとめて選ぶ習慣がない。
「中で品物を選ぶ間だけ使います。最後にまとめて代金を払います」
女は怪しそうな顔をした。
「先に品を渡すのか」
「店の外へ出る前に払ってもらいます」
「持って逃げたら?」
「入口は一つです」
説明しているうちに、宗久自身も不安になってきた。
試験営業では三十個の買い物籠を使う予定だった。日本から届いた樹脂製の籠は軽く、丈夫で、重ねて置ける。しかし、持ち手を上げるだけでも、見物人から声が上がった。
「曲がったぞ」
「取れないのか?」
「動くように作ってあります」
ガルドが一つ持ち上げ、腕へ通した。
「盾には薄いな」
「盾ではありません」
リリアは籠を頭へかぶった。
「雨、入らない」
「帽子でもない」
試験営業まで四日。客に使い方が伝わらなければ、入口で全員が止まる。
「練習しましょう」
宗久は店員をいったん外へ出した。
入口で籠を一つ取る。平台から白根を選ぶ。棚から空の缶詰見本を取る。会計台で代金を払い、商品だけ自分の袋へ移し、籠を返す。
一連の動きを見せてから、リリアに客役を頼んだ。
「いらっしゃいませ」
ロアンが入口で言う。
リリアは籠を取らずに、平台の白根を両腕いっぱい抱えた。
「籠を使って」
「忘れた」
「見本を見せたばかりだろ」
「お客さんも忘れるよ」
そのまま進み、魚の缶詰を白根の上へ載せる。缶が転がり、ガルドの足元へ落ちた。
「痛いぞ」
「だから籠が必要なんです」
宗久が拾って渡すと、リリアはようやく入口へ戻った。
二度目は籠を使ったが、会計を通らず入口から出ようとした。
「待て!」
ロアンが腕をつかむ。
「客を捕まえない!」
「盗もうとしただろ!」
「出口が分からなかっただけ!」
宗久は売場を見回した。
入口と出口を同じ扉にしていた。日本の店なら、レジの位置を見れば流れが分かる。しかし、初めて来る客には、どちらへ進むべきか分からない。
床へ色をつけることにした。
入口から売場へは青い線。会計台から出口へは黄色い線。ポルカが木札へ足跡を彫り、リリアが籠を持つ人の絵を描き直す。
「今度は頭にかぶってないな」とロアン。
「ガルドにした」
絵の人物には、角と大きな肩があった。
「俺か」
ガルドは気に入ったらしく、札を入口の一番目立つ場所へ立てた。
見物人にも、一人ずつ練習へ参加してもらった。
最初の女は籠へ白根を十本入れたあと、会計台で一本だけ買うと言った。
「残りは売場へ戻します」と宗久。
「自分で戻す」
「場所が違うと、数が合わなくなるので店員が戻します」
「盗んだと思われないか」
「思いません。買うのをやめる商品は、ここへ置いてください」
会計台の横へ、戻し商品用の籠を用意した。
次の男は、自分の籠へ商品を入れたがった。
「店の籠だと、俺の物と混じる」
市場で買ったパンと薬草が、すでに入っている。
「店内では店の籠を使ってください。お会計が済んだら、ご自分の籠へ移せます」
「面倒だな」
「未会計の商品を見分けるためです」
説明札に、店の籠と客の籠を色分けして描き足した。
三人目の老人は、籠を持ったまま会計台の前で止まった。
「金はいつ払う」
「ここでまとめてです」
「野菜屋には野菜屋で払わんのか」
「この店の商品は、全部ここで払えます」
「魚も油も?」
「はい」
「値切るのは誰に言う」
「値段は全員同じです。値切れません」
老人は不満そうだったが、後ろで見ていた女が口を挟んだ。
「顔を見て高くされないなら、その方がいい」
ロアンの表情が変わった。彼がこの店へ来た理由に触れる言葉だった。
「値札は、誰が来ても同じです」
ロアンが自分から説明した。
「買う前に値段を見られる。会計で違う額を言われたら、店長か俺に言ってください」
「お前、バルガスの息子だろ」
「今はこの店の店員です」
ロアンは目をそらさずに答えた。
四人目は、子どもを三人連れた母親だった。
母親が籠を取ると、子どもたちも一つずつ欲しがった。空の籠を持たせると、三人は店内を走り始める。
「走らない!」
リリアが追いかけ、同じ速さで走った。
「リリアも走らない!」
宗久が止める。
子どもの一人は籠を床へ置き、弟を中へ座らせた。もう一人が持ち手を引っ張る。樹脂の底が石床を滑り、平台へ向かった。
ガルドが片手で籠ごと持ち上げた。
「荷車ではない」
子どもは宙に浮いた籠の中で笑っている。
「本人は楽しそうですけど」
「下ろしてください」
入口に、子どもだけで籠を持たせないという決まりを加えた。親子一組で一つ。走った場合は店員が声をかける。割れ物と缶詰は、子どもの頭より高い棚へ移す。
「子どもが取れなくなる」とリリア。
「必要なら店員が取る」
「子どもだけで買いに来たら?」
「そのときは一緒に回ろう」
リリアは入口担当の札を見て、背筋を伸ばした。
「私が案内する」
「頼む。ただし、売場を走るなよ」
「走らない。急ぐだけ」
「同じだ」
次に入った男は、商品を籠へ入れるたびに会計台へ来た。白根一本で一回、葉野菜一束で一回、油一本で一回。
「まとめて払えますよ」と雨宮。
「金を払ってない物を持ち歩くのが落ち着かん」
「籠へ入れた段階では、まだ店の物です」
「落としたら?」
「壊した場合は相談します。手に取っただけで買う義務はありません」
男は油の瓶を棚へ戻した。
「買わなくても怒られないのか」
「怒りません」
商品へ触れたら買わなければならない店も、市場にはあるらしい。自由に選べることは、籠の使い方と同じくらい説明が必要だった。
入口の札へ、商品を手に取り、棚へ戻す絵も加えた。ただし、生の魚と試食には触れない印をつける。
練習に参加した客からは、店内が広くて落ち着かないという声も出た。市場なら店主が目の前にいるが、棚の間では誰に聞けばよいか分からない。店員は同じ色の前掛けを着け、胸元へ名前と担当商品の絵札を下げることにした。
文字を読めない客でも、葉の札なら青果担当、魚の札なら鮮魚担当と分かる。リリアは入口を示す籠の札を選んだ。
練習は昼まで続いた。
客役を頼んだ二十人のうち、一度で会計まで進めたのは三人。籠を自分の物だと思った者が六人。途中で商品を食べようとした子どもが二人。入口から逆に入った者が五人。
「本番で説明する店員が要ります」と雨宮。
「入口にリリア、売場にロアン。ガルドは出口。ネネは青果と試食。ポルカは籠と設備を見てもらう」
「店長と私は会計ですね」
「最初は二人でやりましょう」
役割を書いた札を壁へ貼る。
雨宮が会計台の引き出しを開けた。中には本社が両替した現地通貨が、種類ごとに分けてある。
「釣り銭も確認します」
ロアンが中をのぞき込み、すぐに顔をしかめた。
「これじゃ足りない」
「試験営業の売上予測から計算しています」
「みんな、大きい銀貨を出すぞ」
「市場では銅貨を使っていました」
「店が値切れないなら、客は細かい金を持ってこない。銀貨を崩す場所にも使われる」
宗久は釣り銭の仕切りを見た。
銅貨は百八十枚。
「初日の午前中でなくなるな」




