岡山の心中について一言モノ申す
岡山で、17歳の男女が死んだというニュースを見た。
向かい合って倒れていたという。果物ナイフが一本。左胸に一カ所ずつ。
いわゆる心中というものだろう、きれいな話だと思う人もいるかもしれない。愛し合って、一緒に、というやつだ。
これからの変わりゆく世界を考えると、アナガチ間違ったチョイスではなかったのかもしれない。
でもわたしは思った。
もったいない。死んで花実が咲くものか、と。
いや、もったいないなんてもんじゃない。
17年間、ごはんを食べて、風邪をひいて、テストで焦って、好きな人ができて、その先がまだいくらでもあったのに、全部ナシになってしまった。
自分は、死というものについて、わたしはわりとシンプルに考えている。
どんなことをしても、生きたら勝ち、死んだら負け、である。
これを言うと「そんな単純な話じゃない」とか「命の重さは勝ち負けじゃない」とか、いろんな人がいろんなことを言ってくるのだが、わたしはそのたびに心の中で「いや、負けでしょ」とつぶやいている。
だってそうではないか。
どんなに美しい恋をしていても、どんなに純粋な気持ちがあっても、死んでしまったらそこで終わりである。続きがない。エンドロールも流れない。
ただ、終わる。
でも、人間というのは不思議なもので、追い詰められると「死」の方向に走ってしまうことがある。
しかし、わたしに言わせれば、そこはグッとこらえて、ど汚くドブネズミのように生きてほしいのである。
ど汚く、というのはどういうことか。
たとえばである。
相手が「一緒に死のう」と言ってきたとする。
そのときわたしなら、間髪入れず「いや、わたしはやめとく、自分だけで死ね」と言う。
もしくは下半身まる出しの格好をして素早い摺り足で近寄り、(性的な意味で)「殺してしんぜよぉ!!」「オホホホホホ」「ヒョー!!」「ギョエ〜!!」などの奇怪な言動を行うやもしれない。
それで相手に恨まれても、薄情者と呼ばれても、まあ仕方がない。ふたりとも生きている方が絶対にいい。
薄情でけっこう。卑怯でけっこう。外道でもけっこう。
自分はとにかく生きる。
もう少し極端な話をしよう。
船が沈みかけているとする。波は高く、岸は遠く、浮き輪は一つしかない。
そのときわたしはどうするか。
正直に言う。
たぶん、相手を踏み台にしてでも浮き輪をつかむ。
ひどい話である。我ながらひどいと思う。
でも死にたくないのだから仕方がない。後で陸に上がってから、思う存分反省する。
土下座でも何でもする。生きていれば、反省できる。溺れ死んだら、反省もできない。
飢餓の話もしよう。
戦争や災害で、食べるものが何もなくなったとする。
隣で人が死んでいる。そのとき人間はどこまでできるか。
歴史を調べると、人間というのは本当に極限状態になると、考えられないことをやってでも生き延びようとする。わたしも、おそらくその一人になると思う。
きれいごとを言えるのは、お腹が満たされているからである。
パリであったようなテロが起きたとしよう。
銃声が響いて、爆発が起きて、人が逃げ惑っている。そのときわたしはどうするか。
正直に言う。
恋人を踏みつけにし、子を手に持って盾にしてでも、逃げ延びると思う。
ひどい親である。ひどい恋人である。
人間のクズと言われるかもしれない。でも生きて逃げ延びた後で、思う存分後悔する。泣いて謝る。一生引きずる。
でも、それでいい。
生きていれば、後悔できる。死んでしまったら、後悔する機会すら来ない。
後で批難ごうごうかもしれない。 ネットに晒されるかもしれない。白い目で見られるかもしれない。
でも、某国の指導者がかつて言ったそうだ。
「悪評で国が滅びることはない」
これは真実である。
国だけではない。人間も同じだ。
悪評が集中したくらいでは、人間は死なない。
あくまでも人間を殺すのは、銃弾であり、爆弾である。
悪口では死なない。陰口では死なない。批難では死なない。ならば、生き延びた方が正しいのである。
きれいな評判を抱えたまま死ぬより、汚名を着せられながら生きている方が、断然マシである。
これはSNSの炎上についても、まったく同じことが言える。
ちょっとした失言や、誰かに撮られた動画一本で、何万人もの見知らぬ人間から罵倒される時代になった。
そのプレッシャーに耐えられず、命を絶つ若者が後を絶たない。
それを聞くたびに、わたしはもったいないと思う。
放置すればいいのである。
SNSというのは、所詮は画面の向こうの文字である。
どれだけ罵倒されようと、どれだけ拡散されようと、その言葉は銃弾ではない。爆弾でもない。
痛くも痒くもない。悪評では社会的には死ぬかもしれないが、それでも人間は死なないのである。
ログアウトして、飯を食って、寝ればいい。
翌朝になっても炎上が続いていたら、また寝ればいい。
一週間もすれば、世間は別の炎上に飛びついている。そういうものである。
もし言葉だけでは飽き足らず、実際に投石などの実力行使をしてきたとする。その時はじめて動けばいい。器物損壊なり、脅迫なり、立派な犯罪である。警察に淡々と被害届を出して、法律に粛々と裁かせればいい。
つまり、言葉には言葉以上の力はない。
画面の向こうの罵倒で死ぬことはない。死ぬとしたら、その言葉を真に受けて、自分で自分を追い詰めた結果である。
それは悲しいが、敵は外にいたのではなく、内にいたのである。
生きていれば、炎上は必ず冷める。
戦国武将の斎藤道三はこんなことを言ったそうだ。
「犬でも生きてりゃ明日はくる」
道三といえば、美濃の蝮と呼ばれた男である。
油売りから成り上がり、謀略と裏切りを駆使して一国の主になった。お世辞にも、きれいな生き方ではない。でもその汚い生き方の果てに、戦国時代を動かすほどの男になった。
生きていたから、できたことである。
きれいに死んだ人間は、歴史に名を残すかもしれない。でも道三のように、どろどろと汚く生き延びた人間は、歴史を動かす。
わたしは歴史を動かすつもりは別にないが、それでも生きていたい。
特攻というものについても、一言言わせてほしい。
若者が飛行機ごと敵艦に突っ込んでいく。
国のために、天皇陛下のために、と言って死んでいった。美談として語られることも多い。映画にもなるし、記念館もある。
でもわたしは正直に言う。
猫死である。
いや、ネコに失礼かもしれない。ネコは死ねと言われても死なない。
自分の命が大事だからである。それは正しい。
17歳や18歳の若者を、飛行機に乗せて死なせた。
その結果、国は残ったか?
否、残らなかった。
焼け野原になって結局負けた。若者の命と引き換えに得たものが、焼け野原である。
割に合わない。全然割に合わない。
国のために死ね、と言った人間は、自分では死ななかった。戦後もちゃっかり生き延びて、偉そうにしていた人間が山ほどいる。そういうものである。
そもそも国民あっての国である。
国民がいなくなったら、国とは何なのか。土地だけ残ってもそれは国ではない。
逆に、土地が無くなっても、民が残り国を再興した例は枚挙にいとまがない。
若者を死なせて守った国に、いったい何が残るのか。
わたしにはどうしても理解できない。
生きて帰ってきた特攻崩れの兵士が、戦後「なぜ生き残ったんだ」と白い目で見られたという話がある。
おかしい。
なんと言われようと、生き残った方が正しいのである。
どんな手を使っても、どんな形でも、生きて帰ってきた人間の方が、断然正しい。
死んで英雄になるより、生きて臆病者と呼ばれる方が、わたしはずっといいと思っている。
生きていればこそ、やれる事もあるのだから。
生きるというのは、つまりそういうことだと思う。
きれいなことばかりではない。むしろ、きれいなことの方が少ない。
誰かに嘘をついたり、土下座して自分だけ助かろうとしたり、情けない言い訳を並べたり、そういう薄汚いことを毎日少しずつやりながら、それでも人間は生きている。
17歳の2人は、きれいに終わろうとしたのかもしれない。
でも生きているわたしたちは、きれいではない。
借金があったり、人間関係がぐちゃぐちゃだったり、昨日言ったことを今日ひっくり返したり、そういう泥の中をじたばたしながら、それでも明日の飯のことを考えている。
その泥臭さこそが、生きているということなのだと、わたしは思っている。
きれいに死ぬより、汚く生きる。
それがわたしの、結論である。




