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27.セリカ、決別する

 記憶の中で、最も鮮明に思い浮かぶ光景は二つ。


 エリディウスの虫を見るような目と、何も載せられていない綺麗な白い皿。


 幼いアラーディカは、多忙な両親の代わりに祖父と食事をとるのが常だった。けれどある日を境に、食器の上に何も載せられなくなった。


 代わりに、祖父の皿の上には美味しそうなご馳走がたんまりと盛られるようになって――彼女は静かに目を伏せた。


 支配する者とされる者。空の皿はその差を、形としてまざまざと見せているようだった。


 その日から、アラーディカの能力は格段に力を増していった。


 魔物を支配し食料を集めさせ、館の使用人たちの前では愛らしく振舞い、好感を抱かせる。


 一か月も経つ頃には、祖父とアラーディカの立場は完全に逆転していた。使用人はアラーディカに笑顔を向けて頭を垂れ、彼女の皿にだけご馳走を載せていく。


 それでも祖父は何も喋らず、眼前の空の皿を静かに見つめ続けていた。


 老いと飢餓が、祖父の命を奪うまでに長い時間は必要なかった。ただ、机の上に伏して冷たくなった祖父の口元は、微かな笑みを遺言のように残していた。


 その笑みがなにを(かたど)っていたのか、アラーディカは興味が湧かなかった。ただ冷ややかに、祖父の亡骸を一瞥しただけだった。




 口元に湛えた笑みは残酷だったが、セリカは己でも不思議なほどに冷静だった。


 成す術なく立ち尽くしているアラーディカは、研究所の崩落に巻き込まれて大怪我を負ったあの日の自分と似ていた。研究所を破壊した因縁の相手は自分に一瞥もくれなかったが、今や自分がそいつを見つめている。


 アラーディカは、威嚇するように純白の翼を広げた。


 セリカは、背中から伸びる黒い手を握り締める。


「少し、話を――っ!」


 アラーディカの言葉は、セリカが地を蹴ると共に途切れた。


 猛襲する黒の勢いを、若い魔族は白き翼で真正面から受け止める。


 変化によって生えた翼は見る見るうちに曲がり、凹み、舞い散る羽が靄となってあたりに満ちていく。


 強烈な殴打を繰り出す黒い手の勢いは止めず、セリカは人の手に握った杖を掲げ上げた。


「揺らめく御身の指先よ!」


「どうか、私の話を聞いて下さい!」


「その神威をもって、神敵を跪かせ給え!<<天光降臨(ディヴァイン・デセント)>>」


 黒い手が片翼を鷲掴みにして、逃げ道を塞ぐ。


 慌てて掴まれた片翼の変化を解いたアラーディカだが、その頭上で光が爆発した。


 邪なるものを焦がし浄化する光の柱が、魔を押し潰す様に降り注ぐ。


「あ……ああああぁ!!……っぁ……うぅ……」


 全身を覆うように丸めた翼が、支配の象徴が光の中でさらさらと消えていく。


 光に晒された皮膚が焼け、よろめいた獲物の隙をセリカが逃すはずもない。反射的に生み出された新たな翼がアラーディカの前で交差し盾を成したが、それは小さく、細かった。


「あぁっ!!……ぅぐっ……はなしを……」


 止まらない。


 殴り飛ばされ、背中を木に強く打ちつけたアラーディカに対して、セリカは黙したまま距離を詰める。


「はなしを……私の話を聞けぇぇえ!!」


 垂れた紫の髪の間から見えた魔族の眼光は、まだ鋭さを帯びていた。


 ほとんど追い詰められてなお、双眸は言葉ほど揺れてはいない。


 折れた翼を精一杯広げ、アラーディカは呟いた。


「魔業鳴動……」


 一瞬にして濃度を増した靄の中で、ぐにゃりと、アラーディカの姿と翼が歪んだ。


「<<霧幻ノ(むげんの)抱擁(ほうよう)>>」


 黒い手が靄を切り、木の幹を殴打してぼこりとへこませる。だが、そこにいたはずの魔族に当たった手ごたえはなかった。


 杖を、強く握り締める。沈黙を重くする冷たい空気が、一変していた。


 感情を煽るように靄が熱くなり、心地よく鼻を下っていく。


 熱く心地良い液体の中にいるような感触に、セリカは舌打ちをする。


「セリカ、どうか私の話を聞いて下さい」


 不透明な靄の中を反響する、どこか甘く優しい声。研究所で話しかけてきてくれた、魔族の少女と同じ響き。


 それが蠱惑的に耳をくすぐってきて、セリカは頭を振った。


 気を取り直すように<<神聖防護>>を唱え、敵の次の一手を待つ少女に、再び穏やかな声が囁いてくる。


「私はあなたと争うつもりはありません。あなたは研究所に閉じ込められていた、可哀そうなあの実験体の女の子だったんですね。はっきりと、思い出しました」

「……」


 宿敵が言葉を放つたびに胸に溢れかえる温かさを罠だと理性が訴えていても、セリカは全身の力を思わず少し緩めてしまった。


 ふと気づくと、目の前には実験体として扱われていた頃の自分がいた。泣きながら壁を叩き、無機質な部屋から出してくれと懇願する自分が。


 それが無駄だと思い知らされて、白い床ばかりを見つめる日々。


 生まれてからずっと、その小さな部屋しか歩いたことのない痩せた自分の足の傍に、初めて自分と同じくらいの大きさの小さな足が入り込んだ。


 アラーディカと出会った時のその記憶が、その喜びや温もりが、靄の中に流れては消えていく。


「先ほど、嘘を付いてしまったことを謝罪させてください」


 二人で窓に描いた絵。交わした言葉。自分の扱いに抗議しているアラーディカの姿――


「きっとあなたは私が覚えていなかったことより、大切な記憶を利用されたことに怒りを覚えたのですよね?」

「大切な……記憶……」


 セリカはゆっくりと、抵抗するように小さく頷いた。


 いつも泣きじゃくっていた幼い自分が、嬉しそうにアラーディカと話している。


 初めての話し相手、初めての対等な相手。


 偽りだと分かっても、異形の手を持った少女は、その時確かに救われたのだ。


「セリカ。私は、あなたと戦いたいとは思えません。でも、あの頃のように仲良く、なんて図々しいでしょうね」

「……それは……出来ない」


 どこか朦朧としながら、セリカは返した。


「……そうですよね。では、こうしませんか?私は、ロバウトから手を引きます。魔物を撤退させて、今後絶対にあの街を襲いません」

「……本当に……襲わない?」

「はい。歴史ある魔族の一族の矜持にかけて、誓いましょう。ですので、私がまたセリカと会うための、機会を下さい。私を……見逃してください」


 幼いセリカが、成長したセリカを見つめる。その小さく純真な瞳は、憐れな者を見るように己を見上げていた。


 アラーディカから真意を聞くためだけに生きて来た少女は、その目的をすでに果たしている。


 望んだ結末ではない。欲しい言葉が聞けたわけでもない。むしろ大切な記憶を踏みにじって来たアラーディカには、殺意すら覚えた。


 しかし異形の手を持つ少女は、そのためだけに地を這いずり、人の目を気にしながら歯を食いしばって生きて来た。


 ――もう、いいよ。聞きたかったこと(しんじつ)はもう、聞けたんだから。


 幼い自分の声が、そう言葉にした。


「もう一度、謝罪致します。窮地にいた私は、あなたを利用しようとしました。あなたのことを確かに、忘れていました。でも、今は違います。あなたがあの実験体だと知って、思い出して、あの実験所で共に過ごした日々は、私にとってもかけがえのないものでした」

「……」


 アラーディカは魔業鳴動によって靄と一体になった自分の中にいる、セリカの感情の変化を感じ取っていた。


 魔業鳴動は、上位魔族ではないアラーディカにとって己の身を削り続けているようなものだ。


 余力はなく、足先が靄の中に溶けているようで、その境界が段々と曖昧になっている。


 それでもぎりぎりのところで復讐者は、己の言葉に頷いてくれた。


「……分かった。私は……あなたから答えを聞くためだけに、これまで生きてきた。生きて、こられたんだ。もう、復讐は必要ない……」


 頷いたセリカは、構えていた杖を力なく降ろした。


「ふふ……ありがとうございます」


<<霧幻ノ抱擁>>を解き、靄が晴れた林の中でアラーディカはぺたりと座り込んだ。


 ぼんやりとしているセリカを支配出来ればそれが一番だが、今の若い魔族にはその余裕がない。


 ――支配下の魔物をほとんど失い、復讐すべき相手が一人増えた。だが少なくとも、今この場の窮地は脱した。


 そう安堵していたアラーディカの耳に、鋭く乾いた音が響き渡る。


 反射的に見上げると――異形の黒い手が、自身の主の頬を強く叩いてた。


「……大丈夫。分かってる」

「……え?」


 セリカは、アラーディカを見下ろした。その表情は怒りもなく、喜びもない。


 ただ明確な意思を持って、冷ややかに一人の敵を見つめている。


「ありがとう、アラーディカ。私がこれまで生きて来られたのは、あなたのおかげだよ。それは……うん、やっぱり間違いじゃない。今となっては、感謝もしている」


 アラーディカには分からない。どうして感謝を言葉にするのか。そのくせ、どうして自分に向けて黒い腕を振り下ろそうとしているのか。


 セリカに一抹たりとも興味のないアラーディカには、分からない。


「でも私が今あなたに感謝できるのは、答えを聞いた後でも生きたいって、生き続けたいって思える自分が居るから」


 一歩、足跡を刻み付けるように強く敵へと近付く。


「こんな歪な私の手を、それでいいんじゃないかって、言ってくれる人が居るから」


 アラーディカは全身の力を振り絞ったが、体は少しも言うことを聞かない。僅かな力の残滓がとても小さな翼となって現れたものの、それはあまりにも頼りなかった。


 エリディウスへの復讐心は恐怖に飲まれ、若い魔族は体を丸めて怯えるしかない。


「ひぃっ!……やめ、やめろ!こないでっ!!」

「そこに、お前や復讐は関係ない。必要もない」

「ま、待って!私はお前の母親のことや、何のためにお前が生み出されたのかを知っている!それを、話しますから――」

「どうでもいい。それに私は、お前をぶちのめすってロバウトの人たちと約束したの。私はそれを守りたい。だから――さようなら、アラーディカ」


 強く握った拳が、アラーディカの小さな翼ごと敵を打ち砕いた。


 流れ出る血の中で、最期に魔族は自らの口元に手を伸ばした。


 恐怖に強張った唇は、何も象ってはいない。


 支配者であろうとした魔族は、そうして一人で死んでいった。


 セリカはその亡骸を少しだけ眺め、それから大きく息を吐き出した。


 ――青い空を見上げる。


 強い日差しに思わず黒い手をかざしたその場所は、綺麗ではないけれど、眩しいと思えた。

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