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26.セリカ、因縁の相手と対面する

 ハルバーンとイルラールの力が拮抗し始める少し前――セリカたち決死隊は白く冷たい靄の中にいた。


 予兆もなく突如立ち込めて視界を覆ったこの現象を偶然と片付けるほど、彼らの経験は浅くない。


 魔族の罠か。それとも逃走するための時間稼ぎか。


 どちらにしても敵の首領と思われる魔族の気配は靄の先にあり、罠だと分かっていても踏み込まざるを得なかった。


 元密偵の男が周囲をねめつけながら先頭を進み、女戦士が抜き身の剣を構えて続く。


 回復の奇蹟を扱えるセリカは、何も語らず中央に。その後ろを男戦士二人が、不安げに付いて行く。


 不気味な靄を照らすセリカの<<神聖防護>>の淡い光は儚かった。魔術師たちは全員、ここに辿り着くまでに命を落としてしまっている。今彼らが頼れる光は、この小さな輝きだけだ。


「あの勇者、大丈夫かなぁ」


 最後尾を歩く男戦士がそう言った。


「あいつのことを考える前に、俺たち自身の心配をした方がいい。他の奴らが目の前で殺されるのを見てきただろ」

「そりゃそうだけどよ!別に心配するくらいいいだろうが!」


 後方にいる男二人組が軽く言い合いを始めたのを聞いて、女戦士が眉根を寄せながら諫めた。


「あんたら、言い合いは今すぐ止めな!目標の近くまでこれたってのに、声を聞かれたらこっちの位置がバレるだろ!」

「分かってるよ!でもな……」


 立ち込める靄が、鼻腔を通って肺へと充満していく。


 その冷たさのせいなのか、それとも辺りが正確に見通せないせいか、胸に渦巻く不安が一秒ごとに増していく。


 草木が擦れる音にも神経が削られ、血管の脈動にすら鬱陶しさを感じる。


 ただセリカは揺れることなく、杖を握り締めていた。


「俺たち、生きて帰れっかなぁ」

「……無駄口を叩けば、その分だけ生存確率が低下する」


 隊列の一番前を行く元密偵が、靄の中に立ち入ってから初めて口を開く。たしなめられた最後尾の男の顔にはありありとした苛立ちが浮かび上がり、それは不安や冷気と混ざり合って彼の腹の底をかき乱した。


「けっ。悪ぅございました。……無駄口しか叩けねぇ俺は、役に立てそうもねぇや!」

「あ、おい!待てよ!」


 先ほどまで言い争っていた同じ戦士の静止も聞かずに、最後尾の男は全力で来た道を走り始める。


 命が容易く散る光景を見たせいか、それとも靄の中に男を誘う何かがあったのか。


 軽率な行動を止めることは、誰にも出来なかった。


「あいつ、大丈夫なのかよ?追いかけなくてもいいのか?」

「止めておけ。事態は一刻を争う。黒い手の少女を見習って、出来るだけ呼吸の回数を減らすように努める方が意味があるだろう」

「セリカ……さんのように呼吸を?ここの空気、いや靄に何かあるってことか?」

「あらゆる可能性を考えて取捨選択をしろ、という話だ」


 元密偵は今や最後尾となった男にそう言ったきり、口を閉ざした。


 冷徹な物言いが、張り付めた空気を更に鋭利に切り取っていく。


 それぞれの精一杯が靄の中で撹拌され、悪意に変えられていくようだった。


 街路にまで伸びる木の影がやたら濃く映る。不吉な黒さから何か這い出てきそうで、女戦士は影を大きく跨ぐ。


 険悪、といかないまでも、各々が各々に対して不干渉を貫く重い沈黙。


 その中に、ふと異音が紛れ込んだ。


 後ろから迫るその音に、恐怖を抱きながらも振り返った最後尾の男の険しい顔が、僅かに緩んだ。


「何だよ、戻って来たのか!」


 足音の正体は、つい先ほど離脱した男だった。微笑を浮かべた彼を、最後尾になった男戦士が手招きして迎え入れる。


「追いかけなくて悪かったな。無駄なことはするなって言わ……あ?」


 体が揺れると同時に、言葉があっけなく途切れた。


 崩れ落ちる胸から、魔術の力を帯びた刃が音もなく抜き取られた。刃物の鈍色を艶やかに濡らした赤を、凶器を突き刺した戻って来た男がぺろりと舐めとる。


「なに……を……」


 一緒にここまで戦ってきた仲間に。仲間だった相手に馬乗りになった男は、軽快に両手でナイフを振り上げた。喜悦の表情から零れ落ちる狂喜のままに勢いよく振り下ろされた武器が空を切り裂いた音は、さながら笑い声のようでもある。


 もっとも、先の朧げな視界の中に響き渡った静かな声は、男のものではなかった。


「ふふ。人間の心というのは、かくも脆いものなのですね」

「アラーディカ……!」


 静かで短い怒りの声。セリカは再びナイフを振り上げた男を、背中から生えた黒い右腕一本で掴み上げると軽く放り投げた。


 地面に伏して血を流す男戦士は死に抗うように地を掻きむしる。


 そんな悲痛な抗いを、地を揺らす震動が掻き消していく。


「怒気を向けられるのには、慣れていません。手加減して下さるとありがたいのですが」


 靄を割って現れたのは、複数の腕を持った巨体の魔物だった。


 そしてその厳めしい姿形をした魔物の腕の上には、その分厚い腕とは対照的に、儚げな姿の魔族の少女がいる。彼女は唇の両端を持ち上げて、人間たちに柔和な笑みを見せた。


 紫の髪に、青い目。そして白い両翼に唇の右横の小さな黒子。


 ――その顔の面影は、見間違えようがない。


 セリカは長年追いかけ続けて来た仇敵を前にして、顔を冷静に引き締めた。


 しかしそれが無理に張り付けた仮面だと、アラーディカを前にしたセリカ自身が一番分かっている。


「アラーディカ」


 少し震える声で、彼女は今一度仇敵の名を呼んだ。


「私の事を覚えてる……!?」


 実験体として手ひどく扱われる日々。その中で唯一、笑顔を向けてくれた、話を聞いてくれた魔族。


 それがアラーディカだった。


 同時にその研究所を破壊して、怪我を負ったセリカには一瞥もくれずに一人で去って行ったのもまた、彼女だった。


 胸が張り裂けそうな感情の濁流に、彼女はぎゅっと自らの腕を掴む。


 だがアラーディカは。


「誰?」

「っ……!!」


 眉を顰めながら小首を傾げて返し。


「なぁんて、ふふ、嘘ですよ。勿論覚えてますよ、セリカ。あの頃のようにそう名前を呼ばせて下さい。私があなたの事を忘れるわけがないでしょう?」


 すぐに、ゾッとするほどの蕩ける微笑みを浮かべて見せた。


「ぁ……覚えていて、くれたんだ……!」


 セリカは狂おしい感情を押さえながら、けれど漏れ出したように静かにそう言った。


 吐き出した息一つ一つから抱えた思いが今にも溢れ出しそうで、痛いほど唇を噛み締める。


 そんな少女に、魔物の手から舞い降りたアラーディカは近寄って行った。


「当然でしょう?あれから会えませんでしたが、あなたのことはずっと心の中にありました。なのに、この場で敵同士として再会するのは酷というものですよ。セリカ、こちらに来てください」


 セリカはコクリと頷いて、顔を地面に向けたままアラーディカへと近づく。


 元密偵と女戦士が静止の声を上げたが、小さな少女の耳には届いていなかった。


 ――七年間も追い続けて。やっと。やっと。本当の事が聞けた。


 白い靄を大きく吸い込んで、彼女はその時を向かえる道程を、一歩一歩と踏みしめるように相手に近づいて行く。


「ええ。そうです。そのまま、こちらに来てください」


 アラーディカは子供をあやす様に、優しくそう言った。


 いつだって、支配者だった。


 格下の魔物や魔族は能力を使わなくても、自分に向かって自ら膝を折りにくる。


 意志を持つ人間はやっかいだが――冷たい靄の中に飲み込んで、心を乱せば奴隷となる。


 恐怖。畏怖。不安。そして敬愛。感情はすべて、自分の武器だ。


 ――この実験体を支配下に置けるまで、きっとあともう少し。


 そう考えていたアラーディカは、ふと地に視線を落とした。


 笑っている。


 セリカから伸びる小さな影が、身も凍えるような歪な笑みを浮かべている。


 全身が、慄いた。


 一陣の風が舞う。銀の長髪をふわりと掻き上げて、セリカの表情が垣間見える。


 一筋だけの涙の痕が伝うその顔には、憎悪と歓喜が同時に笑っていた。


「っ!?」


 力強く突き出された黒い腕と、体を庇うように畳まれた白い翼が激突し、重い衝撃が辺りを貫いた。


 続く声は、低く恐ろしい。


「"セリカ"は、お前が研究所を潰した後に、お前が私を気に留めることもなく去った後に、自分で付けた名前だ!!あの頃のように、だって!?」

「くぅっ……!」


 相手の表情を見て、望む言葉を与えられたと思っていたアラーディカの体が吹き飛ばされる。


 折れ曲がった翼は、変化の力によってすぐに美しい姿へと整えられたが、その持つ主を仕留めようと殺意の塊の少女が突き進む。


「ヘクサス!私を守りなさい!」


 アラーディカを抱えていた巨体の魔物ヘクサスが、セリカの道を阻むために前へと出る。


 ふわりと優雅に着地をした魔族の首領は、けれど波立つ心を落ち着かせるために息を吸い込んだ。


 想定外だった。


 二百に及ぶ魔物に街を包囲させたのに、決死隊がその囲みを突破したことも。元八将であるイルラールを、引き受けられる存在がいたことも。


 そして、実験体の実力も。


 逃げるべきか、とアラーディカはここに来てようやく選択肢を増やした。


 だが、これ以上ロバウトから遠ざかれば、支配の能力下から魔物たちが解放されてしまう。


 それはこの数年、エリディウスに復讐するために行ってきた全ての努力を無に帰すことに等しい。


 思考は、唐突に光が消え失せたような灰色の世界が、少し遠くに生じたことで断ち切られる。


「これは……上位魔族(イルラール様)の切り札の気配!?それを使うほどの相手がいる!?」


 ――逃げなくては。


 アラーディカはそう決断すると、支配下の魔物が制圧している港町の方角へと駆け出した。


「逃がすかぁああ!」


 六本腕のヘクサスの大きな拳が、セリカの行く手を阻むように地を割った。勢いよく飛び散る石の礫に頬を切りながらも、吠えるセリカが前へと進み行く。


 だが巨躯の魔物の腕が、土埃に紛れながら主の一番の敵目掛けて振り回された。


「<<簡易結界>>!」


 人の手で杖を掲げ上げると、白い光の壁がセリカを囲うように立ち上る。魔物の打撃はその結界を突き破ったが、黒い両手で勢いが落ちた攻撃を受け止める。


 同時に杖を投げ捨てて空いた人の両手を、魔物の硬い腹にあてた。


触診(アナライズ)!」


 この魔物をさっさと倒して、一秒でも早くアラーディカをぶちのめしに行きたい。


 そんな逸る内心を抑えてセリカは軽く目を閉じた。


 魔物の脂肪と肉の奥にある、小さく確かな鼓動。その感触を掴み、その中心を把握する。


「聖なる杯の淵より零れ落ちし一滴よ。主が眼差しの如く、鋭く邪を貫け!<<聖光落穿(グラール・ドロップ)>>」


 杖の補助なく放たれた一筋の奇蹟の光は、光明と言うにはあまりにも頼りない。


 それでも光は疾く鋭く巨躯の魔物の胸を貫き、指先の大きさほどの穴から魔物の粘着質な血が厚い胸を伝って落ちる。


 ヘクサスと呼ばれた魔物は、力強く咆哮した。優れた再生能力を持つ魔物は塞がった胸の傷痕を一度撫でると、すぐに怒りに満ちた顔をセリカに向ける。


 だが突如視界が回転したかと思うと、小さな少女の姿が瞬きを重ねるごとに遠くへと消えていく。


 己が倒れ動けなくなったことを魔物は理解出来なかった。ただ、塞がったはずの胸が放つ得体の知れない疼きが熱くなり、全身が痺れていく。


 心臓を光によって正確に貫かれた魔物が、数度呻いた。


 太い首周りに守られた喉が、機を窺っていた元密偵によって静かにかき切られた。




「はぁ……はぁ……っ!」


 アラーディカは一人で、がむしゃらに逃げていた。背中から生えた美しいだけの翼は、彼女を素早く遠い場所には連れていけない。今や目くらましのためだけに放つ靄も、後ろから迫る殺気の持ち主を誤魔化すことは出来なかった。


 ずっと追いかけて来たその気配を、復讐者が逃すはずがない。


 残った唯一の希望は、港町にいる魔物たちだ。


 ――合流さえ出来れば、数で押し潰せる。


 そしてその希望は。


「ぁ……」


 空に瞬いた紋章によって砕け散った。


「エリ……ディウス……!?」


 今まさに向かっている港町の上空に、怨敵が現れたことを示す証が輝いている。


 魔物たちの支配者は足を止めた。人間にとって勝利をもたらすその光は、魔族にとっては死の宣告だ。


「なんで……なんでなんで!?なんで、あいつが!?あいつは、北部にいるのではなかったのですか!?まさか、ロバウトにいると言うのは本当だったのですか!?」


 もしかしてイルラール様が切り札を使ったのは、エリディウスを相手にしていたから?でも、紋章は港町の上で輝いている。それに、エリディウスがロバウトに居たのなら、配下の魔物たちは一瞬で全滅させられていたはず。いや、エリディウスなら気分によっては静観する?何より今頃、何でこんな最悪のタイミングで!?


 どうしよう。どうしよう。分からない。分からない。


 分からない!


 混乱するアラーディカの後ろで、ざりっ、と地を擦るような音が響いた。


 振り返ると、復讐者が笑っている。


 己を支配する者のように。


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