23.第二の勇者、覚醒す
ダンジョンで戦ったコボルトとは、別次元の速さだった。
砂を擦り潰す脚力から繰り出された高速の突きが、ハルバーンの鼻先を掠める。
突きや振りに合わせて形を変える穂先は、最後まで目で追わなければ躱せない。
なんとか懐へと飛び込めても、漆黒の鎧から鋭い針や盾が飛び出てきて攻撃に転じる隙を与えてくれない。
コボルトの時のように、相手の動きに魅せられてることすら出来ない。
鼓動のたびに死の気配が膨らみ、刃が悲鳴のような音を上げる。
それでも切り結べていることに、ハルバーン自身が一番驚いていた。
イルラールが小さく息を吐き出し、少しだけ声を昂らせて言った。
「先ほどまでと、まるで動きが違うな……。この状況で、力を温存していたとは!」
余裕などあるはずがない。ただ彼は、自分で考えることを諦めていた。
もっと深く。もっと本能のままに。沁みだしてきた、内なる衝動に流されるように。
そうすると、目の前の存在と釣り合わせるかのように、体から力が湧き上がってくるのを感じていた。
同時に、ズキリと頭が痛む。まるで頭蓋を何かが突き破らんとしているようだ。
何かに自分が塗りつぶされていくような恐怖はあったが、選択肢はなかった。
街の人のために、決死隊の皆に、恐れを受け入れていく。
二人の戦いに、決死隊は手を出すことが出来ない。
一目で、邪魔にしかならないと突きつけられたのだ。
「進め!」
短く、力強くハルバーンが叫ぶ。
「あんたの相手は俺がする」
老将にそう言ったハルバーンを見て、残っている五人の決死隊は逡巡の後に言葉に従った。
ただ一頭だけ。漆黒の馬だけは、ロバウトに向かって引き返していく。
最後にアラーディカへの復讐に燃えるセリカがぎゅっと唇を噛みしめ、前に走り出すのを見届けてから老将は口を開いた。
「助けを求めぬ、その意気や良し」
揺れる槍先の位置に合わせて、前足に乗せる体重と剣を構える位置を調整する。
繰り出された突きに反応したハルバーンだが、槍は彼の前でピタリと止まる。
激しい痛みと衝撃が襲ってきたのは、下半身だった。
ハルバーンを痛烈に蹴飛ばした老将は、くるりと得物を一回転させて言った。
「しかし、甘いな」
イルラールがそこで言葉を止めると、戦場から黒い影が地を伝い集まり始めた。
魔物たちに纏わせていた無傷の漆黒の鎧が崩れ、主の元へと帰参し始めたのだ。
「……嘘だろ」
血を吐き捨て、立ち上がりながらハルバーンは呟いた。
老将の隣で、影が陽炎のように立ち上った。歪んでいた輪郭が定まると、一体の精緻な影が浮かび上がる。
それは全く同じ姿だった。同じ、強大な気配と威圧感を持ったイルラールだった。
「いまさら数の差を、卑怯と詰ってくれるなよ」
イルラールの大振りが、大地を割る。これまで素早く丁寧な攻撃に徹していた老将が見せた隙を補うように、影のイルラールの刺突が襲い来る。
「あぎっ!」
舞い散る土埃の中から現れ、ハルバーンの脇腹を掠めたその一撃は本物と比べても遜色がなかった。
元々防ぐので手一杯だった勇者に出来ることは、感覚を研ぎ澄ませて猛攻をいなすしかない。
「ぐっ……!!はぁっ……」
ハルバーンは上体を後ろにそらし、激痛を放つ頭を捻って影の攻撃を躱して、息を吸い込んだ。
突きの連撃から逃げるために、彼は後ろに大きく跳ねる。それを待っていたかのように影の槍が素早く伸び、ハルバーンの頬をぱっくりと切り裂いた。
「いぎっぃ!!」
「脳天を貫いたつもりだったのだが……また一段、速くなったな。死の匂いに鋭敏だな」
影が弓を構えた。本体は槍を元の長さに整え、下がったハルバーンとの距離を詰めるために突き進む。
「くそがっ……!」
到底、勝ち目なんてない。時間すらろくに稼げていない。
そして何より。
老将の攻撃によってつけられた傷よりも、頭が割れるように痛くて仕方がない。
ハルバーンとして経験してきた何もかもが、溶けあって、混ざり合って、否定されていくような嫌悪感に心が狂う。
確実に死へと、無へと追い詰められている。
恐怖――?
いや。
ハルバーンは心の底を他人の手になぞられる様な不快感と共に、暗い歓喜に震えていた。頭の痛みが強くなるほどにその感情が躍り狂い、力が全身に満ちていく。
金属が悲鳴を上げたような数合の打ち合いの先で、敵いようのないはずの絶望的な強者は好敵手へと変わっていく。
影のイルラールの弓から放たれた強烈な一矢を、剣の腹で辛うじて防ぐ。
殺しきれない勢いに吹き飛ばされ、地面に激しく叩きつけられ仰向けになった視界に、振り下ろされた槍の先端が映る。
それでもハルバーンは自然と笑んでいた。
「ぬうっ!?」
並の、いやB級クラスの冒険者でさえ防げはしても、その衝撃で絶命してもおかしくない一撃。
だがハルバーンは、勇者の剣の柄と刃すら握り締めて受け止めると、震える腕に更に力を籠めた。
黒き槍の連撃を地に伏せたまま防ぐ彼に、影のイルラールが勢いよく短刀を投げつける。
頭を狙ったその投擲を、聞こえて来た風切り音から察して反射的に身を捻り、肩で受けた。
振り落とされる槍を防ぐ剣に籠めた力が緩んだが、足でイルラールの腹部を強烈に蹴り上げ、同時に地面を素早く転がって攻撃を避ける。
地に流れ落ちる血は、歓喜の涙の痕のようでもあった。
無理な体勢からの蹴りだけで体を宙に浮かされたイルラールは、そんな男を見て呟いた。
「……その嗤い。戦場で長く生きられはせんぞ」
「ははは、お前もだろ!」
老将は頬に手を当てると更に笑みを深くし、しかしすぐに唇を引き締めた。
「いや、違うな。私は長く生き過ぎたのだ。エリディウスに負けたあの戦場で、死ぬべきだったのだ」
「あん?またエリディウスかよ。あいつ、どんだけ敵を見逃してんだ?」
「奴にとってアラーディカや私は、敵ではなかったのだ。ただ、私が必死に逃走する様を、今のお前のような笑顔と笑い声で見ていたよ」
老将は油断なく息を整える。
「戦場にあるのは生と死のみ。戦に備え積み上げてきた全てが、結果として残るだけだ。だから私は勝利や敗北から学ぶことがあっても、いつまでも戦そのものを記憶したりはしない。責任を問われればいかなる罰も受け、求められれば次の戦に備えてきた」
鳴り響く剣戟の音は淡々としていたが、残響はどこか尾を引いていた。
本物の影のように重なる二重の攻撃と正面から打ち合いだしたハルバーンは、もはや敵の攻撃よりも頭の痛みに意識を割いている。
「だが私は、あの敗北を。エリディウスを常に思い出す。私の戦場は奴に見逃されたあの日から、そこにしかないのだ。奴の刃が振り下ろされる瞬間を、私はただ待ち続けるしかない。いや、なかった!」
影と本体が出来るだけ直線で重なるように。どちらかをどちらかの盾にするように立ち回り始めたハルバーンに、老将と対なる影が足を止めた。
「貴様の得物は勇者の剣だろう?何故その力を使わんのだ?何故状況に合わせて身体能力を向上させる?エリディウスのように、私を見下しているのか?」
「そんなの知らねぇよ!この剣はうんともすんとも言わないし、自分でもここまで動けるなんて思わなかった。お前を見下す気なんてない。その技や体捌きを見て敵わないって思ってたよ……最初の内はな」
「最初の内は……?」
イルラールが問うと、ハルバーンは嗜虐的に笑んだ。
「ああ。自分でも分かんねーけど、今はそんな気がしないんだ。それどころか、お前の限界が見え始めてて、何だかがっかりしている。……違う自分が囁いているみたいで、気持ち悪ぃ」
苛立ちと焦燥が重なった、低い声が響き渡る。
だが彼はまた、それを望むように体を弾ませてもいた。
「……」
老将はあえて直立し、隙を作った。けれど血塗れのハルバーンは剣をぶらぶらと揺らしたまま、攻めようとしない。
ピクリとも表情が動かなくなったイルラールの内心を露わにするように、影のイルラールが激しく進み出て、槍で勢いよく切り払う。ハルバーンはその刃を素手で掴んだ。刃から飛び出した黒い棘は彼の体に当たると砕け、無念に崩れ落ちていく。
「返すぜ、これ」
そのまま影の槍をイルラールに向けて勢いよく投げつけると、老将は受け止め切れず、鎧の肩当てが削りとられた。
地面に落ち消えていく鎧の一部を見たハルバーンは、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「こんなもんか?」
――こんなもんか?
頭に反響する聞き慣れた声が遂に胸中と重なり、彼に傲慢な言葉を吐き出させた。
「……エリディウス?」
イルラールは、呆然とそう呟いていた。
姿形は違う。剣術は、もっと卓越している。魔術と神聖術どちらも扱え、最上位に位置する術をたった一人で行使出来た。
まさに、化け物の中の化け物。だがイルラールはそんな無敵の存在と、目の前の大男を重ねていた。
「そうか。萎びたこの老兵の勘だけは未だ、衰えていなかったのだな。私の死線は、やはりここにあったのか……!」
ぶるりと震えると、イルラールが変化の能力で操っていた全ての影が消え去った。
老将の双眸には、歓喜と虚無が入り混じっている。その頭上に闇が凝縮されていくと、上位魔族は口を開けた。
「私の影は私の手元から離れ、役目を果たし終えると消えていく。この戦いで一時的に失った影が、ここに纏められないことは口惜しいが」
「言い訳はいいからさぁ。さっさと何をするのか見せてくれ」
「……返す言葉もないな。上位魔族の切り札をもって、最後の打ち合いに臨ませてもらおう」
これまで老将の身を守っていた漆黒の鎧すらも、闇の中に溶けていく。
隆起した肉体に刻まれた数多の傷が、これまで彼が戦い抜いてきた戦場を物語っていた。
「<<魔業鳴動・無明ノ常槍>>」
刹那、辺りが色を失った。
光が闇の中に取り込まれ、けたたましい戦場に無音がもたらされる。
圧倒的な静寂。たった二人の呼吸や鼓動の音が世界の全てを壊してしまいそうな静謐に、ハルバーンも再び残酷な笑みを浮かべた。
イルラールが握るは、装飾もないみすぼらしい槍。影で模した方が美しいとさえ感じる年季の入った得物。
一瞬の後、隔絶された灰色の世界に音が戻ると、老将は身一つで一歩踏みしめた。
「今更だが、新しき勇者よ。名は何という?」
「あ?……何だっけな。まぁ、何でもいいじゃねーか!」
勇者は剣の柄を軽く握り直し、一面の灰色を見回した男は、がっくりと肩を落として見せた。
「影で、神や魔力と断然した世界をつくったのか。だが、随分と寂しい戦場だなぁ。本来なら、自分にだけ影の兵士がいるはずだったんだろ?」
それまでただの丈夫な剣でしかなかった伝説の剣が、怪しく光る。灰色を染め上げる闇の光が、その剣身から溢れ出していく。
「――馬鹿な。この無明の中で、如何なる魔術や能力、道具も使うことは出来ないはず……!」
油断なく槍を構えてはいるが、イルラールの声には驚愕がにじみ出ていた。
「あぁ……!いいなぁ、魔族の老いぼれよ。動揺を隠しちゃいるが、本当は恐ろしくて堪らないんだろ?今なら、見逃してやってもいいんだぜ?」
「断る。元より、影の兵士を生み出すつもりはない。私はようやく、この恐怖のもたらす灯りに、踏み入れられるのだ」
「けっ。雑魚が気取りやがって」
イルラールは一度だけ目を深く瞬かせると、生涯最も慣れ親しんだ動作である刺突を繰り出した。
老錬の魔族の動きは鋭く、裂帛の気合を籠めたが、闇の光を更に大きく放つ勇者の剣の前にはあまりにも心もとない。
だが後悔があったかと言うと、そうではなかった。
求めていたものが、そこにはあるのだから。
老将が全てを覚悟し、槍を闇の中へと突き入れたその瞬間。
ロバウトから大きな爆発音が響き渡った。
「……あ?」
勇者の剣を覆っていた闇が消える。
自分でも何をしているのか、何が起こったのか分からない。
ただむせ返るような感情が、ロバウトの終末を告げる予兆によって一気に冷えていく。
そんなハルバーンの腹を、己の最期を受け入れたはずのイルラールの槍が貫いた。




