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17.二度目の勇者、セリカに手を伸ばす

  壊れかけの木の柵で仕切っている演習場は、剥げた芝生が目立つほどにがらんとしていた。


 たった二人しかいないその場にもたらされた灯りは、壁に掛けられた一本の松明だけだ。伸びる人影は闇の中に混ざり合い、ただ声のみが二人の存在を知らせていた。


「悪かった!驚かせるつもりはなかったんだ」

「……」


 セリカはじとっとした瞳でハルバーンを見つめた。


 自業自得であることは彼女にも分かっている。だから彼女の漠然とした後ろめたさは、大男に見つかったことではなく。


「一人で訓練をしていたんですか?」


 放蕩に耽ると思っていた勇者が、真面目に剣術の練習をしようとしていることだった。


「ああ。あのコボルトと戦って、自分がどんだけ欠けてんのかって、分かっちまったからな」


 ハルバーンはそう言って、持っていた巻物をくるくると広げ始めた。


 中には、長剣の基本的な構えや足運びまで細かく記されている。


 あまりにも基本的な内容に、セリカはパチパチと目を瞬かせた。


「まだ数日だけど、腕だけで振っちゃ駄目だって分かってきたところだ」


 勇者の剣を振って見せ、楽し気にそう言う。


 ダンジョンで魔物を易々と両断していた男が、こんなことを言うなんて。


 セリカは呆れと感心を混ぜてこぼしたように小さく笑った。


 けれどハルバーンが悪意のない笑みや言葉を見せる度に、彼の汚い部分を求めていた彼女の心の痛みは増していく。


「記憶喪失……なんですよね」

「ん?ああ、そうだ。半年だけしか記憶がないんだ。それ以前のことはさっぱり思い出せねぇ」

「自分が何者かも分からないのに、どうしてそんなに笑っていられるんですか?」


 ハルバーンは剣を振るのを止めて、切実にそう問いかけてきた、人間でも魔族でもない少女を見た。


 胸の前で小さな拳を握り締めている彼女に、半年間の記憶しかない男は上手い言葉が思いつかない。


 だからただ、気持ちのままに偽りなく言葉にした。


「だってこれでも一応王族ですから?記憶がなくなっても楽に生きれたし、それに甘えて楽しいことばっかしていられた」


 ふぅ、と大きく息を吐く。過去の自分を思い返し、揶揄するように。


「こう言ったら、お前なんかに何が分かるんだって思うだろうけどさ。だから俺はセリカを凄いって思う。俺がセリカだったら、何もかもを諦めていたと思う。歩いていけなかったと思う」


 セリカは真っ直ぐな台詞から逃げるように、皮肉に笑って返した。


「あいつをぶちのめしたい。自分が生き残った理由を、答えを得たい。私にはそれ以外に、何もないんです」


 ハルバーンは剣を置くと、頭を掻いた。


 言葉でどう返していいのか分からない。


 ただ彼は、その分厚い手をまずセリカに伸ばした。


「だから、一緒にぶちのめしに行こうぜ。その後はしばらく何も考えずに、ただ楽しいことだけをしよう。"それ以外"を見つけるのは、それからでもいいんじゃないか?」


 揺らめく炎に照らされたハルバーンの手を見る。何の躊躇いもなく差し出されたその手が、心をかき乱した。


 同じ人の形をした手なのに、自分とはやっぱりどこか違う。


 セリカはぎゅっと腕を握りしめて、ぼそりと呟いた。


「……羨ましいなぁ」


 慌てて、小さな手を口に当てる。セリカはただ、ハルバーンにその声が聞こえていないように願った。


 だが勇者は変わらず手を出し続けている。その変わらなさにセリカは少し苛立って、彼の手を全力で握った。


 魔族の力も持つ彼女の握力は見た目より遥かに強かったが、ハルバーンは涼しい顔でそれに応える。


 やがて、セリカが諦観したように力を抜いて切り出した。


「私、お酒を飲んでみたいんです。酔ったら変化が解けるかもと思って、一口も飲めなかったんです」

「悪い酔い方なら、幾らでも教えられるぜ」

「可愛い服も着てみたいですね。出来るだけ良いイメージで見られるように、ずっと聖職者然とした服装でしたから」

「女性に着て欲しい服なら一杯あるぜ!」

「なんて……思えたらいいんですけどね」

「何でもまず試してみたらどうだ?俺で良いなら、幾らでも付き合うからさ」


 安請け合いはセリカが最も嫌うことの一つだった。


 軽い言葉も、軽薄な親愛も、裏のなさそうな笑顔も嫌いだった。その奥に思い浮かぶのはいつも、アラーディカのことだ。


 ただ嫌いになったものばかりを詰め込んで形にしたような、ハルバーンと言う人間と接する時だけは、燃え盛る復讐心を少しだけ忘れられそうだった。


 心の澱みを吐き出す先を、ぶつける先を、本当はずっと求めていたのかもしれない。


「……何でも、付き合って貰えるんですか?」

「ああ。出来ることなら何でも付き合うぜ。なんなら、今からでもいいし」


 その言葉を聞いたセリカは、握手を止めて杖を握り、それを地面へと叩きつけて奇蹟を唱えた。


 眩い光の結界がハルバーンを中心に広がる。何をする気だと眉を顰めたハルバーンに、セリカは樽に入った訓練用の木剣を拾いながら言った。


「ではまず、最初の"やりたいこと"に付き合って貰ってもいいですか?」


 天使のような可憐な笑顔でそう問うと、彼女の背中から歪な黒い腕が出て来た。


「……えっと?セリカさん?何をやりたいんです?」


 木剣を黒い腕に持たせたセリカを見て、ハルバーンは猛烈に嫌な予感に襲われる。


 小柄な少女はすでに、ダンジョンで見た時のような獰猛な表情へと変わっていた。


「この結界内の光景は、外からは見えません」


 辺りを覆う光の幕を見ながらセリカは続けた。


「ハルバーンさん。私、体を動かしたい気分なんです。この八つ当たりを受け止めてくれませんか?」


 黒い腕がビシッと弾むように剣先を突き付けると、ハルバーンも応じるように返した。


「望むところだ」


 にぃっと笑うその間に、セリカは木剣を更に引き抜いた。


「おぉ?何でもう一本剣を?」

「二刀流です。どうかお覚悟を!」

「本当にただの八つ当たりなんだよな!?」


 言いながら、二人の影が交差した。




 エリディウスが薙ぎ払ったそこは、未だに彼の魔力の残滓が漂っていた。


 一面に広がる木々の中で、ぽっかりと開いた乾いたクレーターとなったその場所に、一人の若い魔族が座っている。


 怒りに、満ちている。


「矜持を捨てて浅ましい計画を練ったのに、新たな勇者に邪魔されるなんてね?僕としては、羨ましくて仕方ないよ」


 いつの間にかその隣に現れた上位魔族は、その怒りを一顧だにすることなく平坦な声でそう言った。


 気まぐれ過ぎて味方としては頼りにならないその存在が、アラーディカの怒りを助長することはない。互いにそう言うものだと、割り切っている。


 むしろいつもの気を使うつもりのない言葉に、かえって若い魔族は落ち着きを取り戻した。


「……問題、ありませんわ。これまではお茶を美味しく飲むために、温度を調整していたようなもの。時には、好みでない口当たりを一息に味わうのも一興でしょう」

「そうやって優雅を気取る間に、北の同族は奴の前に敗走を重ねているんだけどね。まぁ、僕たちには関係ないことか」

「ええ。例え惨めでも、まずこれを成さねば、私は一つも生きた気分で息を吸えないのです」


 ――エリディウス。


 その名前が脳裏に掠め、アラーディカは激しい憎悪を浮かべた。


 あの、見下しですらない無関心な目線。トドメを刺す価値もないと見做してきた人間の勇者。


 培ってきた自信も尊厳も情熱も忠誠も、あの悍ましい勇者によって奪われた。


 アラーディカの全てはその日から、死んでいる。


「サラルィン様は、こうなっても気ままに動かれるのですよね?」


 期待していないような問いかけは、その通りに返された。


「そうだね。僕が魔王様の側近として仕えていた時でさえ、興味のないことは出来なかった」


 そこで言葉を切って、サラルィンはロバウトのある方角を見つめて続けた。


「でも、僕の注視は今あそこにある。状況によっては、アラーディカの手助けもするよ」

「ええ。期待しておりませんとも」


 アラーディカが立ち上がると、クレーターを囲むように生い茂る鬱蒼とした木々が激しく揺れた。


 若い魔族の背中から大きな翼が生える。純白の翼の羽ばたきは、濃い霧を辺りに放ちながら波打った。


 その神々しくもある姿に当てられたのか、木々の間から大量の魔物が現れると、アラーディカに向かって次々と跪く。


「真綿で首を締める愉悦が失われた以上、もう出し惜しみは致しません。支配下にある全ての魔物が結集次第、あの忌々しくも愛しい街を潰します」


 サラルィンは無数の魔物たちを見ながら、軽く手を鳴らし薄笑いを浮かべる。


「素晴らしい。開幕の前には何時だって、観客の熱い拍手こそが相応しい。かつて魔王軍の八将の一人だったあなたなら、私の考えに賛同して下さるでしょう?」

「!?」


 アラーディカが驚愕を露わにしてしまったのは、その若さが故だった。


 だが、彼女の背後で影が染み出す様に現れた黒い鎧を纏った老兵は、ただ冷静に言葉を紡いだ。


「流石はサラルィン殿。もはや枯れ木同然の老骨の隠密など、すぐに見抜かれますか」

「ご謙遜を。戦場の第一線に身を置き続けた者の老いは、名誉と強者の証でしょう。特にイルラール殿はエリディウスと剣を交えて生き残った、数少ない同族ですからね」

「我が生涯に敗北は数あれど、最終的に膝を屈した相手はあの人間だけです。アラーディカと同じ。私もまた、ただ一つの目的にしか生きられない屍なのです」


 イルラールの重厚な声を久方ぶりに聴いたサラルィンは、微笑みを深くした。


「ふむ?……とは言えイルラール殿が演者となるなら、今回の演目はこのままでは喜劇たりえないでしょう。私としては、残念なことに」

「ふん……」


 隠していた切り札を見破られたことが気に入らなかったのか、アラーディカは不機嫌そうに鼻を鳴らした。


 サラルィンはやれやれと肩を竦め、そうして魔物たちの中に六本の腕を持った大型の魔物がふと目に留まったところで、思い出したようにポンと手を打った。


「そうだ。魔王様が主導していた実験の、成果物の一人を見つけたんだった。あれもあの街にいるから、一応忠告をしておくよ」


 サラルィンの言葉に、アラーディカは首を捻りながら口を開いた。


「魔王様のために、私がどれだけ同族の血で手を濡らしてきたと思っているんですか?そう仰られても……」


 アラーディカはそう言い終えると、昔日を思い出すように目を細めた。


 しかし双眸はすぐに憎悪へと染まり、その両目でロバウトを射貫くのだった。

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