12.二度目の勇者、盲に気付く
ハルバーンは、理解できなかった。
身体能力の差も、体格の差もある。ダンジョンでコボルトをうんざりするほど倒してきた。
なのに刀を構えるそのコボルトに、たったの一度も真面に攻撃が当たらないのだ。
剛力から繰り出される破壊的な一撃も、地を砕く脚力から繰り出す神速の突きも、その頼りなく細い刀によって滑るようにいなされる。
何より厄介なのは、素早く身を翻しながら距離をとり、刹那佇んで淡い緑の光を発した後に繰り出される一閃だ。
小柄な体が爆ぜるように迫り、刀が唸りを上げる疾風のようなその一閃を躱しきることが出来ない。
丈夫な皮鎧は切り刻まれ、聖職者の奇蹟ももはや効力をなくし、薄く裂かれた胸元からは血が流れ落ちる。
けれどハルバーンの身を焦がしていたのは恐怖ではなかった。
「はぁ……はぁっ、この野郎……」
苛立ちだ。燃え盛る、情けなさだ。
コボルトの動作は全てが美しい。
流れるように懐に踏み込まれ、払うために横なぎすると小柄な体躯を更に沈ませて躱される。手が伸びきったその隙を突かれて、下から勢いを乗せた鋭い一太刀が迫ると、体の奥が心底冷える。
払い、斬り、突き、防ぐ。そのどれもが、ハルバーンよりも優れている。
――ああ、むかつく。むかついてむかついて仕方がない。
緑に光るコボルトの一閃にまた肉を裂かれると、技術と経験の差を体に刻まれたようでさらに苛立ちが募る。
だが何よりもむかつくのは。
「俺はほんっと、何も分かってないんだなっ!!」
どうしてあのコボルトのように動けない。どうしてあの動きを真似できない。どうして相手の動きが少しも読めない。
身体能力だけでコボルトを壁際まで追い詰めながら、ハルバーンにあるのは自分に対する怒りだった。
コボルトの短く鋭い呼吸と、荒々しいハルバーンの吐息が静寂に満ちる。
瞬間、コボルトの体が緑に染まった。
「させるか!っ!?しまった!!」
光は、焦ったハルバーンが剣を振り下ろす直前で消えていた。
空振りを誘われたと気付いた時には、もう遅かった。
コボルトは身に沁みていた。強化魔術を使った一閃でさえ、この敵の命を奪うには足りないと。
剣術の心得も、技術もない。基本的な体の使い方さえも分かっていないし、ここまで魔術も使っていない。
ただ、その肉体の強靭さと能力は飛びぬけている。反射だけで、急所への攻撃は躱してくる。腰の入っていない軽い振りでさえ、致命的な威力がある。
この隙を、絶対に逃してはならない。一手間違えれば呆気なく屍になるのは、自分の方だ。
剣を交わす感慨は何一つないが――この人間は、無垢の化け物だ。今ここで殺さなければならない。
コボルトが握る刀が風を纏う。それは主から与えられた刀に宿る、二つの切り札のうちの一つだった。
荒れ狂う風の奔流が、部屋中を揺るがせた。嵐そのものが宿ったかのような白銀の刃が、ハルバーンの側面から襲いくる。
「んだそれぇ!!?がああっっぁあ!!」
ハルバーンの巨躯が嵐に攫われ、矢の如く壁へと弾き飛ばされる。骨まで響く衝突音は、ほどなく風の刃が壁を切り裂く音によって上書きされた。
崩れ落ちる壁の中に、埋もれる人影。それを見て、コボルトは身に走る衝撃と共に距離を詰めていく。
――あの一撃をくらって、形を保っているのか。殺すにはもう、急所に完璧な一撃を入れるしかない。
そう分析して駆けるその身が、途端に凍り付いた。
瓦礫から這い出したのは、ハルバーンだけではなかった。別人と違うような息もつけないほどの殺気が溢れ出し、コボルトは一歩も動けなくなってしまう。
――どうしてこの程度の雑魚から一撃を食らわないといけないんだ?
自分のものとは思えない深く黒い怒りと思考に、ハルバーンは自分自身でさえも戦慄した。
その殺意と激怒の中に身を沈めれば、コボルトなど一瞥の内に屠れるという妙な確信すらある。
だが彼はすぐに頭を払って、自分を支配してしまいそうなその暗い感情を追い出した。
彼の心にも同じくらいに満ちているものがある。
情けなさと。
「俺は……自分のことすら、何も分かってないんだな」
歓喜だ。
痛みで涙をこぼしているように頭から伝う血が、口角の上がった唇を染める。
黒く、暗い力なんて必要ない。
この一歩目はまず、自分を信じて。
再び疾駆するコボルトに向かって、まず一歩。
次の二歩目は、助言や奇蹟で援護してくれた仲間を信じて。
その刃にあえて身を晒すために、更なる一歩。
最後の三歩目は、どこまでも強くなれそうな己の未来のために。
勇者の剣を捨て、自ら美しく煌めく刀へと踏み込んでいく。
――殺った!
緑に発光する小柄なコボルトの正確な刺突が、ハルバーンの胸へと吸い込まれるように放たれる。
タイミング、角度、力み。全てが完璧だった。切り札ですら殺せない相手の命を奪うために、剣先が胸を貫いた感触は確かなものだった。
けれど。
「本当にすげぇよ……あんたなら、急所を正確に狙えると信じてたぜ」
肉を掻き分ける刀の動きが止まった。初めて相手の動きを考える必要に迫られたハルバーンは、素手で敵の獲物を掴んでいた。
刀を握る手から、熱い血が流れて行く。だが首筋に置いていたもう片方の腕は防御から解き放たれ、コボルトの胸を拳で捉えていた。
コボルトが、瞼を閉じる。
刀を離せば、回避することは出来る。だがそれは、敗北を長引かせるだけだと魔物には分かっていた。
なにより、主から賜った刀を手放すことが出来なかった。
戦士の膂力からかけ離れた一撃によって小さなコボルトの胸が砕け、体が宙を舞った。それでも魔物は刀を手放さず、ハルバーンの胸から引き抜かれた相棒と共に地面へと落ちる。
静まり返った部屋に、ハルバーンのどこか呆然とした言葉が響いた。
「……勝った?」
遠くに飛ばされたコボルトはピクリとも動かない。
勝者の証明は、その静寂があってこそだった。
「おっしゃぁ!すげぇ相手だったけど、やってやれたぜ!っしゃあぁぁ!!」
けれど、勝利の歓喜はすぐに痛みによって引っ込んでしまう
。
「いってぇぇ!手も胸も……全身がいてぇよ!あ、なんかクラクラしてきた」
「――こちらはクラクラではなく、ハラハラしましたよ」
突然の聞き馴染んだ声に、ハルバーンは苦笑いを浮かべる。扉の前に、それまで影も形もなかったアルディールとセリカの姿があった。
「何だ?どこ行ってたんだ?ってか俺の必死なさまを、どこかでのんびり観戦してたのか?」
「ええ。素晴らしい見世物でした」
鞄から塗り薬を取り出しながら、アルディールはそう言った。しかしその顔はいつもの皮肉屋のものではなく、心からの安堵を浮かべていた。
「しかし、あまりにも無茶な戦い方ですよ。閉じ込められて、手を貸せなかった私が言うのもなんですが」
「まぁ、自覚してるよ。でもすげぇ強かったし、怪我してもセリカ(なかま)がいるからな!」
倒れたコボルトの元へと向かっていたセリカが、びくりと足を止めた。振り返る前の少女の顔はどこか怯える子供のようだったが、二人に見せた表情は穏やかだった。
「奇蹟は万能ではありませんよ。流した血はどうしようもないですし、傷を癒せる限度もあります。神聖力が足りないことだってありますからね」
指を立てて注意するようにそう言うと、彼女はハルバーンに近づき、杖を床へと着けた。
「我が神の御手よ。御身のために力を揮いし信徒の戦傷にお触れ下さい。現の理を消し、ただ御身の慈愛のままに。<<中級回復>>!」
銀色の髪が揺らめかせながらセリカが奇蹟を唱えると、ハルバーンは白く温かい光が体の奥底まで染み入るのを感じていった。
胸の傷や深い裂傷が、ゆっくりと塞がっていく。セリカは万能ではないと言ったが、ハルバーンからすればこの力はそれと等しく思えていた。
焼けるような鈍く鋭い痛みが、ずきんと疼く程度まで治まっていく。
「はー、本当にすげぇな!ありがとな、セリカ」
「……いえ」
感謝を伝えるように肩へと伸ばされた手を、セリカは身を捩って避けた。
大したことをしたわけでもないのに大げさに感謝をされるのが、何とも言えないもやもやとして残る。
「おっと、わりぃわりぃ。手に血がついてたなっ、っと!」
足の力が抜けたハルバーンを、アルディールが咄嗟に支えながら肩を竦めて言った。
「血が不足しているか、激闘の後で力が抜けたんでしょう。やっと、人間らしいところが見られましたね」
「人間らしいってどういうことだよ!?いや……まぁ、ちょっと俺も、この戦いで思うところは出来たけどな」
床へと降ろされた主は、そう言って神妙に頷いて見せた。
そんな二人とは別に、セリカは床に倒れたコボルトへと目を向けると、そこへ近づき始めた。
細まった目は冷淡だ。だがその冷たい双眸は、刀を握る魔物の手がぴくりと動いたのを認め、見開かれた。
コボルトは最期の力を振りしぼって上体を軽く起こし、刀の先をアルディールの無防備な背中に向ける。
その表情は、苦悩に満ちていたが。突如走った悪寒は従者の凄惨な結末を予感させた。
問題、あるだろうか?
必要なのは勇者だけだ。あの従者が死んだところで、戦力は大して変わらない。むしろ、しつこく疑ってきた人間が消えるのは、都合がいい。たった一人の他人を救うために、これまでの全てを無にする価値なんてない。
セリカは冷静を装おうとしたが、その唇は微かに震えていた。
コボルトが握る刀から、風を纏った剣先が切り離されて矢のように飛んでいく。
あ――駄目だ。
これまで彼女は、誰かと共に戦った経験など一度もなかった。他人の命と目的を天秤にかけたことなどなかった。
一人で戦い抜いて来た経験が、鋭敏に従者の死の匂いを感じてしまったその瞬間。
体が勝手に動いて、小さな影がアルディールの前に飛び出した。
――何を、しているの?
迫る凶器を前に、彼女は自分に問いかける。
他人を見捨てることなど、当たり前に出来ると思っていたのに。
でもそれはきっと、あいつと同じだ。同じに、なってしまう。
それに……私なら、問題ない。
醜い私なら、価値のない私なら。
ここで死んでも、誰も悲しまない。
いや、終えるつもりはない。復讐のためだけの、この生を。
皮肉にも私には、奇蹟がある。
「ぐっ……ああああっぁ!!」
「セリカ!!」
ハルバーンの大声の中で、視界が赤く染まる。癒しの奇蹟を唱えようとした口は、苦悶の声しか出て行かない。
貫かれた脇腹が熱い。痛い。苦しい。
復讐のためになら糧に出来たその感覚が、今は何故だか堪らなく耐えきれない。
奇蹟の力だけでは、もう間に合わない。
慌てた様子で自分の名を呼ぶ二人が、天井と共に視界に入る。
もはや手は一つしかないのに、いまさら僅かに躊躇う自分がおかしくて仕方が無かった。
復讐の中でしか生きられない自分には結局、この醜い力しか残されていないんだ。
意を決した瞬間、少女の背中は黒く歪み、その闇から二つの腕が這い出した。




