プロローグ
男は生まれながらにして、誰よりも優れた存在だった。
五歳にして衛兵と戦う魔物に躍りかかり、太い首にナイフを突き立て切り殺した。
茫然とする衛兵たちに向かってその首を放り投げると、笑いながら次の獲物へとひた走る。
エリディウスと言う勇者の足跡は、この時より始まった。
十になる頃には奸計を企む魔族を破壊的な魔術で滅し、その財貨でダイスに興じる。
咎める者も、諫める者もすでに彼の元から離れ、けれどその強さは世界が求めて止まなかった。
十五にして彼は、王から勇者の称号を授かった。
放蕩に沈み、常に他者を見下し、気に入らない相手は力で分からせる。
それでも人々はこう讃えた。
エリディウス!エリディウス!
彼は人類最後の希望の光。
そして二十となった今。
勇者エリディウスはその剣の眩い輝きと暗黒を、魔王に突きつけていた。
地が割れ、天が裂く。
何百年と生物の脅威として君臨し続けて来た魔王との戦いは、遂に決着を迎えようとしていた。
勇者の剣が光と闇の螺旋を纏う。
果てしなく暗い深淵も、目を焼くほどの光輝も、等しく全てを断ち切る剣。
魔王の巨躯をその才能だけで追い詰めて、勝利は目前に迫っていた。
そして勇者の剣が魔王の心臓を貫かんとした、その瞬間。
剣が纏った輝きが、僅かに鈍った。
人々から背負った希望は眩かったが、彼自身の心の光はあまりにも微かだ。
何が足りなかったのか。エリディウスが振り返ることは決してない。
何が足りていたのか。何者よりも優れた勇者には理解が出来ない。
ただ消えゆく魔王が、その腕を勇者の頭を掴んだ。
「惨めにも全てを失う者よ……一つ、教えてやろう。私は貴様の剣では滅びぬのだ。決してな」
巨躯が影へと、朝露へと溶け落ちる前に、勇者の世界は真っ白に染まった。
〃
目覚めた男は空っぽだった。
記憶は何もなく、自分自身も分からない。
隣に座る初老の男がこう告げた。
「ようやく目覚めたのだな。心配したぞ」
優しい言葉に、男はしばし瞬いて言った。
「俺は……俺は何だ?」
「お前はハルバーン。我が愛しき第四王子。ハルバーンだ」
ハルバーン。
聞き覚えのない名前が、すとんと空虚に落ちて行く。
不快に胸がざわめくのは、何のためなのだろう。
ハルバーンとなった男には何も分からなかった。
金色の香り豊かなエールを、体いっぱいに浴びた。
少し横に伸ばした右手が愛らしい乙女の柔肌に触れたと思ったが、意外にも逞しい感触が返ってくる。だが男はむしろ、それも良いと思っていた。
なにせ彼は飽き飽きしている。美女も賢女も下女も。とにかく多くの女性を抱いて来た。
だから興味がそそられるその感触を再び確かめるように、指先に力を籠めると、乙女は誘うような流し目を送ってくる。
素晴らしい!今日の相手は彼女だ。
男はその張りのある――あり過ぎるうなじへと唇を伸ばしていく。
その瞬間うなじはようとして消え、かわりにどこかで見たことがある威厳な面持ちの男の顔が現れた。
"惨めにも全てを失う者よ……"。
憎悪に満ちた顔で語り始めたその巨躯の存在から彼は必死に逃げ、何かに縋りつくように手を伸ばした。
指先に、確かな温もりと感触が伝わる。安堵が、胸一杯に広がっていく。
「助かった!……ん?かたっ!かたいっ!?」
だが夢から醒めた男が抱き着いたのは、馬の細くも逞しい足と嘶きだった。そしてよほど脚に抱き着かれたのが嫌だったのだろう。男の顔に、先ほどまでは愛する気であった馬の蹄がめり込んだ。
「いってぇええ!!」
「ヒヒィィイン!!」
「なんで馬!?いや、ここ……ここ馬小屋じゃねーか!?……何で馬小屋なんかに!?」
たらりと垂れる鼻血を拭いながら、男は首を捻った。狭くシミだらけの馬小屋は人の寝る場所として相応しいとは言えない。だが確かに自分はここで寝ていて、最高の夢を見たのだ。
男は何だかとても空しくなって馬小屋から飛び出すと、眩い陽光が降り注いできた。
一面の、青い空。
腕を組み、しばし空を見上げながら何があったのかを思い出そうとしていた男は咄嗟に振り向いた。どこからか複数の視線を感じたのだ。
しかし振り向いた先にいたのは、帽子を被った中肉中背の男だけだった。
「……あんた、今うちの馬小屋から出てこなかったか?」
用心するようにピッチフォークを両手で構えた牧場主が聞くと、男は悪びれもせずにからっと言った。
「え?ああ、ひでぇ場所だった」
「馬小屋に無断で侵入しておいてその言い草かよ。それに、ひでぇのはあんたの臭いなんだが……ってかあんた、何か見たことのある顔だな?」
じろじろと粘りつくような視線を向けられた男の脳裏に、昨夜の記憶が蘇った。
“酒や女に溺れず、王族としての責任を常に考え行動しなさい”。
記憶を無くしてから半年の間、国王である父から直々にそう言われ続けた男、第四王子ベルグ・オリエット・クルザ・ハルバーンの自制は、言われてから三十分も持たなかった。軟禁されていたハルバーンは、その自慢の身体能力で城から脱出すると、何はともかく酒場に向かってツケでエールを飲み倒した。知り合ったガラの悪い連中と意気投合してバカ騒ぎした後は、馬を盗んで勇気を証明すると彼らに豪語し、そして急に襲ってきた睡魔が彼の蛮行を食い止めたのだ。
自分は王族だ。地に足が付いていないような違和感はあるが、高貴な身分であると自覚したハルバーンは急に衣服を整え始めた。
そして。
「うぉほん!ふむ……下民よ、頭が高い」
「はぁ?」
声色を変えて突然妙なことを言いだした男に、牧場主は怪訝な表情を浮かべる。良く通る声は牧場中に響き、何なんだ何だと牧場で働く人たちが集まってくる中でハルバーンは高々と宣った。
「私の名はベルグ・オリエット・クルザ・ハルバーン。そなたらが生きる国の、親愛なる第四王子であるぞ」
「……」
「……であるぞ!」
頭から飛び出ている藁。手で整えてもよれよれの衣服。男から漂う臭気。
互いの顔を見合わせていた牧場の人たちが、嘲笑し始めたのはすぐの事だった。
「ぷっ……はははっ!」「あんたが王族なら、そこの羊は神様だよ!」「王子様ぁ、うちの馬小屋はお気に召したでしょうか?」
「こんのぉ下民どもが!今すぐにその口を閉じさせてっ、うおっ!?」
「ヒィィィイン!!」
叩き切る武器など装備していなかったが、慣れた手つきで腰元を探るハルバーンを強い衝撃が襲った。なんと抱き着いたあの馬が、彼へ向かって突撃してきたのだ。
「あぐゅ!っ……こいつ!……よっぽど俺の事が嫌いなんだな!?」
苛立つハルバーンの耳に、牧場にはそぐわない厳めしい金属音が微かに届く。そちらを見やると、物陰にうごめく影が見える。鋭く伸びるその影が人の命を奪いうる刃であることを理解した彼は、慌ててこの場から去ることを決意した。
「はぁい!はい、はい。皆さん、正解です。俺は第四王子なんかじゃありませーん!ただの給仕です!そう言うことで、それじゃあ!」
無理やり会話を断ち切って牧場から去ろうとした第四王子だったが、彼の耳に飛び込んで来たのは予想外の言葉だった。
「第四王子、あんたを人質にさせてもらう!!」
「家畜じゃなくて狙いは俺かよ!?」
傷んだ鎧と刃こぼれした武器を持った男たちが物陰から一気に飛び出してきて、ハルバーンは一瞬で退路を断たれてしまう。彼には武器もなく、身を守る防具もない。あるのは未だに少し残っている酩酊感と筋骨隆々の肉体だけだ。
「待て!いいか……待て!王族は王族だが……俺は四男だぞ?俺の身代金なんざ、分け合ったら一晩の酒と女遊び代にもならねぇ!金が欲しいなら、兄貴たちとかにしとけって!なぁ?」
ハルバーンとしては、これ以上ない言い分だった。だが野盗たちはハルバーンの言葉を聞いて明らかに殺気立っていく。目を血走らせ、顔は憎しみに歪んでいく。刃を握る手は怒りで震え、そのせいで軽く自らの指の皮を切り、血が滴り落ちたことにも気が付かなかった。
「金?金の問題だと思っているのか……!!王族なら、俺たちの村を滅茶苦茶にしやがった勇者の行いを咎められるはずだろ!?」
「ゆ、勇者ぁ!?そんなこと言われても俺には関係なっ、わあっ!!」
大声を上げて突っ込んで来た野盗の一振りを、ハルバーンは反射的に身を捻って回避した。その勢いのまま、内から漲る感覚に逆らわずに翻って敵の横腹に肘の先を打ち込むと、凹んだ鎧ごと敵が吹き飛んでいく。
「おっ?わっ!?」
続けて一斉に飛び掛かって来た野盗たちとの間合いを確かめ、素早く地を蹴ると懐に潜り込んで一人ずつ拳を喰らわせる。思考よりも早く体が動く奇妙な気持ち悪さがあったが、気付けば野盗たち全員が蹲って地に伏していた。
「おぉ……俺、強くね?それになんだか、暴力が体に馴染むわぁ」
物騒なことを言いながらハルバーンは屈んで、倒れた野盗たちの顔を覗き込んだ。彼らの憤りは尋常なものではなく、殺意も本物だった。だが苦悶に顔が歪んでいることを考慮してもやはり、ハルバーンには見覚えがない。
野盗たちの呻き声を背にしながら軽く頭を掻いていると、牧場の人間が呼んだらしき衛兵たちが駆けつけて来た。
「!……第四王子!?我々、怪しい者がいると通報を受けて駆けつけたのですが……もしかして、心当たりがありますか?」
自分が衛兵たちが駆けつけてきた原因だと知ったハルバーンは軽く溜息をついたが、次の瞬間にはもうギャンブルのことで頭がいっぱいになっていた。
野盗たちは衛兵が処理してくれるし、牧場主にも自分が本物の王子だと説明するだろう。煩わしいことから解放された爽快感は最高だ。この気分のまま、服を着替えて湯浴みした後で街でダイスを興じるとしようか。
にまにまとした気味の悪い笑みはハルバーンの上機嫌さを物語っていたがしかし、衛兵の言葉によってすぐに凍り付くことになる。
「ハルバーン第四王子。国王様より、すぐに登城するようにとの言付けがございます」
「……マジか」
どうする?逃げちまうか?でも城下にいる衛兵たちの目を避けながら遊びに興じるのは難しいよなぁ。
第四王子の迷いを打ち消したのは王子自身でもなければ衛兵でもなかった。牧草を切り裂きながら颯爽と駆け抜ける一陣の黒い影、あの二度も足蹴りをハルバーンに見舞った漆黒の馬が、二度あることは三度あるを体現しに来たのだ。
「あぁくそっ!……またお前か!何で俺をそんなに執拗に狙うんだよ!?……ごふっ!!」
「今だ!王子を確保するぞ!おい、臭いは我慢するしかないだろ!早く誰か取り押さえろ!」
まるで腫物のような扱いを受けながらも、ハルバーンに言い返す気力は無かった。馬の蹄は的確に顎を撃ち抜いて彼の脳を揺らし、視界がぐにゃぐにゃに溶けていたからだ。
情けなくずるずると引きずられていく第四王子。彼の物語は、溶けた地面の上から始まるのだった。
よろしければ、心のままに評価をお願い致します。




