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透明人間、恋をする

作者: のっち

朝、目が覚めると、世界は変わっていた。


別に特別なことが起きたわけじゃない。雨が降っていたわけでも、地震があったわけでもない。いつもの部屋で、いつものようにアラームが鳴って、俺はそれを止めてベッドから起き上がった。それだけだ。


なのに、俺の存在が、この世界からまるごと剥がれ落ちたような感覚があった。


「……お母さん、朝ごはん」


台所に立つ母親の背中に向かって声をかけた。だが、彼女は振り返らない。料理を続けながら、弟にだけ「早く着替えなさい」と声をかけている。


変だな、とは思った。


でも、まだこのときは、気のせいだと片づけようとした。俺の声が小さかったのかもしれない。母さんが、ただ聞こえなかっただけだと。


だけど、その日一日で、俺ははっきりと理解することになる。


——誰も、俺のことを見ていない。


登校中。いつもなら「おはよう」と声をかけてくれる近所の柴田さんが、まっすぐ前を見たまま自転車を走らせていく。電車の中でも、隣の男子高校生がまるで“そこに誰もいない”かのように俺の座っている席に腰掛けようとする。


駅前の改札で、ICカードをかざしてもゲートは開かない。無人改札を抜けるとき、駅員がこちらに気づく様子は一切ない。


「……え、俺、なんか……死んだ?」


冗談のように口にしてみる。だけど、それすら自分の耳にしか届かないという現実が、何より怖かった。


学校に着いても同じだった。クラスの誰も、俺の存在に反応しない。声をかけても、目を合わせても、すり抜けるように振る舞われる。


試しに教室の隅で椅子を引いた。音が鳴った。だが、それに振り返る者は誰もいない。


俺はそこにいる。声も出せるし、物に触れる。にもかかわらず、俺という存在だけが、空気のように扱われていた。


担任が教室に入ってきて、出席を取りはじめる。俺の名前は呼ばれなかった。座っているはずの俺の机には、誰も目を向けない。


次第に、俺は教室の壁の一部になったような気分になっていた。黒板の落書きよりも、椅子のキズよりも、存在感がなかった。


昼休み。弁当を開いて食べていると、クラスメイトの一人が「ここ空いてる?」と俺の机にトレーを置いた。


「……おい、俺ここに——」


声をかけても反応はない。完全に“透明人間”として扱われている。彼は気にせず、俺の前に座り、友人と笑いながら話をし始めた。


俺の手が、震えた。


ふざけてる。


何が起きてる? これは夢か? それとも、何かの悪い冗談か?


いや、これは現実だ。夢にしては、あまりにも細部がリアルすぎる。


教室の空気、パンの袋の開封音、床の冷たさ。全部が、現実そのものだった。


——俺は、生きている。


でも、誰の世界にも存在していない。


それに気づいたとき、俺の中の何かがゆっくりと崩れていった。


家に帰っても同じだった。母は弟と楽しげに夕食をとっている。父も仕事から戻ってきて、「今日な、部長がまたさあ……」といつものように話している。


俺の椅子は空のままだった。


食卓に並ぶ三人分の皿。


俺の分は、どこにもなかった。


夜、リビングで泣いてみた。声をあげて、わざとらしいほどに。


けれど誰も気づかない。テレビの音がむなしく響くだけ。


そのとき、初めて本当に理解した。


——俺は、世界から消えかけている。


その事実に触れた瞬間、視界がぐらりと傾いた。


息が、うまく吸えなかった。


自分という存在が、どこか遠くへ流れていくような錯覚。


“消える”って、こういう感覚なのかもしれない。


……でも。


それでも次の日、俺は学校へ行った。


なぜなら——それ以外に、行く場所がなかったからだ。


そして、そんな日常の、三日目の昼休みだった。


「——ねえ、そこの君。そこ、空いてる?」


その声に、俺は心臓が跳ねるのを感じた。


振り返ると、そこには、見知らぬ女子が立っていた。


他の誰にも見えない“俺”を、まっすぐ見ていた。


「……君、私のこと見えてるよね?」


その言葉に、俺は驚きのあまり声が出なかった。


目の前の少女は、俺の顔を真正面から見つめていた。

目線が合うという感覚を、何日ぶりに味わっただろう。

いや、何週間、何ヶ月、何年ぶりだろう。そんな気さえした。


俺は机に置いた箸を持ち上げる。彼女の反応を見るために、ゆっくりとそれを振ってみる。


彼女はうなずいた。「うん。やっぱり、ちゃんと見えてる」


「……なんで、お前……俺が見えるんだ?」


やっと出た声はかすれていて、自分でも信じられないくらい情けなかった。


「だって、そこにいるから」


彼女は、何でもないことのように言った。


それが、世界で一番信じがたい奇跡のように思えた。



彼女の名前は、三ツ木 みつぎ・あずさ

その日からこの学校に転入してきたという。

黒髪を肩で切りそろえた整った髪型に、制服のリボンがきちんと結ばれていて、どこかお嬢様然とした雰囲気をまとっている。

だが、その穏やかな口調と、こちらに対する自然な距離感が、不思議と緊張を解いてくれる。


「ねえ、名前、教えてくれない?」


「……え」


「だって、誰にも気づかれないんでしょ? 名前も呼ばれないの?」


俺はしばらく黙っていたが、ついに観念して、口を開いた。


「……笹原。笹原隼人」


「ささはら……うん、いい名前だね。じゃあ、隼人くん」


そのとき、俺の心の中で、何かがぱちんと音を立てた。


名前を呼ばれる。それだけのことで、こんなに胸が熱くなるなんて思わなかった。


「君が“見えなくなった”のって、いつから?」


「たぶん、三日前。朝起きたら、誰にも見えてなかった」


「じゃあ、それまでは普通だったんだ」


「……まあ、普通って言っても、地味だったけどな」


「私ね、時々“見えない人”が見えることがあるの」


「……は?」


「変な話でしょ。でも、小さい頃からなんだ。ある日突然、人の輪の外に落ちちゃった子とか、自分の存在を閉じ込めちゃった子とか、そういう“見えない人”が、私には見えることがあるの」


「そんなの……」


「信じられない? でも、君には見られてる。だから私は、君に話しかけてる」


それが彼女の答えだった。

理由なんてどうでもよかった。


誰かが、自分に話しかけてくれる。

それだけで、世界が少しだけやわらかくなる。



それから、昼休みのたびに、彼女は俺の席にやってくるようになった。

時にはパンを分け合い、時には小さな話をして笑い合い、まるで“普通の友達”のように時間を過ごす。

ただひとつ違うのは、その会話が“俺と彼女だけのもの”だということだった。


放課後も、校舎裏のベンチに並んで座ったり、図書室のすみにこっそり集まったり。

誰にも気づかれない存在というのは、時に自由で、時に孤独だったが、彼女が隣にいるだけで、その孤独は不思議と温かさを帯びていった。


ある日、俺は聞いてみた。


「……なんで、そんなに、俺に優しくするんだよ」


梓は笑わなかった。ただ、ゆっくりと視線をこちらに向けて答えた。


「だって、君が、自分を見捨てた顔をしてたから」


「……見捨てた?」


「うん。誰にも見えないって、自分でも思ってたでしょ? 自分のこと」


俺は答えられなかった。

図星だったから。


「人に見捨てられるより、自分で自分を消しちゃうほうが、ずっと深くて、重いんだよ」


「……お前は、なんなんだよ」


「私はただの人間。ちょっとだけ、見えちゃうだけ」



日常は、少しずつ変わっていった。

彼女と話すようになってから、俺は朝起きるのが苦じゃなくなった。

コンビニでジュースを買っても、図書室で本を開いても、「どうせ誰も見てない」とは思わなくなった。


そして気づいた。


俺が“見えなくなった”のは、世界が俺を無視したからじゃない。

俺自身が、自分の存在を“見ていなかった”からだったのだと。


ある日の昼休み、彼女がこう言った。


「君が見えるようになるにはね、“見てもらう”ことじゃなくて、自分から“見ようとする”ことだと思うんだ」


「……それ、哲学?」


「違うよ。恋だよ」


その言葉に、俺は初めて——ほんの少しだけ、本当に少しだけ、顔を赤らめた。


そして、彼女がそっと俺の手を握って言った。


「私は、ちゃんと見てる。君を」


その温度は、確かに生きていた。



その日もいつもと同じように昼休み、梓は俺のところへやってきた。パンの袋を二つ持っていて、「今日はチョコのほうが安かったんだって」と笑って見せる。


だが、俺はそのとき気づいた。


その声が、ほんのわずかに“遠く”感じたことに。


「……なんか、今日、調子悪そうじゃないか?」


「ううん。そうでもないよ」


そう言って笑う彼女の笑顔はいつもと同じだったが、どこか“薄く”見えた。いや、視線がズレているような、こちらに焦点が合っていないような。


「……あずさ」


名前を呼んだ瞬間、彼女の肩が小さく揺れた。


「……ごめん。最近、ちょっとだけね。君の姿が、ぼやけることがあるんだ」


言葉が凍った。


「え?」


「なんか、おかしいよね。最初ははっきり見えてたのに……最近、君の声も、ところどころ届かなくなる瞬間がある」


「それ、どういうこと……」


「わからない。でも、思い当たることが一つだけあるの」


梓は息を飲み込むようにして言った。


「私の“見える力”って、実はずっと続くものじゃないんだ。これまでも何人か、見えなくなった人がいた。多分……“見えるべき理由”が、なくなると、私はその人を見られなくなる」


「理由って……」


「君が、自分をちゃんと見られるようになると、私は見えなくなるのかもしれない」


俺は黙った。


それは、救いであると同時に、喪失でもあった。



次の日から、彼女の声はますます遠くなった。


校舎裏で隣に座っても、彼女は何度か目を細めて俺を“探す”ようにしていた。


「……君がいなくなっちゃうなんて、やだな」


「俺はまだ、ここにいる」


「でも、私の中では、君がだんだん透明になっていくの」


「逆だと思ってた」


「え?」


「俺が“見えるようになる”ほど、お前の中で俺が“見えなくなる”なんて」


「……皮肉だよね」


彼女の声が震えた。


俺は彼女の手を握った。あのとき、最初に手を握ってもらったときと同じように。


「俺が、また見えなくなったら……そのときは、お前、もう俺を思い出せないのか?」


「……わかんない。でも、君のことは絶対に忘れたくないって思ってる」


その言葉が、どこか切実だった。


「だからさ、お願いがあるの」


「……なに」


「ちゃんと、自分で自分を見つけてよ。私なんかに頼らなくても、自分を見られるようになって。そしたら、君は本当に“ここにいる”って証明できるでしょ」


「でも、それって……お前と会えなくなるってことだろ」


「そうだね。……でも、私はそれでいい」


彼女は微笑んだ。


涙を浮かべたまま。


「君がこの世界で、ちゃんと“存在”できるなら、私はいなくていい」



その日、俺は家に帰ってノートを開いた。


自分の名前を書いた。


何度も、何度も、何度も。


——笹原隼人。


黒板に書かれなかった名前。

名簿から抜け落ちた名前。

誰にも呼ばれなかった、自分の名前。


けれど、その名前を、梓は呼んでくれた。


だから、俺はそれを何度も書いた。


この手で、もう一度、自分の存在を確かめるために。



次の昼休み、彼女の姿は、ぼんやりとしか見えなかった。


まるで霧の中に立っているようだった。


「もう……限界、かも」


彼女は笑って言った。


「でも、君、すごく変わったよ。最初は、壁みたいに冷たかったのに、今じゃちゃんと“生きてる”」


「……俺、ちゃんと見えてるか?」


「うん。見えてる。少しだけ、ね。でも、もうすぐ、きっと見えなくなる」


「それでも、お前のこと……忘れたくない」


「私も」


二人は、最後のような握手を交わした。


その瞬間、彼女の手は、わずかに透けていた。


光の中に溶けるようにして、彼女はそこから消えていった。


そして、俺は、初めて自分の名前を胸を張って口にした。


「俺は……笹原隼人だ」


その声は、しっかりとこの世界に響いた。



彼女が消えた翌朝、俺は窓を開けた。


カーテンを引き、外の風を部屋の中に入れたのは、何ヶ月ぶりだっただろう。空気が冷たくて、だけど少しだけ春の匂いがして、世界が“生きている”ことを、皮膚で感じた。


鏡を見た。そこには、確かに俺がいた。

目の下にクマができていて、髪はぼさぼさで、制服は少し皺が寄っていたけど、たしかに“俺”がいた。


この世界に、俺は“存在している”。


「——笹原隼人」


声に出して、もう一度名前を呼んだ。


それが確かに響いたことが、何よりの証だった。



学校に着くと、驚くことがあった。


昇降口で靴を履き替えていたとき、背後から声がかかった。


「……ねえ、君」


振り返ると、見知らぬ男子生徒がいた。隣のクラスのやつだった気がする。


「昨日、校舎裏で、なんか……独り言、言ってた?」


「え? ……いや……うん、ちょっとな」


「そっか。なんか、あのとき——すげー真剣な顔してたから」


「……見えてたのか、俺のこと」


「は? 何言ってんだよ、普通にそこにいたじゃん」


それは、当たり前の会話だった。


けれど俺には、それが奇跡のように感じられた。


世界が、俺を見ている。


それを証明してくれる、何気ない言葉。



教室に入って、自分の席に座る。いつもと同じ風景のはずなのに、椅子の硬ささえもありがたく思えた。


前の席の女子が、ふと振り返って言った。


「あれ? 今日、なんか声明るくない?」


「そうか?」


「うん。昨日まで空気だったのに」


空気。笑えた。

でもそれは、悪口じゃなかった。


その子は本当に、今、俺の顔を見て笑ってくれていた。


「……ありがとう」


そう返すと、彼女は少しだけ驚いて、それから笑った。



昼休み。俺は校舎裏に足を運んだ。


そこに、梓の姿はもうなかった。


でも、風が吹いていた。あの日、彼女と並んで座ったベンチの上に、パンくずのような紙屑が乗っていて、それがひらりと飛んでいく。


「ここにいたんだよな、お前」


そう呟くと、風が少しだけ強くなった気がした。


もう、彼女の姿は見えない。

彼女の声も、聞こえない。


でも、不思議と寂しさはなかった。


彼女は「いなくなった」のではなく、「俺の中に還っていった」——そんな気がしていた。


「なあ、梓」


空に向かって話しかける。


「俺、たぶんもう大丈夫だ。ちゃんと、自分を見てる。これからも、ちゃんと見つめていく」


言葉にすると、それは誓いのようになった。



それからの日々、俺は少しずつ変わっていった。


朝、鏡を見ることが習慣になった。寝癖を直し、制服にアイロンをかけて登校する。ノートはきちんと取るようになり、先生に話しかけられれば目を見て答える。


誰かが自分に向けて笑ったとき、自分も笑い返せるようになった。


そしてある日、俺はふと思い立って、図書室で一冊のノートを開いた。


表紙に、こう書いた。


『笹原隼人、観察日記』


それは、自分を記録するための日記だった。


今日感じたこと、嬉しかったこと、つらかったこと——全部、書き留める。


「自分を、見失わないように」


それは、あの子との約束だった。



季節が巡る。


春が終わり、梅雨が過ぎ、夏が来て——ふと、校舎の影に、懐かしい気配を感じた。


そこには誰もいない。

でも、俺は確かにわかっていた。


「——ありがとう」


風が、頬を撫でた。


その温度は、あのとき、初めて手を握ったときの、それに似ていた。


俺は、透明人間じゃない。

俺は、ここにいる。


そして、俺を見つけてくれたあの子のことを、俺はずっと忘れない。


たとえ、その姿が見えなくなっても。


名前を呼び、名前を呼ばれた。


その記憶だけで、きっと俺は、これからも歩いていける。

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