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追跡者

霧が森を覆い尽くしていた。

湿った土と朽ちた葉の匂いが、冷たい夜気とともに肌にまとわりつく。


ローゼリアは、無理やり引かれるように歩を進めていた。

ルネの手が強く腕を引き、泥に沈む足を無理やり前へと運ばせる。


どこへ向かっているのか——それすら知らされていない。

何度問いただしても、ルネは答えなかった。

「……どこへ行くつもりなの?」

何度目かの問いかけも、やはり返ってこない。ただ霧の奥へ、森の深部へと歩き続けるだけ。

その時、遠くから複数の足音。湿った土を踏みしめる重い響き。

ローゼリアの鼓動が速くなる。

次の瞬間、霧の帳を裂くように、鋭い声が響いた。


「そこまでだ——ルネ・カイラス!」

霧の中から現れた影ーーアーデンだ。

彼の瞳が、闇の中でも冷たい光を宿し、ルネを真っ直ぐに射抜く。

一瞬にして、森の静寂が緊迫した空気に塗り替えられた。

アーデンの手は迷いなく銃を構え、その瞳は鋭くルネを射抜いていた。

「ロゼ、下がれ!危険だ!」

彼の声が響いた瞬間、ローゼリアの身体が強く引かれた。

「——ッ!」

ルネの腕が彼女の首元を絡めとる。

動揺する間もなく、冷たい刃先が喉元に押し当てられた。

「悪いな」

ルネの低い声が耳元に囁く。

「お前には、もう少し役に立ってもらわないと」

アーデンの表情がわずかに歪む。

「ルネ……貴様……!」

「そんな顔をするなよ、"捜査官殿"」

ルネは皮肉げに笑い、さらに刃を押しつける。

ローゼリアは喉を圧迫されながらも、必死に息を整える。

「……最低」

絞り出すように言った彼女の声に、ルネはふっと口元を歪めた。

「いいじゃねえか、俺が最低なのは今に始まったことじゃない」

ルネは冷笑を浮かべ、アーデンを挑発するように声を上げた。


「撃ちたきゃ撃てよ。だが……俺を殺したら、この女も死ぬ。刻印を刻んだからな」

アーデンの指が引き金にかかる。だが、その手が微かに震えた。

「そんな戯言、信じると思うか?」

疑念を滲ませた鋭い眼差しが、ルネを射抜く。

だが、ルネは余裕の笑みを浮かべたまま、ローゼリアの襟元を無造作に引き裂いた。

「証拠なら、ここにある」

露わになった胸元——そこには、血のように赤黒い刻印が絡み合うように刻まれていた。

複雑にねじれた紋様が、まるで生きているかのように微かに脈打っている。


アーデンの表情が、一瞬で凍りついた。

「……まさか、本当に……」

信じがたい現実に、彼の指が引き金からわずかに離れる。


ローゼリアは、恥辱と怒りで顔を歪めた。


何もできない——ただ、ルネの腕の中で呼吸を荒げながら叫ぶ。


「アーデン、撃たないで! この男が死んだら、本当に私も死んじゃうの……!」

震える声が森に響いた。

アーデンの瞳が揺らぎ、銃口がわずかに下がる。

彼の唇から、低く押し殺した声が漏れた。

「……必ず君を取り戻す。約束するよ」

その言葉は誓いのようであり、自分自身に言い聞かせる呪いのようでもあった。

「無理だな。こいつはもう、俺と同じ檻の中にいる」

ルネは薄く笑う。

そのままローゼリアの耳元に唇を寄せ、囁くように言った。

「見ただろう? お前の“救い主”は、俺を殺せない。……結局、お前は俺の盾でしかない」

ぞっとするほど冷静な声。

その残酷な言葉に、ローゼリアは悔しさと絶望で唇を噛み締めた。


緊迫した沈黙を破ったのは、ローゼリアの鋭い抵抗だった。


彼女は喉に添えられたルネの刃を恐れず、全身の力を込めて腕を振り払う。

「……離して!」

不意を突かれたルネの視線が一瞬だけ逸れる。

その瞬間を、アーデンは見逃さなかった。

ルネがローゼリアを引き戻そうとした次の瞬間、彼の背後から鋭い蹴りが炸裂する。

「……ッ!」

体勢を崩したルネに、アーデンがすかさず接近。

拳銃の銃口が至近距離でルネのこめかみに向けられた。

だが、ルネは即座に地を蹴り、刹那の隙を突いてアーデンの腕を払う。

すぐさま反撃に転じようとしたが、すでに別の捜査官がルネの利き腕を強く捻り上げた。


バキッ——鈍い音が響く。

「……チッ」

舌打ちと共に、ルネの動きが一瞬鈍る。だが、それでも彼は完全には倒れない。

体を強引にねじり、拘束を振り解こうとする。

「クソが……!」

反射的にローゼリアへと手を伸ばすが、彼女は後ずさり、アーデンがルネとの間に立つ。

「もう終わりだ、ルネ・カイラス」

轟音と閃光が、一瞬にして森を支配した。

「——ッ!」

爆発的な閃光が視界を白く染め、直後に耳をつんざく衝撃音が響く。

アーデンは反射的に目を覆い、咄嗟に膝をつく。

「隊形を崩すな!」

捜査官たちが混乱の中で指示を飛ばすが、突如として降りかかった強烈な光と音に動きを封じられる。

視界がまだ歪む中、森の陰から悠然と歩み出る男がいた。

黒いクロークを纏い、片手にはまだ煙を上げる閃光弾の残骸。


その冷静な瞳が、まず戦場を見渡し、そしてルネを捉える。

「ずいぶんと手間取ってるようだな、ルネ」

「…お前こそ来るのが遅いぞ、ゼヴァ」

ルネは笑った。

どこか挑発的で、それでいて痛みすら飲み込むような冷笑。

彼は迷いなくローゼリアの腕を掴み、そのまま強引に引き寄せる。

「っ……離して!」

抵抗する暇すら与えず、ルネは彼女を抱えたまま、ゼヴァのもとへ駆け出した。

動きを取り戻し始めたアーデンが、視界の揺らぎを押し殺しながら即座に銃を構える。

「待て——ッ!」

しかし、すでに遅かった。

ゼヴァは振り向きもせず、静かに微笑む。

その目には焦りも迷いもない。まるで、すべてが計画通りであるかのように——。

「撃つならどうぞ。ただし、あの子は確実に死ぬよ」

淡々とした声音が、静寂を切り裂く。


アーデンの指が、銃の引き金にかかる——が、ほんの僅かに震えた。

引けば確実にルネを撃てる。しかし、その一発がローゼリアの命を奪うことになるなら——。

「クソ……!」

逡巡の刹那。

その一瞬が、致命的な隙となる。

ルネとローゼリアは、ゼヴァに導かれるようにして森の奥へと消えていく。

アーデンは歯を食いしばり、悔しさで拳を握り締めるしかなかった。


アーデンは静かに銃を下ろした。

森の奥へと消えていった三つの影。

彼は拳を握りしめ、悔しさで奥歯を噛み締める。

ルネ・カイラス——絶対に逃がさない。

ローゼリアを人質にし、こうも執拗に逃げ続ける男。

その卑劣さに怒りが湧かないわけがなかった。


だが——それだけではない。

アーデンは気づいていた。

この苛立ちの正体が、単なる捜査官としての義務ではないことを。


それは、ルネがローゼリアを利用していること。

彼女を道具として扱い、己の生存のために繋ぎ止めていること。

それ以上に——彼女が、自分以外の誰かと繋がっていることが、許せない。


刻印。

あの紋様が意味するものを、彼は理解していた。

生命の共有——彼女の命は、今やルネと絡み合っている。

どんなに叫んでも、どんなに手を伸ばしても、今の自分はローゼリアに触れることすらできない。

あの男の存在が、彼女と自分の間に深い溝を生んでいる。


——それが、許せなかった。


「……必ず、取り戻す」

アーデンは鋭く顔を上げ、捜査官たちに命じる。

「今すぐ包囲を再編しろ。ルネ・カイラスを捕縛する」

ルネだけでなく、ゼヴァ——あの男の介入が、事態をさらに複雑にした。

だが、迷いはない。

ローゼリアは、自分が取り戻す。

何があろうと——必ず。


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