心の軋み
山道は薄闇に包まれ、霧が静かに立ち込めていた。
冷えた空気が肌を刺し、踏みしめる土は湿り気を帯びて重い。
ルネの足取りが次第に乱れ始めるのを、ローゼリアは冷ややかに見ていた。
彼の呼吸は荒く、額にはうっすらと汗が滲んでいる。傷は塞がったはずなのに、刻印の影響か、それとも単なる疲労か——それすら知ろうとする気も起きなかった。
ただ、このまま崩れ落ちればいい。
このまま、死ねばいいのに。
彼がいなければ、私は自由になれる。
彼が消えれば、すべてが終わる——
そう願った瞬間だった。
「……ッ、く……」
突如、ローゼリアの喉が詰まり、視界が揺らいだ。
息ができない。
胸の奥が締めつけられ、内臓を雑巾のように絞られるような感覚が押し寄せる。
彼が苦しめば、自分も苦しい。
彼が弱れば、自分も引きずられる。
わかっていたはずなのに——再び、それを痛感させられた。
「……ッ、何……」
膝が震え、足元の石に躓きそうになる。
一方で、ルネは荒い息を吐きながら、それでも前へ進もうとする。
だが、限界だった。
「……チッ」
短く舌打ちし、ルネは近くの岩に手をついて膝を折る。
ローゼリアもまた、苦しさに耐えきれず、同じようにその場に崩れ落ちた。
お互いに、相手のせいで倒れる。
どこまでも理不尽な、この鎖。
ローゼリアは息を詰まらせながら、ただ痛感するしかなかった。
——この男が死ねばいいと願うことすら、私には許されないのか。
ローゼリアは荒い息を吐きながら、拳を握りしめた。
「死ぬなら勝手に死ね! でも、私を巻き込むな!」
彼女の叫びは、静まり返った山道に虚しく響いた。
ルネは顔を上げると、ふっと口元を歪める。
「お前がいるから、俺は死ねない。」
「ふざけないで!」
視界の端に転がる小石が目に入る。反射的にそれを掴み、渾身の力で投げつけた。
バシッ——
鈍い音とともに、石がルネの肩をかすめる。
同時に、ローゼリア自身の肩にも鋭い痛みが走った。
「ッ……!」
咄嗟に肩を押さえ膝をついた瞬間、ルネが微かに笑うのが見えた。
「……いつになったら学習するんだ」
ローゼリアは膝をついたまま、荒い息を吐いた。
だが、膝をついたのは屈したからではない。
痛みで肩が焼けるようだったが、それでも彼女は拳を握りしめた。
「それでも——」
喉がひりつくほどの怒気を込め、彼女は叫んだ。
「それでも、あんたを殺してやりたいって思う!」
ルネの表情が、一瞬だけ止まった。
微かに目を見開き、まるで聞き間違えたかのような顔をする。
それは驚きだった——いや、興味 だったのかもしれない。
低く、喉の奥で笑うように呟く。
「恐怖よりも、殺意か」
彼女の瞳に浮かぶものは、怯えではなく、純粋な敵意だった。
自分を殺したいと本気で思っている。
痛みに顔を歪めながらも、それでも殺したいと。
ルネは小さく鼻を鳴らし、苦笑を零した。
「ハハ……いいねぇ。お前みたいな箱入りの令嬢が、ここまで言うとはな」
ローゼリアは息を荒げながらも、ルネを睨みつける。
「お前が私を『道具』扱いするなら、私はお前を『呪い』として憎み続けるだけよ」
その瞳には怯えも絶望もなく、ただ怒りと誇りが宿っていた。
ルネはしばらく沈黙した後、静かに立ち上がり、ローゼリアに背を向けて呟く。
「……いい目をしてる。壊れるのが楽しみだ」
その言葉は、脅しでも侮辱でもなく、どこか奇妙な期待すら感じさせるものだった。
ローゼリアはその背中を睨みつけながら、自分の中に芽生える理解できない感情に気づき始めていた。
それは憎悪か?
それとも、この男への 興味 か?
ルネの言葉に傷つくどころか、それに 抗いたいとさえ思っている 自分がいた。
壊されると宣告されたのなら、その運命すら 拒絶したい 。
たとえ、それが この男を理解することに繋がってしまったとしても——
ローゼリアはそっと拳を握りしめた。
この鎖が繋いだのは、もしかすると 彼女自身の知らなかった部分 なのかもしれない。