囚われの旅路 2
空腹と疲労が限界を迎えかけたころ、ルネは朽ちかけた建物の前で足を止めた。
「ここで休む」
ローゼリアは息を整えながら、その廃屋を見上げる。
かつては誰かの住処だったのだろう。崩れた屋根から月光が漏れ、荒れ果てた床に影を落としている。
ルネは躊躇うことなく扉を蹴り開け、中をざっと見渡した。
「……しばらくは使えそうだな」
家具の残骸が散乱し、壁には無数のひびが入っている。人の気配はない。
「まともな場所じゃないわね」
ローゼリアは低く呟いた。
「まともな場所に泊まれる立場じゃねぇんだよ」
ルネはそう言って乱暴に荷物を放り投げる。
夜の静寂が廃屋を包んでいた。
風がひび割れた壁の隙間をすり抜け、冷たい空気が肌を撫でる。
ローゼリアは壁際に身を預け、黙って目を閉じる。
しかし、意識は冴えたまま、眠ることなどできそうになかった。
向かいでは、ルネが無言で武器を整備している。
手際は慣れたものだ。ナイフの刃を研ぎ、銃の弾を込める。
その傍らには、雑に置かれたパンと干し肉の包み。
それがどこから来たものか、ローゼリアには分かっていた。
まともな手段で手に入れたはずがない。
ルネは夜の闇に紛れ、食料を"奪って"きたのだ。
当たり前のように、何の躊躇いもなく。
ローゼリアは視線を落とす。
その現実を受け入れることに、未だに抵抗があった。
沈黙が長く続く。
火の気のない空間に、二人の呼吸だけが淡く漂う。
ふと、ローゼリアは口を開いた。
「……なぜ」
低く、掠れた声だった。
ルネの手は止まらない。
「なぜ……そんなに生き延びようとするの?」
ナイフを研ぐ動きが、わずかに鈍った。
ルネはしばらく黙ったまま、手元を見つめる。
「……生きていなければ、壊したい奴らを壊せないからだ」
淡々とした声だった。
生きる理由が、復讐のためだけ。
それ以外に彼の中には何もないのだと、ローゼリアは感覚で理解してしまった。
夜風が廃屋の隙間を吹き抜ける。
その冷たさが妙に胸に染みた。
王都の夜が明ける頃、アーデンは王国中央保安庁の作戦室にいた。
机上に広げられた捜査資料——ルネ・カイラスの指名手配書、屋敷に残された血痕の分析報告、そして目撃証言の断片。
すべての糸が、ローゼリアの失踪へと繋がっている。
「……本部へ報告する。ルネ・カイラスの追跡任務を正式に開始する」
低く告げた声には、冷静さの中に微かな緊張が滲んでいた。
名門の令嬢の失踪と、国家に仇なす犯罪者の逃亡——この二つが重なった意味を、誰よりも理解しているのはアーデン自身だった。
そして、それが単なる公務ではないことも。
アーデンは無言で扉を押し開いた。
ローゼリアの部屋——そこには、昨日まで彼女が確かに存在していた痕跡が残されていた。
整然と整えられた机、開きかけの本、窓辺に置かれた紅茶のカップ。
しかし、最も重要な存在だけが、この空間から忽然と消えていた。
静かに歩を進め、机の上に目を落とす。
一枚の写真が、そこにあった。
彼とローゼリアが並んで映る、小さな記憶の断片。
彼女は微笑み、彼もまた、その隣で穏やかに笑っていた。
アーデンは写真を拾い上げ、指先で縁をなぞる。
彼女は今、どこにいるのか。
冷たい闇の中で震えてはいないか、恐怖に囚われてはいないか。
そして——
彼女の傍にいるのは、あの男なのか。
胸の奥に、鋭く冷たい感情が滲んだ。
アーデンは深く息を吐き、低く、静かに誓いを刻む。
「必ず、君を取り戻す」
それは、捜査官としての決意ではない。
一人の男としての揺るぎない誓いだった。
アーデンは写真を静かに机へ戻すと、振り返りながら部下たちへ冷静な声を投げかけた。
「ローゼリア・ラフェントの失踪から一晩。手遅れになる前に、ルネ・カイラスの逃走経路を洗い出す」
部下たちは即座に動いた。すでに屋敷周辺の捜索が進められ、現場に残されたわずかな痕跡が報告され始めていた。
「庭の外れに微量の血痕が確認されました。分析班が現在、鑑定を進めています」
「馬車の轍の跡があります。痕跡の状態からして、深夜のうちに移動を開始した可能性が高い」
「屋敷から南西方向に目撃証言があります。逃走経路の候補として——」
アーデンは短く頷いた。
「ルネは長く逃げられる状態ではなかったはずだ。どこかで一度足を止めた可能性が高い」
彼はすぐに地図を広げ、屋敷周辺から王都の外縁に至るまでのルートを確認する。
「負傷した状態での逃亡なら、宿泊施設には立ち寄れない。追手を避けるなら人の少ない裏路地、または廃屋……いや、教会や診療所を利用した可能性もある」
アーデンの目が鋭く細められる。
「王都の監視網を使って、昨夜から今朝にかけて不審な動きがなかったか調べろ。特に、医療関係の施設に怪我人が運ばれた報告がないか確認しろ」
部下たちはすぐに動き出し、次々と情報収集に向かった。
アーデンは地図を見下ろしながら、かすかに拳を握る。
「ルネ・カイラス……お前はどこへ行った」
そして、その手の中にいるローゼリアは——
焦燥を押し殺しながら、アーデンは次なる指示を下した。
彼に残された時間は、多くなかった。