血塗られた邂逅 5
「何をしたの? 私の身体に……!」
怒りと混乱に満ちた声が、薄暗い空間に響いた。
ローゼリアはまだルネの腕の中にいた。どこを走っているのかもわからない。周囲には冷たい石の壁が並び、湿った空気が肌にまとわりつく。地下道か、それとも廃墟の一角か——。
しかし、今はそんなことよりも、自分の身に起こった異常のほうがはるかに恐ろしかった。
「答えなさいよ……!」
彼女が声を荒げると、ルネはわずかに目を細め、冷ややかに笑う。
「……お前の身体に何が起きたか、もうわかってるだろ?」
ローゼリアは息を詰まらせる。
刻印が脈動するたびに、ローゼリアの内側には未だに"彼の痛み"が残っていた。生々しい傷の感覚、血が流れる感触、死の淵をさまよう絶望——それが"自分のものではない"と、どうして言えるだろう。
「お前と俺は、もう"つながってる"」
ルネは足を止めると、彼女の胸元をちらりと見下ろした。
「それが、刻印の仕組みだ」
「……刻印?」
聞いたこともない言葉に、ローゼリアは眉をひそめる。
ルネは彼女を床に下ろし、壁にもたれかかる。表情には疲労が滲んでいたが、身体はすっかり回復しているように見えた。
「冥紋院——聞いたことはあるか?」
「……冥紋院?」
貴族の間では、戦時中に極秘研究を行っていた機関として噂される場所だった。しかし、その詳細を知る者はほとんどいない。
ルネは乾いた笑いを漏らす。
「そこでは"不死の兵士"を作るための実験が行われていた。その技術のひとつが、"命の共有"だ」
ローゼリアは戦慄する。
「命を……共有?」
「そうだ」
ルネは淡々と続けた。
「刻印は、お互いの生命エネルギーをリンクさせ、どちらかが死にかけたときに、もう一方のエネルギーを強制的に引き出して再生を促す装置だ」
ローゼリアの心臓が跳ね上がる。
「じゃあ、あなたが助かったのは……!」
「お前のおかげだ」
ルネは皮肉げに笑う。
「お前のエネルギーを使ったおかげで、俺の傷は塞がった。つまり、お前が生きている限り、俺は簡単には死なないってことだ」
ローゼリアは息を呑んだ。
「そんな……そんなこと……」
「それだけなら、まだいい」
ルネの表情が、一瞬だけ冷たくなる。
「この技術が封印されたのは、単なる"生命の共有"じゃ終わらないからだ」
「……どういうこと?」
ルネはローゼリアの顎を軽く持ち上げ、鋭い瞳で彼女を見つめた。
「再生を繰り返せば、"感情"も、"記憶"も、"痛み"も——すべて共有される」
ローゼリアは愕然とする。
「記憶まで……?」
「そういうことだ」
ルネは腕を組み、無表情で言った。
「死にかけるたび、お互いのすべてが混ざり合っていく。思考も、過去も、そして"痛み"もな」
ローゼリアの喉がひりついた。
彼が生き続ける限り、彼の過去が、自分のものになっていく。彼の絶望も、憎しみも、すべてが侵食していく。
「……そんなもの……!」
「嫌だろ?」
ルネは淡々とした声で言う。
「でも、お前には選択肢はない。お前の命はもう俺のものだ」
「……っ!」
ローゼリアは身を震わせた。
「なぜ……こんなことを……!」
ルネは静かに目を伏せる。
「俺はまだ死ねない。それだけだ」
ローゼリアの胸元に刻まれた刻印が、じわりと熱を帯びる。
それは焼けつくような痛みではなかった。むしろ、じわりと染み込んでくるような感覚。
彼の声、彼の体温、彼の感情……。
ルネを憎む気持ちは確かにあった。
なのに、その憎しみの中に、不快な違和感が混ざる。
——これは、私の感情なのか?
胸の奥に広がる怒りと、冷たい諦念。
だが、その怒りの色が、いつも自分が抱くものとは少し違う気がした。
ルネの痛みが流れ込んでくる。
彼の怒りが、彼の絶望が、無理やり組み込まれるように、ローゼリアの意識に侵入してくる。
私のものではないはずの感情が、私の中で燻っている。
ローゼリアは思わずルネを睨みつける。
「……あなたは、私の命を奪ったのよ」
ルネは眉一つ動かさずに応じる。
「違うな。お前は生きてる」
「いいえ——あなたは"私の命を、あなたのものにした"のよ」
それが、何よりも耐え難い屈辱だった。
彼は私をただの道具として使った。
私が何を思おうと、どれほど怒りをぶつけようと、彼は冷然とそれを受け流す。
そう思った瞬間——ルネの心の奥に、ごく僅かな"ざらつき"が生じた。
彼女の無力な怒りを、彼は何故か純粋に興味深いと感じている自分に気づいた。
(ああ、そうか。こいつは——)
「お前は、何も知らないまま生きてきたんだな」
「……何?」
ローゼリアの眉がわずかに動く。
ルネは、ふっと鼻で笑った。
「これからお前が何を感じるのか、俺にはわかる。お前は俺の怒りを知る。俺の絶望を知る。俺が見てきたものを、お前の記憶として刻み込まれる。だから——」
ルネはわずかに身をかがめ、囁くように言った。
「……お前が俺を憎むほど、俺もお前に染まるんだよ」
ローゼリアの心臓が、一瞬、嫌な音を立てる。
——そんなはずはない。
彼の感情を知ることはあっても、自分の心が染め上げられるはずがない。
それを認めたくなかった。
「逃げたいなら、俺を殺せばいい。ただし、俺が死ねばお前も死ぬがな」
それは、何よりも冷酷な宣告だった。
ローゼリアは息を呑み、目を見開く。
彼の言葉には何の感情もない。ただの事実として、突きつけられた。
ルネが死ねば、自分も死ぬ。
この刻印は、それほどまでに強固な鎖なのだと——今、完全に理解した。
ローゼリアはルネを睨みつけた。
彼女の胸元で脈打つ刻印が、痛みを持って彼との繋がりを刻みつけている。体の芯まで染み込んでいくような感覚。まるで自分の意識が侵食されていくようだった。
選択肢などない。
彼が生きている限り、自分も生かされる。
彼が死ねば、自分も死ぬ。
その残酷な事実が、彼女の運命を固定する。
ローゼリアは、唇を噛み締めた。
乾いた唇から微かに血の味が滲む。
それでも、笑った。
「だったら——いっそ一緒に地獄へ落ちましょう」
低く囁くような声だった。
だが、その言葉には、確かな覚悟があった。
ルネは、ローゼリアの顔をじっと見つめる。
彼女の瞳に揺れるもの。
恐怖でもない、屈辱でもない。
それは——覚悟だった。
「……ほう」
ルネはわずかに口角を上げた。
「それが、お前の答えか」
「ええ。どうせ逃げられないのなら、私も"お前の一部"になってやるわ」
あくまで毅然とした口調だった。
「お前が生き延びるために私を利用するなら——」
ローゼリアはルネに一歩近づき、冷たく微笑む。
「私も、お前を利用してやるわ」
その言葉に、ルネは喉の奥で小さく笑った。
「……いいだろう」
静かに、確かに、契約が結ばれた。
運命の共犯者として。