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護りたいもの

アーデンは叱責の言葉をただ黙って受けていた。

この屋敷の主、ローゼリアの父親である男ーヴァルター・ラフェントは、机を叩かんばかりの勢いで声を荒げていた。

「お前には娘を守る責任があったはずだ!一体何をしていたんだ!」

アーデンは視線を逸らさず、鋭い光を宿した目でその怒りを受け止めた。

「申し訳ございません」

「謝罪など求めていない!」

ヴァルターの怒声が部屋を満たす。

「貴様の怠慢のせいで、娘があの男と行動を共にしているのだぞ?これ以上汚点を広げるつもりか?ローゼリアの存在は、この家の誇りであり、未来そのものだ。その彼女がルネという殺人鬼に関わり、悪名を背負うことになれば——」

「——私は、ローゼリア様を見捨てるつもりはありません」

その一言に、男の動きが止まる。

「……何?」

アーデンは、静かに告げた。

「私は護衛として任を受け、ローゼリア様を守ると誓いました。それがこの家の意向であろうと、そうでなかろうと、私の中でその誓いが変わることはありません」

「貴様……」

「ローゼリア様がどこにいようと、私は必ずお連れします。それが私の責務だからです」


父親は拳を握りしめ、苛立ちを抑えるように深く息をついた。

「貴様の忠誠心などどうでもいい。問題は、ローゼリアがどこまで汚れてしまったかだ……」

アーデンの視線が下に落ちる。

机の上に並べられた報告書には、ローゼリアがルネと行動を共にしているという内容が簡潔に記されていた。

その事実がヴァルターの誇りを深く傷つけていた。

「……汚れるとは?」

彼の問いに、ヴァルターは苛立たしげに書類を払いのける。

「そのままの意味だ。ローゼリアは奴に影響され、ラフェント家に泥を塗る存在になるかもしれん」

「彼女が……?」

「もしも、ローゼリアが自らの意志でルネの側に立ち、我々に背を向けるようなことがあれば」

ヴァルターは椅子にもたれかかり、重く、突き刺すような目でアーデンを睨んだ。

「——そのときは、ローゼリアを見限れ」

アーデンの呼吸が詰まる。

「……見限れ、とは」

「言葉通りだ」

ヴァルターは椅子の肘掛けを指で叩きながら、冷然と告げる。

「我々は名門家の一族だ。誇りを守るためならば、時には選択を強いられる。ローゼリアが後戻りできない道を歩んでいるのなら……」

その目は鋼のように冷たく、迷いはなかった。

「——ルネと一緒に始末しろ」

静寂が落ちる。

アーデンは拳を強く握りしめた。

「……それが、名門家の誇りだと?」

ヴァルターは動じない。

「そうだ。誇りを守るためならば、時には必要なことだ」

アーデンの唇がかすかに震えた。


ヴァルター・ラフェントは深く息を吸い込むと、机に肘をつき、じっとアーデンを見据えた。

「……二度目の失態は許さん」

その声は静かだった。先ほどまで怒号を響かせていた男とは思えないほどの低い声。しかし、その静けさの裏にあるものこそ、アーデンにとっては最も危険なものだった。

「ローゼリアを取り戻せ。何としてでも、どんな手を使ってでもだ」

ヴァルターは指先で机の表面をゆっくりと叩いた。その一定のリズムが、時間を刻む死刑執行人の鐘の音のように響く。

「生死は問わん。生きていようが、死んでいようが、どんな状態であろうと奴の手から引き剥がし、この屋敷に連れ戻せ」

アーデンは静かに息を呑む。

ヴァルターは机に肘をつき、アーデンをじっと見据える。


「お前は護衛として、いや、それ以前に、我が家の者として命を受けた。ならば、果たせ。何があろうと、ローゼリアを取り戻せ」

ヴァルターの目には迷いがなかった。そこにあるのは、名誉と誇りを守ることへの執念——そして、汚れを排除するという冷酷な決意だった。

「もしそれができないのなら——貴様の家も、ただでは済まん」

その言葉の意味を、アーデンは即座に理解した。ヴァルターが言うなら、それは決して脅しではない。確実に実行される警告だ。

「ローゼリアを取り戻せ、アーデン。どんな形であろうと」

アーデンは拳を握り、静かに頭を下げた。

「……承知しました」

それ以外に答えはなかった。



アーデンはヴァルターの部屋を出ると、冷え切った廊下を無言で歩いた。屋敷の壁にかかった絵画の視線すら冷たく感じるほど、彼の内心は張り詰めていた。


ローゼリアを取り戻せ。

生死は問わない。

どんな形であろうと。


ヴァルターの言葉が、まるで首を絞める鎖のように重くのしかかる。

この命令に背けば、自らの命だけでなく、家族まで巻き添えにされることは明白だった。ラフェント家の「誇り」とは、決して穏やかなものではない。汚れを許さず、汚れたものを排除する。そこに情は介在しない。


ーー次で仕留める。

アーデンは己にそう言い聞かせた。

ルネの行動は読める。

奴は冥紋院に関わる施設を次々と襲撃している。これは偶然ではない。標的は明確だ。そして、次の襲撃先もおそらく——。


アーデンは執務室へと戻ると、部下を呼び寄せた。

「ルネが次に狙いそうな施設を洗い出せ。直近で活動があった冥紋院の拠点、その中でも警備が手薄な場所だ」

部下はすぐに動き出し、数刻の後、数か所の候補が絞られた。


アーデンの目が一つの施設の名に止まる。

冥紋院が秘密裏に運営している実験施設。表向きは廃棄された研究所として処理されているが、内部では未だに動いているという噂がある。ルネならば、この手の場所を見逃すはずがない。

「こちらを包囲しますか?」

部下の問いに、アーデンは首を振った。

「いや、今回は少人数で行く」

「ですが、それでは——」

「大人数では警戒される。ルネは気配を察知すれば即座に逃げるだろう。奴が姿を現したときに確実に捕らえられる状況を作るのが最優先だ」

それは、ルネの機動力を削ぎ、逃げ道を潰すという作戦だった。

彼が施設に侵入し、目的を果たした瞬間を狙う。

罠に嵌めるのではない。

あくまで自然に、奴が入り込んだ先に待っているのだ。

「選抜した少数の部隊を編成し、ルネを待ち構える」

アーデンの指示に、部下たちは緊張した面持ちで頷いた。

「……それでも、もしも取り逃がした場合は?」

誰かが恐る恐る尋ねる。


アーデンは剣の柄を握りしめ、迷いなく答えた。

「——それはあり得ない」

今度こそ、ルネを仕留める。

そして、ローゼリアを取り戻す。



夜の闇が重く垂れこめ、風が沈黙を孕む中、廃棄された研究所の周囲は静まり返っていた。

朽ちた外壁に絡みつく蔦、崩れかけた瓦礫の山——しかし、アーデンの目には、そこがただの廃墟ではないと映っていた。


彼は息を潜め、僅かに剣の柄を握り直した。

部下たちは建物の影に隠れ、それぞれの持ち場で待機している。

今回の作戦は極めて単純で残酷なものだった。


ーールネは来る、必ず。

今までの奴の行動を考えれば、この場所を見逃すとは思えない。

奴の目的は冥紋院の関与する施設の破壊。

その意思に、ローゼリアがどれほど関与しているのかは不明だったが、いずれにせよ奴を捕らえる機会はここしかない。


待ち伏せは成功していた。奴は必ず来る——そう確信していたが、それが確実なものとなった瞬間、思わず乾いた笑いが喉を漏れた。


闇の中から静かに影が現れる。

ルネだ。髪の長い中性的な男を伴い、警戒しながら研究所の裏口へと忍び寄る。

アーデンは目を細めた。

(……ルネの仲間か。前もいたな…)

その男は軽い足取りでルネの後ろを歩きながら、周囲を警戒したように見回している。

そして二人から少し遅れてローゼリアが現れた。

アーデンの心臓が大きく跳ねた。

久しぶりに見るローゼリアだった。

だが、以前の彼女とは違う。優雅に整えられていたはずの髪は乱れ、土気色にくすんだ顔色になっている。

ドレスではなく動きやすい衣服を纏っていたが、それも所々泥にまみれ、焼け焦げたような跡すらある。

かつての彼女とはあまりに違う姿だった。

そして、何よりも変わったのは彼女の目だった。

かつての穏やかな輝きは失われ、その奥に冷たい闇が宿っていた。まるで陽の当たらぬ深海のように、何を映しているのかも分からず、ただ冷たく澱んでいる。

アーデンは息を呑み、剣の柄を無意識に握りしめた。


——ローゼリア。

かつて彼が護るべき存在だった女性。

今、こうして目の前にいるはずなのに遠い。


この数ヶ月で何があった?

彼女は、何を見た?

何を知り、何を選び、何を失った?


だが、そんな感傷に浸る暇はなかった。

ヴァルター・ラフェントの言葉が脳裏に焼きつく。

「何としてでもローゼリアを取り戻せ。生死は問わん」


重くのしかかる命令。

もし失敗すれば、今度こそ彼の立場はない。それどころか、家族すら巻き込まれる。

ヴァルターの脅しがただの言葉遊びではないことは、誰よりも理解していた。

アーデンは目を閉じ、一度深く息を吸い込む。


ルネを直接狙うのは無謀だ。

奴は異常なまでに戦闘に長けている。

正面から仕掛けても、捕らえるどころかこちらが返り討ちに遭う可能性の方が高い。


だが、ローゼリアなら。

彼女を傷つければ、ルネは足を止めるだろう。

少しでもルネの動きを鈍らせることができれば、捕縛の機会は生まれる。

それが、最も確実な手だった。


アーデンは顔を上げる。

ローゼリアはまだ気づいていない。

ルネともう一人の男が先行し、彼女は数歩後ろを歩いている。

奇襲を仕掛けるには絶好の位置だった。


だが——剣を握る手がわずかに震えた。本当に、それでいいのか?


彼は剣士だ。

武器を取る時、必ず覚悟を決めてきた。

だが、それはあくまで敵を討つためのものだった。

ローゼリアは、敵か?


(……考えるな)

理性が命じる。

情に流されている場合ではない。

ここで逃せば、ヴァルターは彼を許さない。

失敗すれば、ローゼリアは本当に戻れなくなるかもしれない。

そうなる前に——一瞬で決める。迷えば、終わる。


肩口を狙うか——否、それではまだ動ける。

確実に動き止めるなら脚だ。

右の膝、もしくはふくらはぎを斬れば、ローゼリアを通してルネも歩けなくなるはずだ。


——それが、最も合理的な方法。

息を殺し、一歩踏み出そうとした、その時だった。


——視線がぶつかった。

ローゼリアの冷えた瞳が、こちらを射抜いていた。

アーデンの動きが止まる。


なぜ、気づいた?

いや、それよりも。

その目は——まるで、すべてを知っていたかのように、彼を見ていた。


「……ッ!」


思わず剣を握る手に力が入る。

攻撃を仕掛けるはずだった。だが、その目を見た瞬間、脚が動かなくなった。

まるで何かに囚われたように、彼の理性と本能がせめぎ合う。


(やるしかない……。ここで逃せば、もう二度と……)

息を呑み、剣を構え直そうとしたその時、彼がとった行動は——攻撃でも無機質な指示でもなく、空しい弁明だった。

「君を……取り戻すためなんだ……!」

ローゼリアの眉がわずかに動く。

困惑が表情に浮かび、かすかに口を開いた。

「なに?」

「……これが唯一の方法なんだ!」

まるで言い訳のように言葉が続く。

自分でも驚くほど、感情が乗っていた。

「……本当にすまない!でも……!」

彼の剣先がわずかに震える。

それを見たローゼリアの戸惑いがさらに深まった。

「…アーデン……?」

次の瞬間だった。

「——何を言っている、お前」

冷えた声が夜気を裂く。

ルネだ。

一瞬で空気が変わる。


ローゼリアが困惑し、アーデンが躊躇するその隙をルネは見逃さない。

まるで一瞬前まで影の中に溶け込んでいたかのように、彼は気配すらなくアーデンへ向かって跳躍した。

「ッ……!」

アーデンはとっさに剣を構える。

だが、ルネが振りかぶるよりも先に、アーデンの部下たちが間に割り込んだ。

「アーデン様!!」

剣と剣がぶつかる金属音。

アーデンの部下が二人、ルネを止めるために踏み込んだ。

その隙にゼヴァが動く。

「やれやれ、面倒なことになった」

彼は軽く息をつくと、薄く笑った。

その一瞬後——風が切り裂かれる音。

ゼヴァの動きは、まるで影そのものだった。

まばたきする間に、最前列の兵士の首元に細い刃が突きつけられる。

「邪魔だよ」

何の躊躇もなく刃が閃く。

次の瞬間、兵士の血が舞った。

「ッ……!!」

アーデンの部下が呻き声をあげ、膝をつく。

「……ッ、応戦しろ!」

残る兵士たちが慌てて武器を構えるが——遅い。

ルネの一撃が、一瞬で別の兵士の胸を裂く。

ゼヴァの刃が、もう一人の喉元をかすめる。

「……話にならないな」

ゼヴァが余裕そうに短剣を振り回す。しかし——その時だった。

「——ッ!」

ゼヴァの身体が揺らぐ。兵士の一人が転倒しながらも最後の力を振り絞り、

拳をゼヴァの腹部に思い切り叩き込んだのだ。

ゼヴァは思わず息を詰まらせ、身体が一歩後退する。彼は浅く息を吐き、口元を拭った。

痛みはあるが致命傷ではない。

だが、確実に数秒は動けない。

ゼヴァは自身の身体の状態を冷静に把握しながら、静かに舌打ちした。


ルネが音もなく振り向く。

彼はゼヴァのことなど気にも留めない。

ただ、ゼヴァを攻撃した兵士に向かって歩みを進める。剣が振るわれたのは一瞬のことだった。

兵士の顔に驚愕が浮かぶ。

自分の命が終わることを、理解するよりも先にーールネの刃が無慈悲にその喉を裂いた。


ルネは剣を振り抜き、血の滴る刃を無造作に払うと、迷いなくアーデンへと歩みを進めた。


だが、その刹那——脚に鋭い痛みが走った。瞬間、足元に広がる鮮やかな赤が目に入る。


違和感の正体を確かめるように視線をこらすと、ローゼリアが地面に崩れ落ちていた。彼女の足元にも、同じ赤が滲んでいる。荒い呼吸が夜気を震わせ、細い指が痙攣していた。


刻印が繋ぐ痛みだとルネは即座に理解した。

彼が受けた傷は、ローゼリアの傷でもある。アーデンの刃は彼を狙えずとも、ローゼリアを狙うことで彼に傷を刻める。


ルネは痛みを意識の端に追いやりながら、アーデンを見据えた。


——この男にとって、あの女は守るべき存在ではなかったのか?


そんな問いが脳裏をよぎる。だが、それ以上考えることはしなかった。

ルネにとって目の前の男は敵。余計なことを考えている暇はない。


ローゼリアの痛みが自分にも伝わっていることは確かだ。しかし、この程度ならばまだ耐えられる。


ローゼリアは苦痛に震え、もはや立つことすら叶わぬほど傷ついているというのに、自分はまだ動ける。


ならば——行く。

ためらいなく、ルネはアーデンへ向かって歩みを進めた。

負傷の影響をさほど感じさせず、静かに距離を詰める。


アーデンの胸には鈍く重い罪悪感が広がっていた。

ローゼリアの視線が突き刺さる。

その視線には怒りや憎しみよりも、ただ困惑と戸惑いが滲んでいた。

何かを問いかけようとしているような、けれど言葉にできないまま揺らぐ瞳。

その眼差しがアーデンの胸を締め付けた。


ルネは止まらず向かってくる。

——いよいよアーデンには迷う余地がなくなっていた。

「すまない……」

囁くような声が思わず漏れる。

剣を握る手に力を込める。

ルネがすぐそこまで来ていた。

その瞬間アーデンは迷いを振り払うように、もう一度剣を振るった。


刃が白い肌を裂く。

ローゼリアの口から、短い息が漏れた。

目を見開いたまま、力なく地面に四肢を投げ出す。


ルネの足が止まる。

彼の全身を駆け巡る激痛が、瞬間的にすべての思考をかき消す。


アーデンは息を荒げながら剣を引き抜くと、血の匂いに喉が詰まるのを感じながら唇を思い切り噛みしめた。


今度のそれは、先ほどとは比べ物にならない。まるで内側から身体を引き裂かれるような感覚。

ルネが視線を落とすと、ローゼリアが地面に伏していた。赤い液体がじわじわと地面を覆っていく。

今度は致命的な一撃だった。


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