血塗られた邂逅 2
その夜、街は緊迫した空気に包まれていた。国の重要施設が襲撃され、警報が鳴り響く。兵士たちの怒号、鋭く響く銃声、散り散りに逃げ惑う人々——すべてが夜の静寂を引き裂いていた。
その混乱の中を、一人の男が走っていた。
男の名はルネ・カイラス。
指名手配中の凶悪犯罪者。政府がその名を呪うほどに追い続けた男。
彼は激しく肩で息をしながら、体の奥に突き刺さる痛みを無視するように歩を進める。深く刻まれた傷口からは血が滴り、足跡を辿るように黒く滲んでいく。それでも、彼は止まらなかった。
致命傷を負った者に許される道は二つしかない。ここで倒れ、捕えられるか。それとも一歩踏み出し、まだ見ぬ先へと向かうか——。
ルネは迷うことなく後者を選んだ。
夜の街は彼を飲み込むように広がっている。
その先に待つのは、生か、死か。
だが、今の彼にとって、それすらも取るに足らない問題だった。
ルネ・カイラスの呼吸は浅く、荒かった。胸を引き裂くような痛みが意識を曇らせ、視界の端が暗く滲んでいく。それでも、彼はまだ倒れるわけにはいかなかった。
肩から胸にかけて走る深い銃創は、すでに致命的だった。止まることのない血が衣服を濡らし、路地の石畳に滴り落ちる。身体は冷え、指先の感覚が薄れ始めていた。
だが、彼の足はまだ動いていた。
死ぬわけにはいかない。
足元の石畳がにじむ。吐き出す息が熱を持たず、手のひらの感覚も遠のいていく。それでも彼の頭の中には、たったひとつの言葉がこびりついていた。
生き延びなければ、復讐は果たせない。
意識が飛びかけたその瞬間、ぼんやりと視界の端に映るものがあった。
ーー屋敷だ。
まるで運命が導いたように、彼の視線はその屋敷の敷地に向かっていた。
高い塀、厳重な門扉。静けさに包まれたその館は、まるで別世界のように凛とした佇まいを見せている。
ルネはふっと薄く笑う。
ーーここならば、まだ道はあるかもしれない。
ゆっくりと、塀に手をかける。血に濡れた指が、ひやりとした石の感触を捉えた。握る力が入らない。肺が焼けるように痛んだ。
ーー今ここで膝をつけば、すべてが終わる。命が潰え、すべてが無に帰す。
それだけは、許されない。
ルネは息を絞り出し、最後の力を振り絞るようにして、塀の向こうの闇の中へと身を投じた。
夜の帳が降りるころ、ローゼリアは邸宅の広大な庭にひとり佇んでいた。
昼間の喧騒は遠く、誰の視線も届かない。風が葉を揺らし、冷えた空気が肌を撫でる。足元に広がる芝生は夜露を含み、月光が静かに大理石の小道を照らしていた。
家の名に恥じぬ令嬢——彼女はそうあらねばならなかった。優雅で、気品に満ち、誰からも非の打ちどころのない存在であること。それが求められる限り、ローゼリアは微笑み、言葉を選び、理想を演じ続ける。
けれど、今だけは。
この静寂のなかで、彼女は"ラフェント家の令嬢"ではなく、ただのローゼリアになれる。
夜の冷たさが心地よかった。誰にも見られないということが、ローゼリアに安らぎを与えていた。
深く息を吸い込み、目を閉じる。
風の音だけが、彼女を包んでいた。
ふと、彼女の指が胸元のペンダントに触れる。冷たい金属の感触が、夜の空気にひっそりと溶け込んでいく。それは恋人であるアーデンが贈ったもの。彼の手がそっと彼女の首にそれをかけた瞬間を思い出すと、わずかに胸の奥が温かくなる。
けれど、それも一瞬だった。
風が吹き抜ける。夜の静寂に紛れるように、胸の奥底で囁く声がある。
——彼の隣にいるときも、私は本当に素の自分でいられているの?
アーデンの前では、確かに微笑むことができる。彼の言葉に心を委ね、彼の手の温もりに安心することもできる。けれど、それは"本当の私"なのだろうか? それとも、彼の愛を壊さぬように、無意識のうちに作り上げた"理想の私"なのか?
ペンダントを握る指に、力がこもる。
アーデンは「君のままでいい」と言った。けれど、"君のまま"とは何なのだろう?
ローゼリアはそっと目を閉じ、冷たい夜風を感じた。けれど、答えは見つからない。
"私"とは何なのか。アーデンが求める"私"と、本当の"私"は同じものなのか。
ふと、静寂が揺らいだ。
風が運んできたのは、違和感——夜の庭にあるはずのない"気配"だった。
ローゼリアは反射的に振り返る。
闇の中、揺れるように現れた影。
月明かりの下、それが人の姿をしていると認識するまでに、一瞬の間があった。いや——"人"ではある。だが、その姿はあまりにも異様だった。
ぼろぼろの衣服、肩から胸にかけて広がる血の染み。深い傷を負いながらも、なお足を引きずるように前へ進んでくる。
そして、ローゼリアの視線がその顔を捉えた瞬間、彼女の胸の奥に、名の知れぬ不安が冷たく広がった。
血まみれの男が、ふらりと庭の闇から姿を現したのだ。
「……誰?」
声は、かすかに震えていた。
男は、ゆっくりと顔を上げた。
その目がローゼリアを捉えた瞬間、彼女は息を呑んだ。
その目は、血の色を帯びていた。
赤く濁った瞳が、まるで深い闇の底から這い上がるようにローゼリアを捉えている。
男の頬には鋭く刻まれた傷があり、そこから流れた血が顎を伝い、首筋へと滲んでいた。衣服は引き裂かれ、乾いた血と新たな鮮血が入り混じるようにこびりついている。その姿は、まるで死の淵から逃げ出してきた亡霊のようだった。
ローゼリアは、一瞬だけ息を呑んだ。
だが、それは恐怖ではなかった。
彼の姿は確かに異様だった。血に染まり、傷つき、今にも崩れ落ちそうなほど消耗している。それなのに、その目だけは異様なまでに鋭く、強い光を宿していた。
ーーこの男は誰?
彼女は冷静にそう思った。
名家の令嬢として、これまで幾度となく社交界の人間たちを見てきた。彼らの取り繕った微笑みも、虚勢も、欺瞞も、すべて見慣れている。だが、この男の目は違った。そこには作り物の感情など存在せず、むき出しの何かが燃えていた。
——憎悪。
ローゼリアがそれに気づいた瞬間、ルネ・カイラスの中では何かが弾けた。
(なぜ、この女はそんな目で俺を見る?)
怯えもなければ、憐れみもない。手を差し伸べるわけでもなく、ただ静かに"観察"するような瞳。
目の前で人が死にかけているというのに、それすらも単なる"出来事"として受け止めているかのようだ。
その無機質な瞳が、彼の内にくすぶる炎をさらに煽る。
「……クソッ」
ルネは低く呟いた。
名家の人間は、いつもそうだ。
他者の痛みに興味はない。誰かが血を流そうと、地に這おうと、自分たちの世界が揺らがない限り、何も感じることはない。
ーーこの女も同じか?人の死に顔を見ても、眉ひとつ動かさないのか?
ルネの中の憎しみが鈍い痛みとともに蘇る。
名家の人間は、みな中央政府の犬として飼いならされた存在だ。平民を見下し、己の世界に閉じこもりながら、国の腐敗を支える歯車に過ぎない。
そして、この女もまたその一部に違いない。
ルネは血に濡れた目でローゼリアを睨みつける。
ーーこいつは敵だ。
理屈ではない。これは、長年焼きつけられた憎しみが導いた確信だった。
生きるために戦い、奪い、裏切られ、切り捨てられてきた。
その中でこういう人間が救いの手を差し伸べたことなど、一度としてなかった。
だから、目の前の女も、きっとそうだ。ルネの命が尽きる瞬間も、その無機質な瞳でただ眺めるだけなのだろう。
ルネは自分に残された時間がわずかであることを悟っていた。
このままでは、確実に死ぬ。
屋敷の誰かが自分の存在に気付き、援軍を呼べば、その瞬間すべてが終わる。
それならば——。
ここに名家の娘がいるなら、使わない手はない。