ねじれた感情
アーデンはローゼリアの傍らに座り、そっとカップを差し出した。
「少しでも飲めそうか?」
温かいハーブティーの香りが漂う。
「ありがとう」
ローゼリアは微笑んで受け取ったが、その手の動きはどこかぎこちなかった。
彼女はゆっくりとカップを口元に運び、一口だけ喉を潤す。
アーデンは彼女の様子をじっと見つめた。
「少しは落ち着いたか?」
「……ええ」
彼女の返事は穏やかで、表情も柔らかい。
それなのに——
彼女の瞳は、どこか遠くを見ていた。
まるで、この場所にはいないかのように。
彼女が無事に戻ってきたことに安堵しているはずなのに、アーデンの胸の奥には焦りが生まれていた。
「ロゼ」
彼は静かに彼女の名を呼んだ。
彼女はすぐに顔を上げるが、その瞳の奥にはまだ何かが足りていない。
「ここは安全だ。もう何も怖がらなくていい」
優しく告げながら、彼はそっと彼女の手を握る。
それでも、ローゼリアは微かに視線を落とした。
「……ええ、分かってるわ」
彼女の声には、どこか温度がなかった。
その空白が、何によるものなのか——
アーデンはすぐに理解してしまう。
「……ルネのことを考えているのか?」
彼女の肩がわずかにこわばった。
それだけで十分だった。
アーデンは唇を引き結ぶ。
戻ってきたはずなのに、彼女の心はまだ遠くにある。
その距離が、彼を焦らせた。
優しく労わるつもりだったのに、アーデンは無意識に拳を握り締めていた。
アーデンの指が、そっとローゼリアの頬をなぞった。
指先に触れる肌はひどく冷たく、彼女の心がまだここにないことを痛感させる。
「君はもう大丈夫だ」
アーデンは優しく囁く。
「僕が守る。あんな男の影に怯える必要はないんだ」
彼の言葉は穏やかで、けれどどこか切実だった。
ローゼリアは薄く唇を開いたが、何も言わない。代わりに、彼女の瞳がわずかに揺れる。
それだけで、アーデンには十分だった。
迷いを断ち切るように、彼はゆっくりと顔を寄せた。
触れるだけの優しい口づけ。
ローゼリアは驚いたように微かに肩を震わせるが、逃げようとはしなかった。
アーデンの腕が、彼女の腰を静かに引き寄せる。
「もう何も考えなくていい」
囁く声が、彼女の耳元をかすめる。
ローゼリアはまぶたを伏せた。
拒む理由は、どこにもない。
彼は愛する人であり、彼女の帰るべき場所なのだから。
アーデンの手が、ゆっくりと彼女の背を滑る。その熱が、迷いを溶かしていくようだった。
ローゼリアは静かに息を吐き、彼の首に腕を回した。
アーデンの瞳が、わずかに熱を帯びる。
「……ロゼ」
その名を呼ぶ声は、先ほどよりも深く、甘い。
ローゼリアはそっと瞳を閉じた。
このまま、すべてを忘れられるのなら——それでもいい。
アーデンの唇が、再び彼女に触れた。
ルネは突然、得体の知れない感覚に襲われた。
熱がじわじわと広がり、皮膚の下を這うような違和感が走る。
最初はただの疲労かと思った。
しかし、それは明らかに異質なものだった。
「……ッ」
息を吐き出しながら、ルネは無意識に胸元を押さえた。
刻印が微かに脈打っている。
いつもの疼きとは違う。
これは——
瞬間、背筋を走る甘ったるい感覚に、ルネの全身が粟立った。
何とも言えない快感と、不快感が同時に押し寄せる。
ルネは乱暴に頭を振った。
「……クソ、なんなんだこれは」
苛立ちと嫌悪が込み上げる。
理解したくなかった。
だが、刻印がただの痛みだけでなく、感情や感覚までも共有するという事実を、今まさに突きつけられていた。
今、自分が感じているこの感覚は、まるで——ルネの脳裏に、不快なほど鮮明な予感がよぎる。
「……チッ」
舌打ちし、乱暴に頭を振る。
認めるわけにはいかない。
それでも、胸の奥で脈打つ感覚が、彼をじわじわと蝕んでいく。
暗闇の中、ローゼリアの意識は深く沈んでいった。
次に目を開いた時、彼女は見知らぬ冷たい世界に立っていた。
——いや、違う。ここは、ルネの記憶。
足元に広がるのは、無機質な石の床。壁は鉄格子に囲まれ、細い鎖が垂れ下がっている。湿った空気が肺を満たし、鼻をつくのは鉄錆びた匂い。
暗闇の中、ローゼリアの意識は深く沈んでいった。 次に目を開いた時、彼女は見知らぬ冷たい世界に立っていた。
——いや、違う。ここは、ルネの記憶。
そこは牢獄のようだったが、ただの監禁施設ではない。
細い鎖があちこちに垂れ下がり、いくつもの無機質なベッドが並んでいる。
どのベッドにも、幼い影が横たわり、身じろぎもしない。
「第十二因子、投与」
淡々とした声が響く。
瞬間、肉を裂くような鋭い痛みが、体中に広がる感覚が流れ込んできた。
ローゼリアは、知覚する。
この感覚は、ルネのものだ。
冷たい金属のベッドに、まだ幼い体が縛られる。
幾度となく繰り返される注射。
血液に流し込まれる未知の液体。
それが、何なのか——ローゼリアには理解できなかった。
だが、ルネには分かっていた。
これは「適性因子」と呼ばれるものだ。
本来なら、刻印を持つ者の体内でしか存在しない因子。
研究者たちは、それを持たない人間に移植することで、刻印の力を発現させようとしていた。
いや、それだけではない。
——適性を持つ者を生きた供給源として利用しようとしていた。
本来、刻印とは一方が他方の生命エネルギーを強制的に吸収し、回復する技術。
ならば、適性因子を持つ個体を意図的に作り、戦場で「生きた治療薬」にすることはできないか。
その供給源として選ばれたのが、彼だった。
異常な適応率を示した実験体。
拒絶反応を起こさず、移植を受け入れた唯一の存在。
その個体はきっと生きた治療薬として使える。
命を削られ戦士たちの代わりに死ぬ、便利な存在として。
その適性が、最も高かったのがルネだった。
その体は、通常の人間のように拒絶反応を起こすことなく、因子を定着させた。
研究者たちは喜び、何度も試験を繰り返した。
だが、それがどれほどの痛みを伴うものか、彼らにとってはどうでもよかった。
このまま研究が進めば、自分はただの生きた道具として利用され続けると理解していた。
だから、逃げなければならない。
(どうやって脱出する?)
この場所を知り尽くし、研究者たちの隙を狙う。
研究室の構造、警備の巡回、逃げるルート——
慎重に考え、完璧な機会を狙わなければならない。
彼は考えていた。
ここから出る方法を。
生き延びる手段を。
この手ですべてを終わらせる方法を。
小さな種火のように、胸の奥に燃える何か。
それは静かに、しかし確実に——
彼をここから連れ出そうとしていた。
闇がふっと消えた。
ローゼリアはゆっくりと瞼を開く。
天井の装飾がぼやけて見えた。
暖かな毛布に包まれたまま、自分が今どこにいるのかを再確認する。
——現実だ。
それなのに、胸の奥にはまだ、あの冷たい鉄の匂いがこびりついていた。
意識が覚醒するにつれ、刻印が微かに疼く。
けれど、もう慣れた痛みだった。
ゆっくりと、毛布の端に触れる。指先がかすかに震えていた。
ルネの記憶。
あの痛み、あの絶望、あの孤独。
まるで自分の体を通して味わったかのように、鮮明に刻み込まれている。
けれど、不思議なことに——
今までのような圧倒的な恐怖や悲鳴は、心の奥底から消えていた。
ローゼリアは静かに息を整える。
心は妙に冷静だった。
——私は、あなたの痛みに慣れてきている。まるで己のものであるかのように。
静かに目を閉じる。
冷たい鉄の世界と温かな毛布の間で、ローゼリアは自分の境界線を探していた。
ローゼリアの異変にアーデンが気づいたのは夕刻のことだった。
彼女はいつものように散歩をしていた。薄紫の空の下、庭師が手入れをしたばかりの薔薇が静かに咲いている。
それはいつもと変わらぬ穏やかな景色のはずだった。
だが、彼女は足を止め、薔薇の前にじっと立ち尽くしていた。
「……ロゼ?」
呼びかけても、すぐには返事がない。
彼女の指先が、花弁の端をなぞる。だが、その動きはどこかおぼつかなく、まるで何かを確かめるようだった。
「綺麗ね」
やがて、彼女はぽつりと呟いた。
アーデンが彼女の横に立ち、視線を向ける。
「……そうだな」
たしかに、薔薇は美しい。だが、彼女の目には映っていないようだった。
ローゼリアはそっと指を薔薇の棘に触れさせた。
「っ——」
小さく息を飲む。指先に赤い雫が滲んだ。
それを見ても、彼女は表情を変えなかった。
まるでそれが当然のことであるかのように、ぼんやりと血を見つめている。
「……痛くないのか?」
アーデンの問いに、ローゼリアはゆっくりと瞬きをした。
「痛み……?」
指先から滴る血を見つめたまま、彼女はしばらく黙り込んだ。
それはまるで、自分の身体で起きていることではないかのように。
「痛い……のかもしれないわね」
その声音は、不思議なほど他人事だった。
ーー彼女は以前のように美しく微笑み、礼儀正しく振る舞っている。
けれどどこかがおかしい。
食事の最中、フォークを握る指先がかすかに震えていた。
話しかけても、一瞬間を置いてから返事をすることが増えた。
まるで、今ここにいることを確かめるように。
その夜、アーデンは彼女を探し、廊下で一人佇む姿を見つけた。
窓辺に寄りかかり、静かに夜の闇を見つめている。
背中が、ひどく小さく見えた。
名を呼ぶと、彼女はすぐに振り向いた。
けれど、その瞳にはどこか焦点が合っていなかった。
「……アーデン」
「どうした?」
「……何も」
言葉は穏やかだが、明らかに違う。
彼女はここにいながら、ここにはいないようだった。
それがどういうことなのか、アーデンには分かっていた。
——まだ、あの男の影に囚われている。
だからこそ、さりげなく彼女の手を取る。
そして、強く抱きしめた。
「君は今、少し不安定なようだね…無理もない。でも大丈夫だ。僕が守る」
静かに囁く。
「君が壊れないように」
ローゼリアは驚いたように動きを止めた。
そして、ほんの一瞬だけ——その腕の中で息を吐く。
安心したのだろうか。
アーデンは彼女の背にそっと手を添え、温もりを与えるように抱きしめる。
だが、その沈黙の中——ローゼリアは気づいていた。
この温もりは確かに心を落ち着かせる。
けれど彼女の奥底では別の声が囁いていた。
違う。お前はもう壊れているんだ、と。




