血塗られた邂逅 1
ラフェント家の広大な邸宅は、静寂そのものだった。冷たい大理石の床は月光を拾い静かに銀色の輝きを放っている。壁には歴代当主の肖像画がずらりと並び、厳格な視線で屋敷の秩序を見守っているようだった。
そして、ローゼリア・ラフェントはその中心に佇んでいた。名門の令嬢としての矜持を背負い、幼き頃より厳格な教えに従いながら彼女は育った。
ローゼリアの前に座る父、ヴァルター・ラフェントは、書斎の奥でゆったりと椅子にもたれかかっていた。分厚い書類の束を片手にしながらも、その隙のない視線は、向かいに立つ娘の細やかな仕草すら見逃さない。
「ローゼリア、お前の次の公務の予定は確認したか?」
低く響く声に、彼女は一度まばたきをしてから静かに頷いた。
「はい、伯爵夫人の茶会に出席し、各家の令嬢たちと親交を深めます。その後、外交団の晩餐会に同席し、公爵家との縁を強める場となる予定です」
「よろしい」
ヴァルターはわずかに顎を引き、机の上の万年筆を指で転がした。何の感情も宿らぬその仕草は、彼にとって娘との会話が事務的な報告以上の意味を持たないことを物語っていた。
「余計なことは話すな。ラフェント家の名を汚すこともな」
「心得ております」
何百回と繰り返してきたやり取り。無駄な言葉は交わされない。彼女が幼い頃からずっと、ヴァルターとの会話は必要最低限の指示と報告だけで構成されていた。
「お前はラフェント家の象徴だ。その誇りを忘れるな」
「かしこまりました、お父様。」
変わらぬ敬意を込めた声音でそう答えたが、ヴァルターはすでに彼女を見てはいなかった。父の視線は机の上の別の書類へと向かっている。
その紙に記されているのは——弟、エドワルドの成績表だろうか。その仕草が、彼の関心がもはや彼女には向けられていないことを雄弁に物語っていた。
当然だった。
ヴァルター・ラフェントにとって、娘は所有物でしかない。磨き上げられ、完璧に仕立てられた一つの駒。誤作動なく動き、見目麗しく、家名の誇りを象徴する存在。
だが、本当に期待をかけているのはローゼリアではなく、まだ幼いエドワルドだった。
父が心を傾けるのは、家の名を実際に継ぐ者。血筋を絶やさぬための、未来の当主。ローゼリアはそれを知っていたし、理解もしていた。そして、何より——それを表情に出すことは許されなかった。
「失礼いたします。」
ローゼリアは美しく微笑んだまま、書斎を後にする。その表情に曇りはない。計算された優雅さと品位だけがそこにある。
扉を静かに閉め、長い廊下へと踏み出す。月光が差し込む大理石の床に、彼女の影が伸びる。
廊下を歩くたびに、ローゼリアの足音が静寂に吸い込まれていく。あまりに広く、あまりに静かなこの屋敷は、彼女の存在すらも音もなく飲み込んでしまうようだった。
——私は誰なのか?
幼い頃から幾度となく胸に浮かびながらも、決して口にすることのなかった問い。
ラフェント家の令嬢。それが彼女のすべてだった。
屋敷の誰もがそう思っていたし、ローゼリア自身もまた、それを疑うことなく受け入れてきた。優雅な立ち振る舞い、計算された微笑み、誰からも非の打ちどころのない令嬢として生きること——それが彼女の役割だった。
けれど、ふとした瞬間、その"役割"以外の自分がどこにも見当たらないことに気づく。
もし、この家の名を捨てたら?
もし、ラフェント家の象徴ではなくなったら?
そのとき、"ローゼリア"は何者として生きていくのだろう?
思考の迷宮に迷い込んだかのような感覚が、胸の奥で静かに広がっていく。
屋敷の窓に映る自分は"ラフェント家の令嬢"という役割にふさわしい形を成している。だが、その奥にある"私"は、一体どこにいるのか。
……考えるのはやめよう。
そんなものは、必要ない。
求められるのは、ただ家の名を汚さぬ振る舞いをすること。その枠の中に収まりさえすれば、余計なことを考える必要もないし、心を乱す必要もない。
だから、ローゼリアはそっと目を閉じ、静かに思考を封じ込める。
所有物でいい。象徴でいい。
——そうである限り、私はここにいられる。
そんな日常に、ただひとつ確かな彩りをもたらす存在がいた。
幼い頃から変わらず傍にいた幼馴染であり、今はリオベル中央保安庁の捜査官となったアーデン。
父でさえ一目置く彼は、冷静で聡明でありながら、どこか不器用なところがあった。
けれど、ふとした瞬間に浮かぶ彼の微笑みはいつも穏やかで優しかった。
彼の言葉に偽りはなく、仕草に計算もない。ただそこにいるだけで、彼は彼女の世界に温かさを灯していた。
彼とはすでに恋人だった。
それは曖昧な関係ではない。
交わした言葉も、触れ合う指先も、すべてがその証だった。
「またそんな顔をしてる」
アーデンが微笑みながら、ローゼリアの頬にそっと触れる。
「どんな顔?」
「僕のことが好きで仕方ないって顔」
「……あなたこそ、そういう顔をしているわ」
「そりゃそうだろう」
まるで当然のことのように言う彼の言葉が、胸の奥で静かに響く。
誰にも奪えない、確かな絆がそこにはあった。
それはきっと、これから先も変わらない。
どんな未来が待っていようとも——ローゼリアが求める限り、アーデンはいつも傍にいるのだ。
屋敷の庭に夕陽が落ち、柔らかなオレンジ色の光が二人に降り注ぐ。静かな風が草花を揺らし、かすかな香りを運んでいた。
「遅かったわね」
ローゼリアは小さく微笑みながら、庭の花にそっと指を這わせた。
「ごめん、少しだけ仕事が長引いた」
アーデンはそう言いながらローゼリアの隣に立つ。彼の声は穏やかだったが、そのまま何も言わずに彼女の手を取る仕草には、言葉以上の熱が込められていた。
「ふふ、いいのよ。待つのには慣れているもの」
ローゼリアの手を離すことなく、アーデンは小さく息をつく。そのまま、ローゼリアの指を軽くなぞるように握り直した。
「……そんなことに慣れなくていいんだよ」
「でも、きっとこれからも待つわ。あなたは忙しい人だから」
「なら、いっそ全部捨てて君だけを選べたらいいのにな」
ローゼリアは一瞬、驚いたようにアーデンを見つめる。そして、少しの間を置いて、静かに問いかけた。
「……そんなことを言って、本当に捨てられるの?」
「ただの願望だよ。でも、本当に捨てたら君は喜ぶ?」
「いいえ」
即答だった。彼が何かを犠牲にしてまで自分を選ぶことを望んでいるわけではない。
「じゃあ、その話はなし」
「軽々しいわ」
「違うよ、君がそんな顔をするなら、する意味がないってこと」
彼の手がそっと彼女の頬に触れる。
「だから、代わりに約束する」
アーデンは静かに囁いた。
「君は僕が守る。君の世界がどれだけ冷たくても、僕だけは温かい場所でいるから」
ローゼリアはそっと微笑んだ。
「……優しいのね、あなたは」
「君にはそう思われたいからね」
アーデンは微笑みながらも、彼女の手を離さない。その仕草が、彼の迷いのなさを物語っているようだった。
——私は、彼の隣にいてもいいのだろうか。
胸の奥に、ふと冷たい影が差し込む。
彼の愛は、いつも温かくて心地よい。彼の言葉は真っ直ぐで、迷いがない。けれど、心のどこかで違和感が囁く。
——本当に、ここが私の居場所なの?
ローゼリアはその思いを封じ込めるように、アーデンの手をそっと握り返した。
彼が温もりをくれるなら、それでいい。
少なくとも、今は——。