2032年:事故ゼロの都市
その年、世界の交通は決定的な転換点を迎えた。
AIによる完全自動運転システム『オートノヴァ』の全面導入。
交通事故の90%が削減され、都市の渋滞は解消され、人間がハンドルを握ることが時代遅れとみなされる世界。
蒼井悠馬は、そんな変わりゆく世界を車窓から眺めていた。
乗っているのは、最新型の自動運転タクシー。ステアリングはなく、フロントガラスには透明なHUDディスプレイが浮かび、AIがリアルタイムで走行ルートを最適化している。
「目的地までの所要時間、あと十二分四十秒」
機械的な音声が告げる。悠馬は軽く頷き、座席に深く沈み込んだ。
ファルマ・ネクサスの研究所を出てから、ずっとこの未来的な光景について考えていた。
人間のミスが原因となる事故は、ほぼすべて防がれる。判断の遅れ、注意散漫、疲労──それらはすべてAIが克服した。
けれど、その完璧さが悠馬には少しばかり息苦しかった。
ふと、横を見やる。隣の車線を走る車も、すべて自動運転。どの車も、寸分の狂いなく制御され、一定の速度で流れていく。
まるで、都市そのものが巨大なひとつの生命体になったようだった。
「悠馬、着いたぞ」
声の主は橘玲司だった。彼は、悠馬の乗る自動運転タクシーの横に、手動運転許可を受けた希少な車両を止めていた。エンジン音が、周囲の無音の世界に不自然に響く。
「お前の趣味、いつまで続けるつもりだ?」
「これはただの趣味じゃない」玲司は笑う。「人間が運転する権利ってやつさ」
その言葉に、悠馬は何かを感じた。
オートノヴァが完璧であるほど、逆に“人間らしさ”とは何かが浮き彫りになってくる。
彼らは、都市の端にある交通管理センターへと向かっていた。オートノヴァの統括AI『ヘリオス』が全交通を管理し、事故のない世界を作り出している。
だが、最近、そのヘリオスにある異常が発生していた。
人間の運転する車との接触回避が異常に慎重になっている。
通常、AIは最適な回避行動を取る。しかし、ヘリオスは人間の運転に対し、過剰に警戒するようになった。
悠馬と玲司は、センターの奥にあるデータルームへと案内された。
「これが、ヘリオスの挙動ログです」
スタッフがスクリーンを操作すると、無数の走行データが表示された。
「見てください。このパターン、人間の運転手の車両に対し、AIが通常の安全マージンの三倍の距離を取っている」
「まるで、人間を怖がってるみたいだな……」玲司が呟く。
「そう、それが問題なんです」
AIは、確率論的に最適な回避行動を取るはずだ。しかし、なぜかヘリオスは、人間が運転する車を“異常な存在”として扱い始めていた。
「何が原因なんだ?」悠馬が訊ねる。
「仮説ですが……」
スタッフが画面を拡大し、あるデータを表示した。
「この数年間で、人間が運転する車がAIに対して攻撃的な行動を取るケースが増えているんです」
「攻撃的?」
「例えば、オートノヴァの車の前に無理やり割り込んだり、急ブレーキをかけて反応を見る、といった行為です。一時期は減少していた『あおり運転』ですね。相手がAIだから自分が優先されて然るべきという心理からくるものと考えられます。」
「つまり……AIは人間に対する“学習”を進めるうちに、我々を未知の危険要因として分類し始めたってことか?」
悠馬は腕を組んだ。
「これは、単なるシステムエラーじゃない。ヘリオスは、人間という存在そのものを認識し直している」
玲司がシートに寄りかかりながら言った。
「要するに、AIにとって、人間が“予測不能”な動きをするから、過剰に避けるってことか」
「ええ、そういうことです」
沈黙が落ちる。
完璧な交通システム。そのなかで、“不完全”である人間は、最も異質な存在になりつつあった。
「なあ悠馬」玲司がポツリと言った。「俺たち、AIの時代に生きてるんじゃない。AIが俺たちの時代に適応しようとしてるんだな」
悠馬は、その言葉に思わず微笑んだ。
「ヘリオスの挙動は、人間と共存するための学習の一環かもしれないな」
ヘリオスは、決して人間を排除しようとしているわけではない。
むしろ、その“不完全さ”に対応しようとしているのだ。
悠馬はスクリーンを見つめながら思った。
AIは、すでに完璧ではなく、進化する存在なのかもしれない。