2030年:神の薬を生むAI
AIによる創薬が、人類の医療を根底から覆した年だった。
それは一つのニュースから始まった。
「本日、人工知能『ファルマ・ネクサス』が開発した新薬『イリジウム』が、公式に認可されました。この薬は従来の治療法では完治が難しかった特殊ウイルスに対し、驚異的な効果を発揮するとされ……」
ニュースを見つめる蒼井悠馬は、静かに息を吐いた。
「ついにここまで来たか……」
彼が携わっていたのは、まさにこの『ファルマ・ネクサス』プロジェクトだった。AIが病気を解析し、新薬を設計し、試験データをシミュレートする。すべてが自律的に行われ、人間の関与は最終判断のみ。
その結果、人間の研究者が数十年かけて発見するはずの薬が、わずか数週間で完成した。
だが、それは同時に、新たな倫理的な問題をも生み出していた。
「悠馬、お前はこの新薬をどう思う?」
ラボの奥から、橘玲司が歩み寄ってきた。彼は医師であり、かつて悠馬と共に『メディックA-1』の導入を見守った人物だ。
「薬としての効果は疑いようがない。むしろ、過去のどんな創薬プロセスよりも完璧に近い。でも……」
「でも?」
「これが“人間の手”を介さず生み出されたものだっていうのが、どうにも引っかかるんだよ」
悠馬はモニターを指さした。そこには『ファルマ・ネクサス』の薬効データが並んでいる。
「この薬の分子設計は、既存の理論を超えてる。普通の研究者が一生かかっても思いつかないような構造だ。それをAIが“導き出した”」
「……つまり、AIはすでに人間の知性を超えている?」
「少なくとも、創薬の分野ではな」
玲司は腕を組み、黙り込んだ。
「患者にとっては、助かるならそれでいい。でも、医療の本質が、ここまでAIに依存していいのか……?」
「俺も同じことを考えてる」
この技術がもたらす未来は、希望か、それとも……。
悠馬は、スクリーンに映る新薬のデータを見つめたまま、考え続けていた。
数時間後、彼はファルマ・ネクサスの研究施設に足を踏み入れた。ガラス張りの近未来的なラボでは、AIによるシミュレーションがリアルタイムで行われている。薬品の分子構造がホログラムで浮かび上がり、その場で最適化されていく。
悠馬はエンジニアの一人と話し始めた。「実際にイリジウムを使った治験データは?」
「もうすぐ最終フェーズに入るよ。驚異的な結果が出てる。従来の薬より回復率が30%向上してるし、副作用もほとんどない」
「そんなにか……」
「でもさ」とエンジニアは低い声で続けた。「これ、本当にすべてを信用していいのかな?」
「どういう意味だ?」
「AIが計算してるからって、それが本当に“正しい”とは限らないだろ?」
悠馬は思わず息をのんだ。
「だって、俺たちはこの薬が“なぜ”効くのか、ちゃんと理解してるのか?」
その言葉が、悠馬の胸に重く響いた。
確かに、AIは人間を超えるスピードで新薬を生み出している。しかし、その背後にあるロジックを、人間は完全に理解できているわけではなかった。
研究者が膨大な時間をかけて積み上げてきた知識を、AIはわずか数週間で超越した。だが、それは科学の進歩なのか、それとも──。
「悠馬、そろそろ会議の時間だぞ」
玲司の声で我に返る。今日の議題は、この新薬の量産と、今後の研究方針の決定だ。
果たして、人類はこの技術とどう向き合うべきなのか。
悠馬は、深い迷いを抱えたまま、会議室へと向かった。
会議室に入ると、既に数名の上層部が席についていた。スクリーンには『イリジウム』のデータが映し出され、進行役の研究責任者が発言を始める。
「皆さん、これがイリジウムの最終試験結果です。99.8%の成功率。リスクはほぼゼロに近い。これは医療革命です。我々は人類を病から完全に解放する第一歩を踏み出したのです」
会議室に静かな興奮が広がる。
だが、悠馬はなおも違和感を拭えなかった。
「たったひとつ、確認したいことがあります」
彼は手を挙げ、慎重に言葉を選んだ。
「この99.8%の成功率ですが、AIが予測した理論値と、実際の臨床試験結果はどれほど一致しているのか?」
研究責任者は一瞬、言葉を詰まらせた。
「理論値との誤差は……0.02%です。非常に精度の高い結果となっています」
「ならば問題ない、と?」
「もちろんです。これは医学の未来を変える技術です」
悠馬はため息をついた。数値上は完璧だが、AIが導き出した答えには未知の領域が多い。
しかし、それを恐れていては、科学は停滞してしまう。
人間はかつて、顕微鏡で細胞の存在を知り、望遠鏡で宇宙を覗いた。
ならば、AIは新たな“知識のレンズ”なのではないか?
未知を知るために、人間がAIを理解する努力をしなくてはならない。
悠馬は、最後にこう呟いた。
「これは、ただの技術革新ではない。AIと人間の共存を深める新しい挑戦なんだ」
その瞬間、彼の中の迷いは消えていた。