プロローグ:AIの目覚め
世界は、気づかぬうちに変わっていた。
いや、変わったというより、気づいたときにはもう手遅れだった、というべきか。人類は、じわじわと忍び寄る影に気づかぬまま、ある日ふと振り返って、その影が自らの背後に根を下ろしていることに気づく──それが、人工知能(AI)という存在だった。
蒼井悠馬は、その変化を目の当たりにした世代だった。彼が生まれた頃、AIはまだ「未来の夢」だった。だが、気づけばそれは「今日の現実」となり、そして「昨日の遺産」にすらなりかけていた。
講義室のプロジェクターが点灯する。
スクリーンには、1950年という数字が浮かび上がる。
「これは、最初の問いかけです。皆さん、知っている人もいるでしょう──当時、ある数学者が問いを立てました。『機械は思考できるか?』と」
悠馬はそう言いながら、ゆっくりと視線を巡らせた。百人ほどの学生が座る大講義室。眠そうにしている者、興味津々といった表情の者、スマートグラス越しにメモを取っている者──様々だ。
「その数学者の名は、アラン・タリアン。彼は『タリアン・テスト』を考案し、機械が人間の知性を持ちうるかを議論しました。しかし、当時のコンピュータはパンチカードで動く化石みたいな代物で、とても知的とは言えませんでした」
スクリーンが切り替わる。次に映し出されたのは1956年──「ダートマス会議」と題されたスライド。
「ここで、ようやく『人工知能』という言葉が生まれます。しかし、初期のAIは失敗の連続でした。たとえば、1960年代に開発されたチャットボット『エリス』。表面的には人間のように振る舞うけど、実際は単純なパターンマッチングにすぎなかった」
笑い声が小さく漏れる。
「けれど、AIはしぶとかった。1980年代にはエキスパートシステムが登場し、90年代にはついに、ある事件が起きます」
スクリーンに現れたのは1997年の写真。世界チェス王者が、機械と向き合っている。
「『ブレード・ディープ』──AIが初めて人間のチャンピオンを打ち負かした瞬間です。チェスという限られた領域でとはいえ、これがAIが人類に挑戦し始めた第一歩でした」
講義室の空気が変わったのを悠馬は感じた。単なる歴史の授業ではなくなったのだ。
「そして2011年、『クエスト』というクイズ番組で、AI『ウォルデン』が人間のチャンピオンを打ち破ります。今度は言語です。意味を理解し、文脈を解析し、人間のように振る舞うAI──。この頃から、AIは“ただの計算機”ではなくなった」
次のスライドには、2016年──囲碁AI『オルフェウス』。
「この年、人類は気づくのです。AIは、もはやルールに縛られたゲームを超え、創造的な発想をも持つのだと。囲碁の世界チャンピオンがAIに敗北したとき、人類は初めて“知的生命の競争相手”を手に入れたのかもしれません」
そして、最後のスライド。
2023年。
「『アルファ・ノート』──膨大なデータから言葉を紡ぎ、自然な文章を生成するAIが誕生しました。これまでのAIは、チェスや囲碁のようにルールのある世界で戦っていました。しかし、このAIは違う。小説を書き、詩を作り、人間と対話しながら、学習し続ける」
悠馬はスクリーンを見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。
「皆さん、気づいていますか? これはたった70年の間に起きたことです。AIは、すでにここまで来ました。そして、これから何が起きるのか──それは、あなたたちの目で見届けることになるでしょう」
静まり返る講義室。
だが悠馬は知っている。
これは、ただの序章にすぎないのだと──。