第7話 記憶 mémoire
お手洗いへ行った。少し吐いた。手を洗うときに顔も洗って、鏡の中の自分を見た。のぼせているようでも、青ざめているようでもあった。喉の熱さは少しマシになって、手拭き紙が切れていたから、しかたなくシャツの裾で手と顔を拭った。
入り口あたりで待っていたレヴィ氏が「服で拭いちゃったの?」とちょっと笑った。いっしょに外へ出る。空が曇っていた。どこかで蒸気バスの発車の警笛が響いてる。
その音を聞いて、ふっと駐車場の端へ目をやった。はっと息を呑んだ。人影が見えて、僕はそれに向かって走り出した。背の高い、父さん譲りの金髪の後ろ姿――でもまばたきをしたら、誰もいなくて。――なにもなかった。
僕は、足を止めた。深呼吸をして、自分を笑った。
「――テオフィルくん、足が速いわねえ!」
感心したようなレヴィ氏の声が響いた。泣きそうな気持ちになったけれど、泣けなかった。平気な顔を作って、もう一度深く息をして、引き返す。
そして、助手席で待っていたクッションを持って、自動車へ乗り込む。安全帯を引き出せるだけ引き出して、クッションの上から両手で持った。レヴィ氏が自動車の前部分を平手で殴った。
バカみたいだなって自分のことを思う。いろんなことが混乱している。ノエルさんはまだ店内にいるのかな。僕の反応をどう思ったかな。今の僕の様子、見られてないかな。だいじょうぶかな。
平気な振る舞いをしたかったけれどできなかった。僕がなにも答えられなかったのを見て、どう思ったかな。ブリアック兄さんのことを、やっぱり変だって思っただろうか。
ぐるぐるといろいろ考えてしまう。なにか失敗してしまったんじゃないかって思う。僕が掛け違えなければ、ノエルさんは疑問を持たなかったかもしれない。レヴィ氏はなにも言わないけれど、さっき急に走り出した僕だって変だった。わかってる。僕はバカだ。居るはずのない人が見えるだなんて。
上手に嘘をつけるほど僕は成熟していない。知っている。オリヴィエ兄さんが涼しい顔ですべてをやり過ごしているのをいつも真似てる。でも上手く行かない。哀悼期間にたくさんの人がブリアック兄さんを悼みに来た。あのとき、僕はちゃんと、普通の遺族をできていたかな。できていなかったのかな。だからノエルさんは、あんなことを尋ねて来たんじゃないかな。
自動車が、ごうんっていう不安になる声をあげて発進する。
「僕の行きつけの喫茶店に寄ろう。ガトーもパフェも、めちゃくちゃ美味しいのよー」
静かな声色でレヴィ氏は言った。僕は学校の授業時間中にそんなことしていいのかなってちょっと思ったけど、どのみちこうして校外に出てしまっているし、いいのかとも思う。自動車は大きな通りへ出てから、少しだけ葉が色褪せてきている木が並ぶ路を通って目的地へと向かった。走ったのは二十分くらい。その間レヴィ氏は、この前オルガンで弾いていた曲を鼻歌で歌っていた。なんでいきなり走ったの、とか、僕へ聞かなかった。
入り口付近にある時計柱へ『コブタ通り』って名前が掲げてある商店街へ着いた。車道も歩道も煉瓦で舗装されているから、きっと再開発が終わったばっかりなんだと思う。アウスリゼは急激な自動車の普及で、国中どこもかしこも道路整備が追いついていないんだ。ルミエラ市内は、きっとマシな方だと思う。
徐行運転で歩行者の往来をかわしながら、商店街の中ほどのところで路駐する。駐禁じゃないんだろうか。おっさんが通うにはちょっとかわい過ぎるんじゃないかと思うような、黄色いひさしの喫茶店があった。まさかそこに行くのか、と思ったらさすがに通り過ぎて、もっと渋い店へ向かった。
扉を開けると鈍い金属製の呼び鈴が鳴る。外見も中も茶色くて、おっさんが通う店って感じだった。カフェの豆を燻した香りが鼻について、嫌な匂いじゃなかったから、ちょっとだけ深呼吸をする。
「そういや、お昼はちゃんと食べた?」
「……部屋まで、運んで来られるから。食べました」
「そっかー。じゃあ僕だけ食事しちゃっていい? 食べて来なかったのよねー。ここ、貝のパスタが美味しいのよ。軽食だったら玉子サンドとかあるわ」
奥まったところにある席へ着いたら、初老の店員がメニュー本を持ってきた。手渡されて開くと、わりと低価格の商品が並んでいる。ここで本格焙煎してるのかな。深煎りのカフェと、いちじくサンドを頼んだ。さっき、吐いちゃったから。それと炭酸水。口の中をすっきりさせたくて。
レヴィ氏は宣言通り貝のパスタ。それに「今日は酸味の強いのにしようかな」って言って、カフェを頼んだ。
「あと、モンブランふたつ」
「なんで」
「あらあ、この店に来て、モンブランを食べないなんて損よー。食べましょうよー」
機嫌の好さそうな笑顔でレヴィ氏は言った。まあいいけど。嫌いじゃないし。
炭酸水がすぐに運ばれて来たので、受け取って口へ運んだ。わりと冷えていて、口の中がすっとする。ぐるぐると考え続けていることも少しだけ低速になる。少しだけ。
レヴィ氏は、僕になにも尋ねなかった。ノエルさんのことも、ブリアック兄さんのことも。僕が走ったことも。だからちょっとだけ僕は安心して、でもなんとなく見透かされているような気がして怖いような、違うような、どっちつかずな気分になる。
「最近、お兄さんとソノコちゃんとは会ってる?」
カフェが運ばれて来たあたりで、レヴィ氏がそう尋ねて来た。どきっとした。さっき走ったときのことを言われたのかと思って。ソノコといっしょに言われる兄は、オリヴィエ兄さんだ。当然だけど。
「……ソノコとは、ときどき。兄は、ほとんど帰宅できていないみたいで。犬を飼っているんです、兄夫婦は。アシモフっていう」
「あらあ、話には聞いたわあ。おっきい白い犬がいるらしいわね!」
「おっきすぎて。一歳になったばっかりなんですけど。ソノコの体格じゃ、もうしっかり遊んでやれないから。ときどき僕が行ってる」
深煎りのカフェの苦みが口内に広がる。砂糖も入れず飲めるようになったのは、ブリアック兄さんの真似をしていたから。紅茶より、カフェが好きだったんだ、兄さんは。だから、僕もそうなった。犬が好きなのだって、きっとブリアック兄さん譲りで。
「そっかー。宰相閣下も忙しいのね。新婚だっていうのに。それに、大好きな犬とも暮らせているんだから、早く帰りたいでしょうにね」
「え?」
僕は思わずレヴィ氏の顔をまともに見た。レヴィ氏は「えっ、なになに? 僕が今日もイケメンだって?」と言った。僕はつっこまずにそのまま、じっと彼を見たまま考え込んだ。――そうだ。オリヴィエ兄さんも、犬が好きだった。
目の前で手を振られたので「だいじょうぶです」と言って僕はカフェを飲み干した。そして思い出した。そうだ、オリヴィエ兄さんも、カフェの方が好きだった。
兄さんたちは、とても似ている。顔も。好みも。違うのは、髪色くらいで。
そう考えたら、ブリアック兄さんの笑顔が不意に、鮮やかに脳裏に思い浮かんだ。まるで過去が現在へ追いついたみたいに。さっき駐車場で見た幻なんかじゃない。はっきりとした、記憶。驚いて、僕は音を立てて器をテーブルに置いてしまった。レヴィ氏が少しだけ驚いた顔をする。
――思い出した。ブリアック兄さんの、笑顔。そうだ、こんな風に笑うんだ。オリヴィエ兄さんそっくりの、あの――
驚いて、声が出なくて。僕は立ち上がって手洗いへ行った。泣きたい気持ちが込み上げてきた。でも涙は出てこない。時間をつぶして、少しだけ気持ちを落ち着けてから席へ戻った。パスタもいちじくサンドも来ていて、レヴィ氏はなにも気にしていないって顔で「お先にいただいてるわよー」と食べていた。
もう一度カフェを頼んだ。同じ深煎りのやつ。いちじくサンドを食べながら、もしかしてオリヴィエ兄さんも、ブリアック兄さんの真似をして苦みに慣れたのかな、なんて思った。
「ねえー、テオフィルくん」
パスタを食べ終わったレヴィ氏が、さっきとは違う味のカフェを頼んでから僕へ言った。
「なんですか」
「お兄さんとソノコちゃんのお家に、泊まっていらっしゃいよ」
脈絡のない会話をする人だな、と思った。いや、関連はあったけれど。僕が「なんでですか」と尋ねたら、レヴィ氏は「そんなの、新婚夫婦生活の偵察に決まってるじゃない」と大真面目な顔で言った。
「というのは冗談で」
「冗談に見えませんでした」
「お兄さん、たぶんあなたが泊まりに来るってなったら、必死になって帰宅してくるんじゃないかしら」
それがなんで泊まりに行く理由となるのかわからず、僕は無言でその次の言葉を促した。レヴィ氏は肩をすくめて言った。
「僕、宰相閣下よりソノコちゃんとの付き合いのが、ちょーっとだけ長いの。でね、ちょーっとだけ娘みたいに思っているのよ。ちょっとだけ。だからね、忙しいからって新妻を放置してるとか、ちょーっとだけ許せなくて」
「私怨ですね」
「そうね!」
堂々と肯定するようなことじゃないと思った。カフェといっしょにモンブランが運ばれて来る。レヴィ氏の瞳と同じ色のマロングラッセが乗っかっていて、共食いだな、と僕は思った。
「テオフィルくん、あなた、疲れてるでしょう?」
レヴィ氏は真っ先に共食いをして言った。僕はその言葉の意味を考える。疲れている? そうだろうか。ここ二日は寮の部屋にこもりきりで、体がすっかりなまっているけれど。
「疲れっていうのは、体だけのことを言うんじゃないわよ。気持ちだって、なえてしまっていたら立派な疲れよ。それには環境を変えるのが一番だわ」
そう言われて、僕は「……まあ、ちょっとは、疲れてるかもしれないですけど」と返した。レヴィ氏色のマロングラッセは美味しかった。
「ソノコちゃんも、あなたが来てくれるとよろこぶわよ。彼女にとって、あなたがどれだけ大切な存在か、あなたもわかってるでしょう?」
言われて、ソノコが前に僕へ話したことを思い出した。もう会えない家族について、どう感じているかを。彼女のさみしそうな笑顔が思い浮かぶ。僕は、それでもソノコが笑える理由を想いながら、いちじくサンドを一口かじった。
「……ちょっと、考えておきます」
「あらあ、いいことは早めの方がいいわ。外泊申請に僕が一筆添えればそれで完璧よ。今週末にする? ソノコちゃんにも僕から連絡しとくわね」
強引だな、とちょっと思ったけれど、今はそれが、ちょっとだけありがたかった。なんとなく、今の状況のままじゃいけないことはわかっていたから。
兄さんたちが好きなカフェの香りと苦みが、僕のまとまらない考えと思いを、ここに留めてくれている気がした。