第5話 再会 retrouvailles
僕が音楽教師から胸ぐらをつかまれたことは、わりと大きな問題になって校内に広まっているようだった。ようだった、という言葉を使うのは、僕が二日ほど登校を控えているのでその真相を知らないからだ。べつにあのあと体調がすごぶる悪かったわけではないし、行こうと思えば行けたけれど、レヴィ氏が校医としての権限で「無理をする必要はないと思うわ」と休む名目を一筆したため、学校へ提出してくれたから。
寮の一人部屋の扉へお見舞いの言葉が書かれたカードを何通か差し挟まれたり、レオンが御用聞きにやって来たりした。なにがあったのかレオンに聞いたけれど、ちょっと首をすくめただけで「なにも」と言うだけだった。
「君はこれまで通りでいいと思うよ。その方が、きっと早く鎮火する」
「なんだよそれ、思わせぶりやめろよ」
「僕も、把握できているわけじゃなくてさ。ただ、君に同情的な風潮があるってだけだよ」
ますます、登校するのが嫌になった。転入して一カ月で、もはや登校拒否だ。
休んでいるのに、校舎周りをうろつくわけにもいかない。ずっと部屋にこもりきりだ。図書館から借りてきていた本も読み尽くしてしまって、無気力にただベッドへ横になっていた。これからどうしようとか、そういうことも考えられない。考えたくない。
ノックがあった。レオンが去ったばかりだったから、忘れ物でもしたのかと思って返事をした。そして起き上がって扉を開けた。
「はぁい、テオフィルくん! どうしてるー?」
「……なんだあなたか」
「ちょ、ちょ、閉めないでよぉ!」
白の丸襟シャツにクリーム色のジャケットを引っ掛けた私服で、いっしゅん誰だかわからなかった。が、レヴィ氏だ。扉の間に脚を入れて閉まるのを阻止しつつ、彼は「退屈してるんじゃないかと思ってー! 僕の買い出しに付き合ってくれない?」と言った。
たしかに、時間を持て余してはいた。言うことを聞くのはなんかシャクだったけれど、僕はちょっと考えてから「着替えるから、待ってください」と言った。体を動かしたかったんだ。
マディア公爵領レテソルへ行ったときに買った、襟なしの長めのシャツを着た。前部分の首元に逆三角の切れ込みが入っていて、風通しがいいんだ。買った当初はぶかぶかだったけれど、今は肩幅も合っている。一年で僕も、けっこう大きくなったんだと実感するよ。
それに黒のつば付き帽子をかぶった。対抗戦球技であるファピーの選手がかぶるものだから、ファピー帽なんて呼ばれ方もする。外国から来た兄嫁のソノコは「ヤ=キュウ・ボウ」って呼んでいるけれど。僕が好きな選手、左投げの三塁手、イーヴ・フリムランが所属しているラステラ・ブリランテのものだ。
「あらあ、テオフィルくんったら、そんな庶民的な格好も似合うのねえ!」
「なんですか、それ。僕がファピー帽をかぶったらおかしいですか」
「似合ってるって言ってるじゃないー!」
寮から離れて教職員の駐車場へともに向かう。レヴィ氏の蒸気自動車は、今にも壊れそうな古く白い二人がけ。キレイに使っているからまだみすぼらしくないけれど。本当に動くのかな、と思いながら右側の扉を開けて助手席に乗ろうとした。が、でかいクッションが置いてある。
「あー、それ、膝に抱えて乗って!」
「なんで」
「助手席の安全帯が壊れかけなのよお。お腹にクッション置いて、その上からしたら、ちょうどいいの」
それ、公道走っていいのか? ちょっと思ったけど、つっこまず言われた通りに乗り込んだ。そして、クッションを抱えて安全帯を引き出したところで気づく。
これ。――このクッション越しに安全帯をしたら、首元に帯が触れない。
……なんとなくシャクだったから、僕は気づかなかったふりをした。
案の定、自動車の蒸気原動機が動かなくて手間取った。レヴィ氏が原動機の入っている前部分を二度ほど殴ったら、ごうんと大きな音が鳴る。こんなことは慣れたものなのか、涼しい顔で運転席へ乗り込み、彼は自動車を発進させた。
そして、十分ほど走って繁華街へ。午後を回って少ししたところだから、人通りが多く騒がしい。なにせこの、アウスリゼっていう大きすぎる国の、中心である都市ルミエラだから、人通りがないってことのが珍しいけれど。ガタガタと車体が揺れている。明らかに速度制限を守っていない自動車が、警笛を何度も鳴らしながら横を通り過ぎたときは、縦揺れすらあった。僕はさすがに苦言を呈したくなって「自動車、買い替えたらどうですか」と言った。
「いやあ、愛着あってえ。ハタチから乗ってる自動車なのよねえ」
安全性と愛着、比べるまでもないと思うけれど。なんにせよ、ひやひやする場面ばかりで時間つぶしにはもってこいだった。こんなボロボロの自動車に乗るのは初めてだったし、周囲の自動車から煽られるなんていうのも初めての体験だ。レヴィ氏はどこ吹く風っていうやつで、制限速度をきっちり守って運転している。自動車さえまともだったら、いい腕の運転手だと思う。
目的地は僕の知らない店だった。飾り気がない真っ白な四階建ての四角い建物。建物の壁際に自動車を停車させて、レヴィ氏が「着いたわよー」と言った。
教職員や公務員が出入りする場所らしい。だからって僕が入れないってわけでも、レヴィ氏が特別な証書を出したりするわけでもなかったけれど。
文具を中心に、事務職に必要なものが各階で種類ごとに陳列されているらしい。さすがに百貨店みたいな美しい展示なんかはしていなくて、実用的な店内の様子は好感度が高かった。レヴィ氏は四階に用があるらしく蒸気昇降機を使おうとしたから、僕は「階段でいいじゃない」と言ってそちらへ向かった。レヴィ氏は「ええー⁉」と明らかに不満そうな声をあげて着いて来る。上りきったときに、レヴィ氏はぜーぜーと肩で息をしながら前屈みになった。やっぱりけっこうおっさんだと思う。
「……じゃあ、僕、注文してたもの、受け取って、くるから、店内、見てて……」
「わかりました」
息も絶え絶えながらレヴィ氏は居住まいを正しつつ言った。興味があるわけではなかったけれど、その階には絵画用品の一角があって、僕はそういうのにうといから、勉強になるだろうと見に行った。まあまあおもしろかったよ。授業でもこれまで使ったことのない道具がたくさんあったし、絵の具の種類もびっくりするくらいあった。絵筆だって、細すぎてすぐにダメになってしまいそうなものから、大きすぎてなにを描くのかわからないものまであった。なんにせよ、僕は退屈せずに過ごせていた。
「――テオ?」
困惑したような声で、愛称を呼ばれた。僕はなにも考えずにそちらを振り向いた。そしてそこに立っていた男の姿を見て、誰かわかったときに息を呑んだ。
どこか着崩した仕立てのいい服。それに、キレイに整えた黒髪と曇天みたいな灰色の瞳。どうしてこの人が、こんなお固いお店にいるのかわからなかった。そんな印象まるでない。
「……ビュファン、さん」
僕がそう呼ぶと、ちょっとだけほっとしたような表情で彼は「そうだよ、覚えてくれていてうれしい」と言った。
忘れるわけがない。小さいころから、何度も会ったことがある。遊んでもらったことだって。それに……この人は――哀しんでくれた人のひとりだ。
「でもさ、そんな呼び方じゃなくて、ノエルって名前で呼んでよ。……ブリアックみたいに」
なにもないのに、喉元がじわりと熱くなった、気がした。
四話にイラストを挿入しました