第4話 協和音 consonance (挿絵あり)
「僕が使っている部屋だよ」
連れて来られたのは同じ二階にある部屋だった。音楽室からもそれほど離れていないんじゃないかな。僕はまだ首元の違和感に気持ちが向いていて、距離とか移動時間だとかに頓着できなかった。だからよくわからなかった。
「ここでは好きに過ごしてもらってかまわないから。いつでも来て」
そこにあったソファへ座った。すぐにテーブルへ水が入ったコップと、深い容れ物が差し出される。僕をここへ連れてきた白衣の男は、静かな声で「まだ吐きたかったら、吐いてね」と言った。僕はコップを口へ運んで水を口に含んだ。いくらかはすっきりとしたけれど、苦しさはまだ残っている。
とても静かな部屋だった。他の場所から隔絶されているのかと思うくらい。だから、さっき僕が倒れたときに鳴ったピアノの音と人々のざわめきが、耳から離れてくれたように思う。
とりあえず礼を言うべきなんだろう。けれど声を出せなかった。僕がなにかを話そうとしているのがわかったのか、男は目を細めて笑って「ムリしないで」と言った。
「まあ僕も仕事ないし。よかったらゆっくりしましょう」
そう言いながら茶を淹れるために、沸茶器のアルコールランプへオイルマッチで火を入れた。仕事がないってどういうことだよ。じゃあなんでここにいるんだよ。やがて、湯が沸くこぽこぽという小さな音が聞こえた。
彼は、二度面識のある男だった。一度目は、兄嫁のソノコが長い帰省から戻って来て、心理相談を受けるとき。仕事で動けないオリヴィエ兄さんの代わりに僕が付き添ったんだ。二度目は、オリヴィエ兄さんとソノコの結婚式にて。あっちから話しかけられて、この学校の校医として雇われたって言われた。だから、誰も彼も知らない顔の中で、ちょっとだけ見知っている人間。そんな感じ。
ミルクをたくさん入れた紅茶みたいな色のクセ毛を、顔にかからないように後頭部で少しだけ結い上げ肩に流している。それにマロン・グラッセ色の瞳。見た目は年齢不詳だけれど、きっと、けっこうおっさんだと思う。ジョズエ・レヴィ。精神科医で、ソノコのことをオリヴィエ兄さんから任されている人。存在の個性が強烈で、記憶の端に刻まれ忘れることはない。ちょっとだけ、よりによってこの人に助けられてしまったことを悔いるような気持ちがあったけれど、しかたがない、予期できなかったことだから。
レヴィ氏はなにも言わなかった。茶を淹れる音と、そのハーブの甘い香りだけが部屋にあり、僕の鼻をくすぐる。なにも問われないことに少しだけ安堵して、僕はその香りを吸い込み、吐き出した。
無言で出されたのは、以前も飲んだことのある薬膳茶だった。ソノコの心理相談のときに、気持ちを落ち着かせる効果があるって出されたやつ。僕はそっとその器を両手で持った。もう一度深呼吸をする。少しだけ吐き気が治まる。
あのときにソノコが語ったことを、僕は繰り返し考えている。彼女は、遠い国からの移住者で、そこでの生活をすべて捨てて僕の兄さんと結婚した。
もう二度と戻れないらしい。その覚悟で、このアウスリゼに帰って来たんだ。彼女は、天涯孤独の身になってまで、オリヴィエ兄さんの手をとった。僕にはそれがとても大きな決断だと思えたし、実際、そうだろうと思う。
僕はソノコへ聞いたんだ。家族と別れるとき、どんな気持ちだったか。
彼女は言った。泣けるだけ泣いた、と。できることは手当たり次第やったから、自分の選択に後悔はないと。そして。
「でも、このせつなさは、ずっと持っておきたいんです」
彼女はそう言った。なにかを懐かしむ瞳で、どこか遠くを眺めながら。とても悲しそうなのに、それでもほほ笑んでいた。
僕にはわからなかったんだ。自分から家族との別離を選べる気持ちも、悲しみを宝物みたいにできる方法も。できないことだらけで、僕もいつかソノコみたいに心から笑えるようになるのかもわからない。だから、彼女の前ではうつむいてしまう。
それでも、心配をかけないように、うわっつらの笑顔だけは、上手くなったと思うよ。
こうやって、僕は小器用になって行く。
「この部屋ね、僕がおねだりして、宰相閣下に作ってもらった場所なの」
レヴィ氏は、僕の向かい側のソファに座り、茶を口へ運びながら言った。
宰相閣下というのは、この学校の創立者である僕の兄、オリヴィエ・ボーヴォワールのことだ。兄さんは、国内にはびこっていた教育格差とそれに伴う国民の生活水準の溝を是正するために、この学校を創った。なんだか、それも外国から来たソノコが言及した、貧しい子どもたちへの言葉からの着想だったって言ってた。ずっと以前から今に至るまで、ソノコはオリヴィエ兄さんにいろんな影響を与える人だと、改めて思ったよ。
茶を口の中に流し込んだ。喉がすっと潤った。ひとつだけ咳払いをしてから、僕は「おねだりって、なんで」と声を出した。すごく小さかったけれど。
「いちおう僕、研究職でいろいろ論文とか書かなきゃいけないのよー。だから集中するための部屋がほしいってお願いしたの。完全防音。それに僕がほしいもの全部ここに入れてもらって」
言われて、僕は部屋の中を見回した。以前ソノコといっしょに行った、レヴィ氏の研究室に似ている。白い壁に観葉植物。それに、執務机がひとつと書類の山。いちおうの応接テーブルとソファ。そして。
「……オルガン」
「おっ、さーっすがテオフィルくん。すぐにわかったね?」
それほど歴史が深くない楽器だ。僕が生まれるちょっと前くらいに開発されたもので、ピアノより安価な家庭用鍵盤楽器。安価って言っても、それなりに値段はするから一般市民の家に導入されることはほとんどないって聞いている。でも富裕層が持つには安すぎるんだ。だから僕の実家にはなかったし、実際初めて実物を見た。これは、木製のやつだ。それなりに使い込まれているように見えた。
「僕ねえ、オルガンの音が大好きなのよ。同時にいくつかの音を鳴らすとするじゃない? そしたら、別々の音なのに混ざり合ってひとつの音になる。柔らかで、伸びやかで、やさしい」
どんな音だろう、と思った。もう一度茶で唇を湿らせてから「弾いてみて」と口にした。
「あらあ、僕の演奏でよければ? どの曲がいい? あの音楽教師ちゃんみたいに、小難しいのは弾けないわよ?」
「一番、弾き慣れてるのでいいです」
「りょうかーい。じゃあ、僕のお得意芸の曲でー」
席を立って、レヴィ氏は壁際のオルガンの席に座った。ふたを開けて、譜面も置かずに鍵盤へ手を添える。
すぐに指が動いた。それはとてもやさしい手つきで、彼が本当にこのオルガンを愛しているのが伝わってきた。細くて長い指がオルガンの鍵盤を静かに押し下げる音が、部屋全体に柔らかく響く。
左手人差し指の、金の指輪が光る。それは既婚者の証で、オリヴィエ兄さんとソノコが揃いでしているものにそっくりだったけれど、僕はレヴィ氏に配偶者がいると聞いたことがない。まあ、どうでもいいんだけれど。
前奏が終わった。そこで楽しそうにレヴィ氏は歌い始めた。しっとりとした夜曲だと思ったけれど、歌謡曲だったらしい。
遠くにいる
あなたを想い
夜風がせつない
旋律を運ぶ
窓辺に座り
見つめる星空
あなたの笑顔が
浮かぶたびに
恋心を歌う小唄だった。オルガンの角のない音色と、落ち着いた男声が絡まり、ひとつの音になる。
あなたの姿が視界に入るとき
あなたがわたしのすべてになる
それでも瞳を閉じてしまうの
あなたがあまりに
すてきだから
一番を歌い終えたところで弾き終わり、オルガンの椅子に座ったままレヴィ氏は得意満面で僕を振り向いた。
「――どう⁉」
「どうもこうも、僕は、オルガンの音色が聴きたかっただけなんですけど」
僕がそう言うと、レヴィ氏は「いいじゃない、僕の美声に合ってたでしょー?」と自惚れ全開のことを言ってきた。
僕はちょっとだけ笑って、たしかに上手いなあとは思っていたけれど、なんとなくいじわるな気持ちで、彼へ「そうですかね。よくわかんなかったです」と言った。
「まあー! よくわかんないだなんて! こんな名曲の名演を!」
「知らないです。有名曲なんですか?」
本当に知らないから僕はそう言ったんだけれど、レヴィ氏はすごく驚いた風に目を真ん丸にして僕を見る。
「えっ、あらあ? ご存じない? 僕がハタチくらいのときにすごく流行った曲で」
「じゃあ僕はたぶん生まれてないですね」
「えっ、あー⁉」
悲鳴のような声をあげて、レヴィ氏はオルガンに額をぶつけた。僕は少しだけ笑った。苦しさはなくなっていた。
けれど、口にはしなかった。僕は再び茶を一口飲む。少しずつ、体が落ち着いてきた。
「まあ、悪くなかったです」
僕が言うと、レヴィ氏は満足げに笑った。
「――ちょっと、気分落ち着いた?」
僕は無意識のうちに首元へ手をやり、違和感を確かめていた。僕の気持ちを読んだみたいにレヴィ氏は尋ねて来る。吐き気もだいぶ収まってきたし、部屋に漂うハーブの香りが心を少しずつ和らげてくれるようだった。それを確認して、僕はうなずく。
「……少し、落ち着きました」
ぽつりと言った僕の言葉に、レヴィ氏はすぐに反応し「それは、よかった。無理はしないでね」と優しい声で返して来る。
「何か、話したいことがあったら、いつでも聞くからね」
彼は続けた。その言葉は表面的には親しみやすいものだったけれど、僕の内側の柔らかいところに触れられるような感触で怖かった。それで僕は「とくに、話したいことはないですね」と咄嗟に言ったんだ。
その言葉はどこかぎこちないものだったかもしれないけれど、彼はそれ以上追及することなく、ただ静かにほほ笑んだ。そのやり取りに、ほんの少しだけほっとする。
「さて、そろそろ次の授業の時間だけど。――今日はもう、帰っちゃう?」
レヴィ氏は悪巧みに誘う顔で僕を見て立ち上がった。オルガンのふたをそっと閉じる音が、再び静かな部屋に響く。レヴィ氏は日が差し込む窓辺に歩み寄り窓を少し開け、まだ秋には遠く思える風を部屋の中へ招き入れた。
僕は立ち上がって、一度深呼吸をした。まだ首元の嫌な感触は完全には取れていないけれど、少しは軽くなった気がする。
「いつでもこの部屋に来て、休んでね。僕の部屋だけど、あなたのお兄さんにもらったものだから、たぶん半分はあなたのものだと思うのよ」
「どういう理屈ですか、それ」
大真面目な顔でそう言い切ったレヴィ氏の言葉に、僕は少し笑った。
風がレヴィ氏の髪を少し揺らした。部屋の中はハーブの香りと外の緑の香りが混ざり、とても爽やかになった。僕はもう一度その空気を胸いっぱいに吸い込んで吐いた。その瞬間、ほんの少しだけ、この場所が僕にとって特別な場所になるかもしれない、と思ったんだ。
挿絵提供:りっこさん
喪女ミタ既読者さんは、
『205話 それが、わたしの結論』
をお読みになられると、いい感じに理解が深まるかもしれません