終幕 Finale
時間は確実に流れていく。僕が立ち止まっている間にも、この瞬間にも、これからも絶え間なく。
僕はこれまで、たくさんの時間を無為に過ごしてきた。焦りや後悔に、押し流されそうになることもあった。それでも、それは僕にとって必要な過程だったのだと思う。うずくまり、休む期間として。そして、これからもきっと、そういう時期は巡ってくるのだろう。
わからないことが、まだたくさんある。走っても、背伸びしても、いっぺんに理解なんてできない。僕は少しずつ、少しずつ大人になっていく。そして、大人になったからといって、何もかもがすぐに解決できるわけでもない。
僕はもうすぐ、十六になる。雪が解け、春が来る頃には。
去年の今ごろより、少しだけ進んでいる。それでいい。今の僕の速度は、それくらいで十分だ。
最近は、剣技部の部室で過ごす時間が増えた。
マルラン氏の助手であるクーヴ氏は、僕を熱烈に歓迎してくれた。どうやら、彼らは僕をエスクライム公式の強化選手にしたいらしい。それがクーヴ氏の本気だということは、稽古のたびにひしひしと感じる。でも、僕自身の気持ちはまだ決まっていない。
期待されているのは分かっている。でも、それに応えるかどうかを決めるのは僕自身だ。だから今は、その期待をただ受け取るだけで、答えは出さない。そんな自分を臆病だと思われるのではないかと心配になるけれど、それでも素知らぬ顔をしてやり過ごしている。そんな大きすぎる決定、今ここで、とか、できるわけないじゃないか。
レヴィ氏は、やはり学校との契約を更新しなかった。元々、オリヴィエ兄さんが公私混同の上、職権濫用で僕のためにレヴィ氏を雇ってくれたのだろうから、学校のために残るという選択肢は始めからなかったんだ。
僕のために残ってほしい、そう言いたかった。ちょっとだけ、ね。言う前に「テオくんは、もうだいじょうぶよ」って言われた。うん。僕も、たぶんそう思う。
あの部屋はキレイに片付いて、ソファとテーブルの応接セットだけが残された。
最後の日まで、二人でお茶を飲んだ。コップを洗ったとき、僕が使っていたやつを、レヴィ氏は「僕の家に持って行くわね」って言った。
「――僕の家に、テオくん専用で置いておくから」
場所が変わるだけなんだ。僕たちの関係は、変わらない。なにも。
レヴィ氏が「会いに来てよね?」って確認するみたいに言ったから、僕は「もちろん」って言った。
前進できているんだと思う。僕は、僕の速度で。
「テオくん、手荷物これで最後ですかー?」
寮の事務所にあいさつし、鍵を返却して外に出た。そのとき横付けされた自動車の後部座席を覗き込みながら、ソノコが明るく声をかけてきた。
「うん、あとは業者に任せた」
「はーい」
僕は退寮することになった。オリヴィエ兄さんが独身時代に住んでいたアパルトメントが空いたから、そこに引っ越す。最初からその予定で、寮には仮住まいとしていただけだ。
――それにしても、準備には時間がかかった。オリヴィエ兄さんがソノコの家へ完全に移るためには、ただの大きめの民家では不都合があったらしい。宰相という立場のために、周辺の家屋や土地を買い足し、防備を整える必要があったのだとか。
思い出の家だから、そのまま残したいっていう、ソノコの気持ちを優先した結果だった。いいんじゃないかな。どうせ兄さんは、ずっと貯め込んでた金の使い道なかっただろうし。
カミーユが運転してくれる自動車に乗り込むとき、見送りに来たレオンが、すごく神妙な顔で「……学校、やめたりしないよね?」って言って来た。
「なんでだよ。やめるわけないだろ」
「……そうか。そうだよな」
寮はそれなりに気楽だし好きだったけれど、僕が出れば、他の希望者に部屋を譲れる。それに、オリヴィエ兄さんのアパルトメントには住み込みで何人かの従者がいるから、グラス侯爵領の父さんたちとも連絡を取りやすいんだ。父さんたちも、僕を訪ねて来やすくなる。たぶん僕が帰省するより、あっちが来る回数のが、ずっと多くなるんじゃないかなっていうのが僕の予想。
レオンはなんか何度も立ち位置を直して、それから僕に「なんか、さみしいよ。君が寮からいなくなるの」ってつぶやいた。
僕は「べつに。学校はやめないって言っただろ」って言って、レオンは「そうなんだけどさあ」って言う。
「……朝の走り込み、どうするの」
「どうするも。続けるよ。寮の敷地内じゃないってだけ」
「そうか」
なんか、レオンは顔を上げて「じゃあ、僕もがんばるよ」って言った。なんだよ、それ。
「君は、僕の目標だから」
なんか、よくわかんないことをレオンがつぶやいた。
アパルトメントの場所は、ちょっとだけ王宮に近いところだ。だから閑静な住宅地。この学校からは自動車で二十分ってところかな。間によくアシモフを散歩させる、国立公園がある感じ。
「デ・コリーヌ・ドレ国立公園」
半身を自動車の後部座席に入れて、レオンを見て僕は言った。レオンはなにを言われたのかわかんないような顔をした。
「そこ走ってる。来れば」
乗り込んで扉を閉めた。レオンが「えっ」と高い声を上げたのが聞こえた。
寮を出ても、学校での毎日は変わらない。それでも、少しずつ自分を変えていけたらと思う。
「テオくん、いいお友だちがいるんですねえ」
発進してから、助手席のソノコがたのしそうな声で言った。僕は「べつに」って言った。
引っ越し業者は僕たちよりも先に到着していて、ちょうどアパルトメントの入口の低い階段を、布で包んだ大きい荷物を二人がかりで抱え中に入って行くところだった。僕の家の従者がそれを先導している。
僕はこの場所で、新しい生活を始める。不安はなにもなくて、ただ穏やかな気持ちがある。
先日あいさつを済ませたコンシェルジュに頭を下げて業者に着いていく。二階の、道路側の区画。両開きの玄関が開け放たれていて、そこへ入っていく。そして、僕が指定してあった居間の壁際に業者はその大きな荷物を置いた。
布を外すと、深い木目が穏やかに光を反射した。僕のものになった、レヴィ氏の、木製オルガン。
居間の片隅にオルガンが収まった瞬間、ここが僕の新しい家だと、心の底から実感した。窓から入る午後の光が床を滑り、部屋全体を柔らかく包み込む。
この新しい空間で、僕はきっと、少しずつ自分を変えていける。素直に、そう思えた。
他に大きいものはないから、作業はそれで終わりだった。レヴィ氏の思い出を運んで来てもらった。重大な役目だから、僕が頼んでおいたように従者が業者へ心付けを払った。ソノコが「おじゃまします……」と言いながらカミーユといっしょに入って来る。
「あの、あの。おうちの中、拝見してもいいですか?」
「見れば。いいよ、ぜんぶ」
なんかそわそわしながらソノコが言ったから、僕はオルガンのふたを開けながら言った。椅子に座る。鍵盤にそっと指を置くと、かすかな冷たさが心地よい緊張を生む。両手をそえて、音を確認して行く。
奥の、オリヴィエ兄さんが書斎として使っていた部屋から「こっ、ここは! あの夢に出てきた!」というソノコの声が聞こえ、次いでカミーユの「そ、ソノコ様⁉ なぜ倒れ伏すのです⁉」という声が上がった。かまわずに僕はオルガンを弾いた。
「――僕はね、もう、だいじょうぶ。支えをもらったから。だから、今後はこの子に、テオくんを支えてほしい」
先日の、レヴィ氏の言葉を思い出す。やさしい気持ちになる。
あの部屋で飲んだお茶の香り、レヴィ氏の奏でた音、笑って泣きながら、僕の手を引いたこと。いろいろな思い出が、僕の中によみがえる。
遠くにいる
あなたを想い
夜風がせつない
旋律を運ぶ
窓辺に座り
見つめる星空
あなたの笑顔が
浮かぶたびに
レヴィ氏は、なにを思いながらこの曲を弾き、歌っていたのだろう。自分が二十歳のときに流行った歌だって言っていた。
きっと、なにかに傷つく前の、若いころの曲。悲しみに染まっていない思い出の曲。だから、自然に笑えていたんだろうか。この歌で、無邪気に笑えていたころの自分を思い出していたんだろうか。
僕はそういう、自分を励ますための歌を持たなくて、だからレヴィ氏から受け継いだこの曲で思いを馳せる。きっと。ずっと。ブリアック兄さんのことを。
あなたに会えるその日まで
季節が巡り夢を見る
あでやかなバラのように咲き誇る
あなたへの愛を胸に抱いて
もう会えないけれど。でもそれでいいんだ。僕はわすれないから。
泥遊びしたこと、いっしょに怒られたこと、託してくれた剣に、口端を上げて笑うクセ。好きなカフェにスープ、逃げ水を「そーいうもん」ってざっくりまとめたこと。
わすれないから。僕は。
ブリアック兄さんを、失わないから。
ずっと。
僕の生活に、音楽が増えた。
このオルガンは僕にとって単なる楽器ではないと思う。過去と現在、そして未来をつないでくれる、かけがえのないものだ。
だから、これからだって見つけられるかもしれない。僕のための曲を。
途中で弾くのをやめたら、いつの間にか居間に来ていたソノコが「えー、最後まで歌ってくださいよー」と言った。なんだよ。見世物じゃないし。僕は「やだ」と言ってオルガンを閉じた。
そして、自分で持ってきた通学鞄から、黒い長方形の箱を取り出す。ふたを開けて、中を見る。
一度もそこから取り出していない、緑のクラヴァット。じっと見てから、オルガンの上にそのまま飾った。
いつかこれを身に着ける日が来るだろう。
その日に僕は、どんな音を奏でるだろう。
向かい側の家の従者に、入居した旨を告げて家主にあいさつを伝言した。その足で周囲の様子を見ようと散歩に出ようとしたら、ソノコが「わたしもー! 行きますー!」と着いてきた。カミーユもいちおう着いてくる。
静かな、喧騒なんて言葉はどこにもない、本当に静かな街並みだった。雪を踏みしめる音と、僕たちの息遣いさえ音楽に思えるほどに。学校とか百貨店周辺の様子から考えたら、同じルミエラだって信じられないくらいだ。
僕は、これがいいと思った。とても。僕の音で満たして行けるから。
「すごく、キレイで、静かで、いいところですね」
歩きながらソノコが、僕が思ったのと同じことを言った。僕は「そうだね」って言った。レヴィ氏が、カフェの裏側に住み始めたときも、こんな気持ちだったのかな、と思う。街全体が、僕を受容してくれていると感じた。
レヴィ氏の住むコブタ通りまでは、蒸気バスを乗り継いで五十分。いつだって行ける。会いに行ける。きっと、今の僕にとって必要なのは、この静けさとその距離感。
ソノコは、あんまり僕に聞いてこない。きっと質問したいことはたくさんあるのに。レオンみたいに、なにか言いたそうな顔をしない。そのくせすごく心配しているんだと思う。僕のことを。
だからか「なにかあったら、すぐ教えてくださいね。助けに来ますから!」と言った。なんだよそれって思って「助けるって、なにをさ?」って聞いた。
「なんかこう、なんかこう。暴漢とか、へんな人とか! そういうのが来たら!」
「うわー、心強いなーって言っとけばいい?」
「あ、あと、オレオレ詐欺とか、教材買ってくださいとか、そういうのも!」
「もしかしてなんだけど、自分が不安なやつ言ってる?」
あと何個か、撃退すべきなにかを列挙してから、ソノコは胸を張って言った。
「テオくんは、わたしの家族なので!」
吹き出しそうになったけれど、僕は「ありがとう」って言っておいた。義理の姉だからね。家族だし。
ぐるりと一周して、アパルトメントの前の通りへ戻ってきた。郵便配達員が自動車に乗り込んで去って行く。それを見て、春になったら、ノエルさんへ手紙を書こうか、とふと思った。
きっと、いい話ができると思うんだ。ブリアック兄さんのことも。僕たちそれぞれの、これからのことも。
歩きながら深呼吸した。さわやかな雪の匂いが肺を満たす。そして、去年の今ごろは、まさか僕がこんな風に穏やかな気持ちで過ごせるようになるなんて、考えもしなかったと思い出す。
僕は、なにもできなかった自分を責めていた。ブリアック兄さんとオリヴィエ兄さんに関することなら、だれよりも僕が行動しなければならなかったのに、と。ブリアック兄さんの処刑を止められなかったこと。それよりも以前に、ブリアック兄さんの離反やその気持ちに、気づけなかったこと。家族だから。僕は、兄さんの弟だから。
ソノコと、当時全権公使だったミュラ氏という男性の三人で、自分が悪いと責任の奪い合いをしたこともあった。僕は追い詰められていて、でも死に物狂いでなにかを為すことはなかった。……それが、ちょっとだけまだ、心残り。
僕は、いくらか変われたんだろうか。そうであればいい。僕にとって必要な、丈の高さを目指して、成長していければいい。僕の速度で。
「僕がソノコの家族かあ」
「……なんで不満そうなんですか」
「べつに。そんなこと言ってないじゃない」
変わらないことがある。変わらなくていいことがある。これからも、ずっと。
兄として。家族として。追いつけない丈の高さの手本として。
「――僕、ブリアック兄さんが好きなんだ」
思ったままのことを、なんとなく、そう言った。唐突なのはわかっていたけれど、べつになんてことのない言葉だから。
「……そんなこと、みんな、知ってますよ」
ソノコが立ち止まった。僕はいくらか先に進んでしまったから、振り返った。カミーユが困ったような顔でソノコを見下ろしていて、助けを求めるように僕へ視線を寄越した。
「どうしたの、ソノコ」
うつむいて、ソノコは泣いていた。立ちすくんですごく泣いて、両手の甲で目を拭って。吐く息が白く、ソノコの不規則な息継ぎを知らせる。
「だって。だって、テオくんが――」
泣きじゃくりながら、鼻をすすって、それでも彼女ははっきり言ったんだ。
「――テオくんが、笑ったから」
鏡がないから、わかんないけど。
レヴィ氏みたいに、笑えていればいい。
今年の冬は、刺すような寒さが続いている。息すら凍りそうな朝に、まばゆいばかりに白い日々。雪解けには、まだ遠い。
けれど、そのうち春が来る。風がやわらいでそよぎ、土の香りが混じり始める。そして、やがて木々の枝先に小さな緑の芽が顔を出して、花だって咲くだろう。
僕は今、どこにいるのだろう。正直なところわからない。でも、わからなくてもいいんだ。なにごとにも時があって、疑問に対する答えがすぐに得られないことだってある。
僕の雪解けも、そのうち来るだろう。長い間追い続けてきた逃げ水の先には、違う景色があった。それを知ったから……もうだいじょうぶ。
泣いて、笑って、季節は巡る。それでいい。そう思えた。思ってもいいよね。
だから、やっと、心から言える。
これは訣別だけれど、そうじゃないんだ。だれもが表に見えない傷を抱えている。負いきれない荷を引きずっている。ときどき嫌になって、投げ出したくなって、さんざん罵って。それでも、時が来ればまた歩み始めるんだ。そうやって生きている。みんな。
記憶は僕の中で生き続ける。逃げ水みたいに。そこになくても、僕には見えているんだ。だから、これは喪失ではない。
僕は、いつまでもこの気持ちを負うよ。自分の荷として。
春が来て、花が咲いても、きっと。ずっと。
さよなら、ブリアック兄さん。
『真冬の逃げ水 Mirage d'hiver』
これにて完結です
感無量です
よかったら、なにかひとことでも感想残してくださるとうれしいです
それがわたしへのご褒美なので!!!
(これで完結ですが、今月中に過去話を一話こちらに追記します)
謝辞
りっこさん
美しい表紙はこの作品を書く上での原動力でした
また、思わぬ数々のイラスト、本当にありがとうございました わたしは本当に幸せ者です
りっこさんのおかげでこの作品自体への理解が深まったと思うことが何度もありました
感謝してもしきれません、本当にありがとうございます
e.さん
ご存じの通り、e.さんの「美ショタ様とレヴィ先生だね」というキャラクター強度についての鶴のひと声がなければ、この作品は生まれませんでした
書いてあげられて本当によかった、と今しみじみと思っています
「つこはわたしが育てた」と生涯言ってください、お願いいたします
本当に感謝です、ありがとうございます
読んでくださったみなさま
こんな重たい話を……ここまで読んでくださって……本当に、本当にありがとう……愛しています!!!!