第34話 真冬の逃げ水 Mirage d'hiver
僕に足りないものはなんだろうってずっと考えている。学力や背丈みたいに、数値で測れるものではなくて。もっと違うなにか。そう思って父さんやオリヴィエ兄さんを見ていると、自分がまだまだ足りないことだらけだと思う。
僕はまだ手加減した父さんから一度も勝ちを取ったことがない。当然だけど。以前、ブリアック兄さんが亡くなったことで、オリヴィエ兄さんが国政に着くか領治を取るか板挟みで悩んでいたとき。僕が家を継ぐって宣言したから、グラス侯爵領はそのうち僕が治めることになる。それにしたってなにも知識がないから、冬休み中に父さんの助手みたいなこともした。興味深いとは思ったけれど、父さんがなにをやっているのか、さっぱりわかんなかった。それでも父さんはなんか、満足そうにしていたけれど。
オリヴィエ兄さんなんかさらにそうだよ。自分で学校創っちゃうのもそうだけど、その創立記念の演説なんか原稿なしでやってた。あとで聞いたら「あの程度なら配分時間さえわかっていればその場で話せる」とか言ってた。即興かよ。踏んでいる場数と場面が違うんだろうな。なにせ、この国で三人しかいない宰相のひとりだ。到底あんな人に追いつける自信はない。それに、剣技に関してだって、きっとまだまだ僕は敵わない。意外と強いんだよ、オリヴィエ兄さんも。
それに、レヴィ氏のことも考える。僕にとってきっと新たな手本。なんとなく変な人だなって思うこともあるけれど、もしかしたらそれも計算なのかなってときどき思う。それでも、僕は彼に自分のやわらかい部分を見せてもいいって思える。自分の弱さや未熟さをさらけ出してもいいと。こんなふうに思わせてくれた人は、ほかにいない。この五カ月くらいの間、彼から受け取ったたくさんものは、数値にできず目にも見えない。とても希少なもの。
じゃあ、レオンはどうかな。僕にないものをぜんぶ持ってるって感じの人間だ。それは僕が選択的に身に着けてこなかったものばかりで、素直にいいなって思える。僕は僕、彼は彼だ。だから、僕が彼を評価するのはうらやましいってことじゃなくて、好ましいって意味だと思う。たぶんね。
足りないものだらけだ。それでもいいって思える。けれど成長したいとも思う。僕はどんな大人になるだろう。三十歳までに、僕はなにができるだろう。目に見えないなにかを、どうやって示していけるだろう。
午後からマルラン氏の剣技の授業だった。基礎体力作りの課程が終わって、小さな班に分かれて基礎訓練を受ける。僕は昼の間に寮へ戻って運動着に着替えた。そして、ベッドの下の収納に入れていたものを取り出す。
生前、ブリアック兄さんが僕に託してくれたもの。兄さんが十代の頃に使い込んだ、先を潰した競技エスクライム用の片手剣だ。手に取るたび、あのときの兄さんの姿と、これを譲ってくれたときの、口端を上げるような笑顔が思い浮かぶ。
持ち上げると、ずっしりとした重みがある。柄の部分は……先日買ったクラヴァットの緑色。グラス侯爵領の、土地色。
自分用の模擬剣を持ち込むのは、僕くらいかもしれないな。悪目立ちするかもしれない。かっこつけだって陰口叩かれるかもしれない。それでもいいやって思う。
この剣を使わないのは、僕にとってブリアック兄さんへの裏切りだから。なにか言いたいやつは言えばいい。僕は僕だ。だれかの側面だけの意見に、惑わされるつもりはない。
訓練室は他の教室みたいに、油と石灰岩と樹脂を混ぜて作った、継ぎ目のないキレイな床材じゃない。木製の板面に樹脂が塗られた、他の学校と同じ昔ながらの造りだ。体を動かす目的の場所だからさ。たとえば転んだとして、木材の方が衝撃を吸収しやすいからね。全体がそうなってる。いろいろ考えて作られている学校なんだ。
僕が模擬剣を持って訓練室に現れると、先に来ていたやつらが目配せし合った。ちらりと僕へ目を向けては、何も言わずに目をそらす。まあ、べつにどうでもいい。屈伸運動をしていたら、レオンがやって来て「すげー、かっこいい!」と声を上げて、僕の剣を熱心に見始めた。
マルラン氏がやって来て、僕たちは整列した。今日から助手も着けるって前に言っていたけれど、僕たちよりちょっと年上くらいの男性もいっしょだった。
女子はみんな、訓練室の向こう側半分を使って球技をするみたいだ。点呼の笛にきゃあきゃあ言いながら集まっている。僕たち男子陣は静まり返っているのにね。対象的な様子だった。マルラン氏、怖いんだ。
整列のときに、僕は模擬剣を携帯した。だれかに盗まれたりしたら嫌だから。ないとは思うけど。みんなを見回したときにそれがわかったみたいで、マルラン氏の榛色の目が光った。気のせいだけど。
「――基礎訓練とはいえ、本日から実技に入る。怪我をすることもあるだろう。各々その覚悟でいるように」
覚悟なんかないやつのが大半だけれど、みんな声を揃えて「はい!」って言った。マルラン氏、怖いんだ。
そしてその場でそれぞれ、怪我をしないための柔軟体操。内容は自分で考えて組むようにって言われてる。僕は座って両足首を回した。それにふくらはぎを揉んで解す。冬休みに入る前、一度足首をひねったんだ。それから気をつけてる。隣りのやつとかも僕の真似してた。
立ち上がろうとしたら、足元に影が落ちた。見上げたらマルラン氏だった。
「その剣でやるつもりか?」
見下ろしながら尋ねられた。そのまま答えるのは失礼だと思ったから、僕は模擬剣を取り上げて立ち「はい。そのつもりです」と言った。
「――見せてみろ」
僕が手渡すと、マルラン氏は両手で受け取り、柄を見てから半分ほど引き抜いた。そして「……使い込まれているな。良い剣だ」と言った。マルラン氏の静かなその言葉は、重く僕の胸に響いた。
「自分のものか」
「はい。兄から譲り受けました」
「それは、陸軍にいらした兄君か」
「……はい」
「そうか」
それ以上、言葉はなかった。でも十分だった。競技エスクライム選手の最高峰、マルラン氏に、ブリアック兄さんが認知されていた。……それだけで、なにもかも十分だ。
思わぬところで思わぬ慰めを受けて、僕は泣きそうになった。返してもらった模擬剣を、両手で受け取った。
女子たちはたのしそうに班分けをしている。男子は、僕以外の生徒はみんな訓練用の模擬剣を取りに道具室へ向かった。広場にひとり残った僕を見て上がった、女子の「えーっ」という声が聞こえる。なんだよ。ぱらぱらと男子生徒が戻って来て、物珍しそうに持ってきた模擬剣を見ていた。
「――ボーヴォワール。前へ」
あらかたみんなが戻って来たころ、マルラン氏が言った。僕は驚いて一瞬反応できなくて、もう一度強い声で「前へ」と言われてからあわてて進んだ。助手の男性の誘導によって、他の男子生徒は壁際に下がる。さっきみたいにひとりで真ん中に立つ僕へ、マルラン氏は「エスクライムの規定は理解しているか」と尋ねて来た。僕は「はい、競技エスクライムの公式規定ならば」と返した。
「よろしい。ブレソール、前へ」
「はい」
助手の男性が進み出た。手には、学校の備品ではない模擬剣。ちょっとおもしろそうな顔をして、僕の前に立つ。僕は困惑して彼を見返す。
「言葉で習うよりも、見るが早いだろう。八分。だれか時間を計れ」
「――あっ、はい、じゃあ僕が!」
だれかが名乗り上げる空気もない中、マルラン氏が怒らない程度の時機にレオンが声を上げた。あわてて運動着入れから懐中時計を取り出す。マルラン氏は、僕と助手の男性へ、競技用の保護メガネを投げて渡して来た。……試合をしろってことなんだろう。一度模造剣を床に置いてメガネを装着する。
レオンが手間取っている間に助手の男性は模造剣を鞘から出していた。僕も鞘から模造剣を出し、鞘は床を滑らせるように壁際に流した。レオンは走ってそれを留めた。そして、僕たちは互いに名乗りを上げる。
「ブレソール・クーヴです」
「テオフィル・ボーヴォワールです」
互いに名乗り合うのは、競技エスクライムの試合の型だ。
気づいたら、静まり返っていた。騒がしかった女子たちの声も、ボールの音も聞こえない。僕もクーヴ氏も、右手に模造剣を構え、左手を腰の後ろへ回した。
「――始め!」
マルラン氏の声が響く。僕はクーヴ氏の保護メガネの奥を、そして模造剣の切っ先を見ている。クーヴ氏は、純粋にこの状況をおもしろがっているのか、口元でほほ笑んでいる。僕にはそんな余裕はない。練習だとしても、試合の形で手合わせしたことがあるのは父さんだけだから。他の人ともやっておけばよかった。
(――前進、後退、前進、後退)
父さんと対峙しながら、頭の中でずっと唱えていた言葉を心で反復する。床板がきしむ。僕自信も、周囲の緊張も感じる。みんな息をひそめている。
磨かれた鋼の刃が光を反射し、一瞬だけ自分の顔が映る。よくは見えなかったけれど、悪くはない顔色をしていたような気がする。少なくとも、怯えてはいない。
僕から踏み込んだ。競技エスクライムでは、弱い方が先攻ってことになっているんだ。クーヴ氏は難なく刃先を受け流して突きを繰り出して来た。一瞬焦るけれど僕もどうにか受け流す。衝撃が腕に響く。指が痺れる感じだったけれど、一歩下がって間合いを取る。
(――剣をただ振るのではない。全身で動きを制御するんだ。足運びを意識しろ)
父さんに何度も言われた言葉。きっとブリアック兄さんも、何度も言われた言葉。呼吸が乱れないように一度深く吸い、二度浅く吐く。
僕が出る前に、あちらの攻撃が再び迫る。今度は斬り上げだった。なんとかそれをかわし、低い姿勢で相手の懐に飛び込む。素早く突き出すけれど、十分に読まれて後退されていた。相手はなんだかたのしそうで、それがちょっと悔しい。もう一度繰り出す。かわされる。あちらの突き上げ。僕はかろうじてかわす。そんな攻防。
「そこまで!」
レオンが手を上げて八分を報せたところで、マルラン氏が言った。気をつけていた呼吸も途中から乱れて、僕は肩で息をしながら礼をした。クーヴ氏が無言で握手を求めて来たから、模造剣を持ち替えてそれに応じた。心臓が胸で激しく鳴り響いていて、喉から出てきそうだ。
「――良い試合だった。覚悟のある立ち居振る舞いだった」
マルラン氏は、僕が返却した保護メガネを受け取りつつ言った。静まり返っていた訓練室の中でその声は響き渡って、ひと息後にざわめきが広がった。僕は「ありがとうございます」とマルラン氏へ頭を下げた。
ちょっとだけ泣きたくなった。……ブリアック兄さんの剣での、初めての試合。マルラン氏の言葉は、僕のすべてを肯定してくれた。そんな気持ち。
レオンが鞘を持ってきてくれたから、受け取って剣を収める。ささやくように「すごかったよ、かっこよかった」とレオンは言った。僕は小声で「ありがとう」と言った。
その後は、班に分かれて基本の型の練習。番号順に五人一組で。正直僕は興味がなくて他のやつらの顔と名前が一致していないけれど、番号順だったから助かった。
「互いに改善点を指摘し合い、基本型を覚えるように。わからなければ質問しろ」
助手のクーヴ氏が前でお手本を示して、それにマルラン氏が解説を加える。素人の生徒たちに、一度見ただけの型をやってみろって、なかなか難しいんじゃないか、と思った。
班のうち二人くらいが立ってお手本通りの型を取って、他の三人が座ったまま突っ込む。見様見真似だから、みんな絶妙に間違っている。何も言わないのがいいだろうなって思っていたけど、前隣の班にいるレオンが振り返って「テオ、どこが違うの、教えて」と小声で言ってきた。
なんか、見守っているクーヴ氏とマルラン氏の目がこっちを向いている気がする。しかたなく、僕は十四番の生徒へ「肘が上がりすぎだと思うよ。それと、脚をもっと踏ん張れるように」と言った。隣の生徒も同じように動いた。
「あと、肩の力を抜いて。足の位置を少し後ろにずらせる? それで安定する。そう」
具体的に言ったら「あ、本当だ。なんか安定する!」と十四番が声を上げた。他の班からも僕に質問が飛んでくる。僕の班も隣の班も、基本型はしっかり覚えられたみたいだ。まあまあ、よかったんじゃない。
補習とかはとくになかった。整列してみんなで礼をするころには、女子たちはきゃあきゃあ言いながら撤収していた。あっちはなんか気楽でいいな。
「ボーヴォワールくん、今日はありがとう。よく理解できた。また教えて」
十四番が笑って僕にそう言ったから、僕はあいまいにうなずいた。名前を思い出せないからあとで確認しようと思った。そしてみんなが模擬剣を片付けに道具室へ行くとき、レオンが声を上げる。
「なあ、みんな! テオの剣、めちゃくちゃかっこよかったよな?」
それでなくとも悪目立ちしたのに、と思ってため息をつきながらレオンを振り返ると、幾人かの生徒が笑いながら「まじでそれ」「かっけーかった」と言った。レオンはそれに「ほんと、テオのアドバイスがなかったら、僕の型なんてグダグダだったって!」って重ねる。何人かがまた同調する。
「まじのエスクライムって感じ」
「さっすがボーヴォワール家だわ」
「だろ? 僕の相棒だからね! すごいやつなんだよ!」
調子に乗ってレオンがなんか言った。なんだ、その相棒って。僕はちょっと呆れて、首を振って訓練室を出る。レオンが「ちょっと恥ずかしがり屋なんだよなー」って言うのが聞こえた。勝手に僕の印象を操作するな、と思ったけど、なんか否定するのもしゃくで、聞こえなかったことにした。
基本型を習っただけのみんなはだいじょうぶだけど、僕はクーヴ氏と試合をしたから、一度汗だくになっている。早く着替えたかったけど、あとは終礼だけだから我慢した。教室に入ったら、まだ女子しかいなくて、甘ったるい匂いがする。みんなより早く戻って来たのを後悔したけど、遅かった。
「テオくん、すごくかっこよかった!」
数名の女子が僕を取り囲む。なにが「テオくん」だ。話したこともないくせに。
「自分の剣なんでしょう?」
「小さいころから練習してたの?」
他にも次々に質問を投げかけられて、僕は堪えきれなくなった。意味わかんないよ。放っておいてくれ。
僕はなにも言わずに首を振って、入ってきた男子生徒の流れを利用して女子の包囲網を突破する。そして教室を出る。
「えーっ、テオくーん、行っちゃうのー?」
その声に笑い声が続いた。なんなんだよ。振り返りもせずに階段へ向かい、降りる。レオンが「あれ、最後まで居ないの?」とすれ違いざまに言って、僕は「やめとく。女子うざい」って言った。
レヴィ氏はきっと帰る支度をしているかな。もしかしたら時間をわすれて文献とにらめっこしているかな。そう思いながら廊下を歩く。……こんな風に、彼の部屋を訪れることができるのは、あと何回だろう。
いつもの扉をノックした。いつもの声が返事をした。僕はいつもの通りにその扉を開ける。
「いらっしゃーい、テオくん。今日は遅かったわね?」
いつもと変わらない笑顔と、香り。それなのに、ちょっと部屋の中が違って、そのちょっとに僕は動揺した。
本棚の本が、箱に詰められて台車に乗せられている。あの、レヴィ氏の書いた論文が掲載されている、分厚くて専門店にしか売っていない本も。それに、机の上の書類が半分以下になっている。いつも散らかし放題だったのに。なんで。……そんなの、理由はわかっている。
僕は、中に入ったその場所で立ち呆けた。言いようのないさみしさが込み上げてきて、どうしたらいいのかわからない。レヴィ氏は「ちょっと待ってねー、お湯沸かすわね」と言って、それだけは片付けていなかった僕専用のコップを取り出す。左腕には僕が贈った腕時計。茶を用意している間、レヴィ氏はこちらに背を向けたままで、僕はその背中をじっと見ていた。
「……片付けてるの」
「うん。早めにやっておこうと思って。キレイにして返したいからねー」
僕は、それ以上なにも言えなかった。胸がいっぱいで、言葉が、声が出なかった。
両手にコップを持って振り返ったレヴィ氏は「どうしたのー? 座りましょうよ」と笑って言った。
僕は、まだ。笑えなくて。レヴィ氏みたいに、笑えなくて。
座って、差し出されたコップを受け取って。甘い香りで。いつもは心を軽くするこの香りも、苦味も、今の僕には意味がない。
ちょっとの間会話もなかった。僕はなんて言っていいかわからなくて、レヴィ氏はたぶんそれを承知している。レヴィ氏は茶に口を着けてから「剣技の授業だったのね。模擬剣? 自分のなの?」って聞いてきた。
「……昔、もらった、ブリアック兄さんが、子どものころに使ってたやつ」
そう言うと、レヴィ氏は目を見張ってから椅子に立てかけた模擬剣を見た。そしてひと言「そう」と言った。
「向き合う用意ができたのね、テオくん」
「――なにもできてないよ、なにも」
本当に、僕は、なにも成長できていない。今このときにそう思った。レヴィ氏がここを去ることが、とても怖くて、どうしようもなく悲しいんだ。覚悟はできたと、向き合う用意はできたと思っていたのに。
僕は見送る係なのかなって、ちょっと思った。ブリアック兄さん、体調のためにラキルソンセンへ移住した友人のレア、それにジゼルさん。そこに、レヴィ氏も加わるんだってことが、僕にはとても耐え難い。
一番つらかった、ブリアック兄さんとの別れを乗り越える手助けをしてくれた。乗り越えようって、思わせてくれた。それは僕にとってかけがえのないものだ。
でも、居なくなってしまうんだ。
レヴィ氏も。
そして、ふと思い出して、僕は言った。
「――子どものころ、ブリアック兄さんと、夏に泥遊びをしたことがあるんです」
唐突な言葉なのに、レヴィ氏はほほ笑んで「そう」と言った。茶の入ったコップが、温かい。
「……どろどろになって、すごく怒られて。でもたのしくて。僕もぜんぜんこりなくて。あるときまた水たまりを見つけて、走って行った。もう一度泥遊びをしようって思って」
レヴィ氏は「……うん。それで?」と穏やかな声で言った。僕は茶に映る自分の顔を見ていた。あのころよりずっと大きくなった僕は、その実、あのときと変わらない。
「でも、その水たまりが、逃げて行くんです。走っても、走っても。追いかけても、追いかけても。なんでかわからなくて。しまいにはつかれて、泣いて」
レヴィ氏は「うん」ってあいづちを打ちながら、僕の言葉を待ってくれた。僕は、あのときの自分の気持ちを思い出して、今と比べて、少しだけ泣きそうで。
「――どうしたんだって、追いかけて来たブリアック兄さんに聞かれて。僕は水たまりが逃げちゃうって答えて。兄さんは、あれは逃げ水だって教えてくれた」
とりとめのない話なのに、レヴィ氏はさえぎることなく聞いてくれた。ずっと、これまでもそうだったように。
でも、居なくなってしまうんだ。逃げ水みたいに。
「見えているのに。どうしてないのか、あんまり理解できなくて。兄さんは『そーいうもんなんだよ』って言うだけで。でも、わかったこととして」
僕は模擬剣の柄を片手でなでて「……僕が願うものは、ぜんぶ逃げ水なんだって、今、思います」と言った。
レヴィ氏は、なにも言わなかった。僕は、茶に映ったバカな僕を消すみたいに茶を口に運んだ。しばらくしてからレヴィ氏はコップをテーブルに置いて、おもむろに立ち上がった。オルガンに近づいて、開けて、ラの音を鳴らす。
「――目に見えないけど、存在するものもあるの、わかる?」
振り返って尋ねられたから、僕は「音?」って聞いた。レヴィ氏は「他には?」って言った。
「風とか、香り」
「そうね」
「味も?」
「おお、冴えてる!」
そう言ってから、レヴィ氏はいつもの鼻歌の曲を弾いた。歌わないで、ただオルガンだけで。その背中は、ちょっと悲しそうに見えて、僕はその姿をじっと見ていた。
「――僕ね、人の気持ちも、そういうものだと思っているの。見えないけれど、存在している。でもね、見えないから、そこにあるって、わかんないの」
僕は、他の人の気持ちとか、わからない。
ブリアック兄さんが、だれにも告げずに持って行った、マディア軍へ下った気持ち。
私情を交えず、職権を用いて処刑に異議を唱えなかったオリヴィエ兄さんの気持ち。
汽車の窓から、泣きそうな顔で笑っていたジゼルさんの気持ち。
墓標を見て「うわっ」って言ったノエルさんの気持ちだって。
でも、そこに存在している。
「……そういうのも、もしかしたら逃げ水みたいなものかもね。見えないけれど、存在して。振り回されて」
その言葉の最後の方は、独白みたいだった。レヴィ氏は、きっと自分自身の気持ちに振り回されて来た人だ。今の僕みたいに。いや、きっともっと深く。
「ねえ、テオくん。そこにあるのが逃げ水だってわかっていたら、追いかける?」
「まさか」
「そうよねえ」
レヴィ氏は、ちょっと笑った。おかしそうに。終業の鐘が鳴った。これも、見えないけれど存在しているものだなって思った。
「――僕、たぶんどっちもやったの。逃げ水を追いかけるのも、追いかけるのをやめるのも。それでわかったことがある」
なんだろうって思って、僕は椅子に座り直した。レヴィ氏はにやっと人の悪い笑みを浮かべて「なんだと思う?」って聞いてきた。わかるわけないじゃないか。
僕が間髪入れずに「わかんないです」って言ったら「ちょっとは考えなさいよー」とレヴィ氏がむくれた。だからちょっと考えて、やっぱり「わかんないです」って言った。
「追いかけても、追いかけなくても、そこから見える景色はおんなじだってこと」
言われて、なんだよそれって思った。そんなの、わかりきってるじゃないか。僕が不満なのを見て取って、レヴィ氏は体を折り曲げてけっこう笑った。なんだよ。レヴィ氏は上体を起こすと、いつも通りの穏やかな笑顔で僕を見て、言った。
「――だからね。それに気づいてから。思いっきり追いかけることにした」
「……え?」
「逃げ水だってわかってても。できるところまで」
意味がわかんなくて。どうしてそうなるんだよって思って。僕はそのまま「意味がわかんないです」って言った。レヴィ氏は「そうよねえ」って言った。なんだよ。
「逃げ水追いかけきったら、どうなる?」
「なにもないじゃないですか」
「そうよ。なにもない。でもね――その場所からは、違う景色が見えるのよ」
その言葉は、なにかを僕に思いつかせそうだった。わからない。でも、なにか大事なことを言われた気がした。心の奥に引っかかる感じがするけど、どう言葉にしたらいいのかわからない。結局、よくわかんなくて「わかりそうで、わかんないです」って僕は言った。レヴィ氏は言葉を変えて「ないものを願ったり、見えないものを追いかけたりするのは、極めるとすごいことになるわよってこと」って言った。簡略化しすぎじゃないかな。
「でもねえ、違う景色を見るには、コツがあって。それが『逃げ水』だって、確実に理解していなきゃいけないのよ。そして、それが自分からどれくらい離れたところで生じているのか。それも把握しておかなきゃ、追いかける途上で力尽きてしまう」
また難しい話になった。でもレヴィ氏は僕を見て「テオくんは、だいじょうぶね。自分が今見ているものが、逃げ水だって、わかっているもの」と言った。だいじょうぶっていう保証の言葉はうれしいけれど、僕はなにを保証されたのかわからなかった。
「『逃げ水』って、なんですか?」
僕が最初に例えたんだけど。でもよくわかんなくなって、僕は尋ねた。レヴィ氏は「これは、僕の結論だけれど」と前置きしてから言った。
「その先に希望を見せてくれるもの、だと思っているわ。だから……追いかけるって決めた僕にとっては、希望そのものよ」
ちょっと、言われたことが信じられなかった。僕が逃げ水のようだと思ったものは、なにもかも失われて手に入らないものだ。
――ブリアック兄さん。そして、その思い出。
「……この前ね、やっと、ずっと見えていた逃げ水を、追い越せたの」
レヴィ氏が、僕の方を向いたままオルガンの椅子に座って言った。僕はびっくりして「それ、なんですか」って早口で聞いた。レヴィ氏は「――指輪」って、やさしい声で言った。
「……やっと、手放せた。違う景色があるって、わかってたのにね。……できなかったの。ずっと」
レヴィ氏は左手を見た。その人差し指は、日焼け跡がまだ指輪みたいになっている。僕は、なんて言ったらいいのかわからなくて、黙った。レヴィ氏はじっと左手を見ていた。それから、僕を見て「テオくんのおかげよ」って、ほほ笑んで言った。
「……僕?」
「そう。腕時計、くれたじゃない?」
僕はレヴィ氏の左手を見る。ずっとしてくれているのが、うれしい。レヴィ氏は、子守唄を歌うみたいなやさしい声色で、僕に言う。
「――クラヴァット・リボンをした姿で。ありがとうって言って。自分で気づいていないけれど、ちゃんとひとつの逃げ水を追い越して、違う景色の場所から。僕に贈ってくれたじゃない?」
泣きそうになった。ああ、そうか。僕は、僕の見ていた逃げ水を、追い越していたんだ。それは、僕にとって、すごいことで。……すごいことで。
レヴィ氏も泣きそうな顔をしていた。でも笑ってた。そして、右手で大切そうに腕時計をなでて、僕を見る。
「……ああ、これは、僕も追い越さなきゃいけないなって。この時計をして、僕の時間を動かそうって。そう思えたの。テオくんのおかげ。なにもかも。ありがとう」
僕は泣きそうで。なんて言ったらいいのかわかんなくて。僕がクラヴァット・リボンを結べたのは、ぜったいレヴィ氏のおかげで。なんて言ったらいいのかわかんなくて。口を何回も開けて閉じて、釣り堀の魚みたいなことして、でも結局なにも言えなくて。
泣いた。もう、どうしたらいいのかわからなくて。何年ぶりかもわからないくらい。声も出なくて。だって僕の方がありがとうなんだよ。ボロ泣きしてたら、レヴィ氏が「やだー、もう、もらい泣きしちゃうじゃないー」って言った。ちょっと泣いてた。
「ねえ、テオくん」
レヴィ氏は、ちょっと泣きながら笑って、座ってる僕の前に膝をついた。僕は返事もできなくて、ただずっと泣いて。僕がありがとうなのに、僕がレヴィ氏を助けられたんだって、びっくりして。うれしくて。
「――僕ね、あの指輪を外すまでに、何度も自分を責めたり、過去に戻りたいと思った。でも、テオくんが見せてくれた未来が、僕の手を引いてくれた」
泣き顔見られるのが嫌でちょっとうつむいたら、レヴィ氏がおでこをくっつけてきた。お互い泣いてる。でもレヴィ氏は笑ってる。床に落ちた涙は、どっちのかわかんない。きっと僕のが多い。
「僕たち、違う景色が見えたね。追い越すまでしんどかったね。がんばったね。――これからは、しっかり歩けるね」
僕は、それがお別れの言葉に聞こえて首を振った。おでこがぐりぐりした。レヴィ氏は笑って「あのね、これからも、逃げ水みたいなものは、生じると思うの」と言った。
「でもね、僕はもうだいじょうぶ。テオくんにもらった腕時計があるから」
「僕はだいじょうぶじゃない。ひとりで歩けない。レヴィ先生がいなかったら、僕はまた歩けなくなる」
鼻をすすりながら僕が言ったら、レヴィ氏は「そんなこと、言うぅ?」って言った。僕は、レヴィ氏がいなきゃ歩けない。そう思う。レヴィ氏は「ねえ、僕からも、贈り物していい?」って言った。
「……なに」
「オルガン。この子、もらってくれない?」
おでこを外して、レヴィ氏が、オルガンを振り返った。でもそれって、レヴィ氏の大事なものだと思うから、僕は「そんな大切なもの、もらえないよ」って言った。
「僕はね、もう、だいじょうぶ。支えをもらったから。だから、今後はこの子に、テオくんを支えてほしい。だめ?」
レヴィ氏が泣きながら、でも笑って、精いっぱい笑って、僕に言った。手を引かれて、立ち上がって、僕はオルガンの前に来た。
音を鳴らす。ファ。違う鍵盤。ド。両手をそえて、なにを弾くか迷って、いつもの曲を弾いた。
――遠くにいる
あなたを想い――
レヴィ氏が、ちょっと音を外して僕の伴奏で歌った。僕は笑った。泣きながら笑った。
今は真冬で、氷点下の毎日だった。でも、あったかくて。すごく、あったかくて。
僕らの逃げ水も、後悔も、悲しみも、なにもかも。
解けて消えてしまうと思った。そうなってほしいと願った。
次話で完結です