第32話 贈答 cadeau
情けないことに、僕は僕の傷を晒してしまって、それが周知の事実になったようだった。まあ、どうでもいいやって思っていたからそうなったんだけれど、今となってはちょっとかっこわるいなって思いもする。僕はブリアック兄さんの身に起きたことを悲しく思っていて、事実傷ついていて、クラヴァット・リボンを結べない。それに、自然に笑えない。
基礎体力をつけるための早朝の走り込みは続けている。冬場の方が、かえって体が温まっていい気がしている。
剣技講師のマルラン氏は、招聘された折に設立された剣技部の顧問になった。僕が入部届けを持って行ったときのニヤリとした顔はわすれられない。放課後には毎日しごかれて、その上週一の授業の上でも容赦なかった。でも、僕にはきっとそれくらいがちょうどいい。そんな日が続いて一カ月くらい。
学校の他の授業にも問題なく参加していて、レヴィ氏の部屋には行くけれど、サボってまで行こうって気持ちはなくなった。行くけど。話すことなんてそんなにない。マルラン氏が厳しいってこと。授業の内容。それに、ときどきソノコとかレオンのこと。べつに、レヴィ氏とは無言でもかまわないし、彼の鼻歌を聞いているのは心地良い。
「――あらあ? テオくん。ちょっとそのまま、まっすぐ立ってみて」
「なんで」
「いいからいいから」
立ったままなんとなくオルガンを弾いていたら、そう言われて僕は背を正した。レヴィ氏が近づいて来てしげしげと僕を見たとき、あれって、僕も気づいた。
「……おおー! 僕より背が高くなったわねえ!」
レヴィ氏が手刀で僕たちの背を比べた。なんかうれしそうだった。ちょっとだけ僕のが下だったのに、目線がおんなじくらいになっている。なんかびっくりした。レヴィ氏は僕が追いつけるわけもないおっさんだから、こうやって物理的に追い越すことは念頭になかった。
「テオくんも、日々成長してるのねえ」
しみじみと、レヴィ氏がうなずいてなにかを納得していた。そうだろうか。そうだったらいいなと思う。でも、僕が本当に成長したいのは背丈ではない。
「成長、したいな」
僕がつぶやくと、レヴィ氏は笑った。
「してるわよ」
その言葉を信じたいと思った。僕の背が伸びるのと同じように、僕の心もきっと、少しずつ前に進んでいる。そうだったらいいなと思う。
週末は、これまで通りソノコの代わりにアシモフの散歩をしている。寒さにも冬毛にも慣れたアシモフは、前みたいに容赦なく引っ張るから、ソノコだとしっかり引きずられるんだ。国立公園へ連れて行き全力でボール遊びをしてやる。成犬になったから体力が有り余っていて、週一でもいいからこうしてやらないと機嫌が悪くなるからね。
雪の中ではしゃぐ真っ白いアシモフは、どこか雪の精のようにも見えた。いや、見えないか。でかすぎる。生後半年で初めて会ったときでも中型犬よりも大きかったけれど、さらにそこからふた回りは成長しているからね。
途中で、僕が投げたボールを無視して、アシモフはやって来た友だちの黒い犬のところへすっ飛んでった。飼い主さんにあいさつして、僕はボールを拾いに行く。
「――よお」
かがんでボールを拾っているとき、視界の端に黒い影が映った。僕が顔を上げると、そこにはノエルさんが立っていた。短いつばの帽子を深くかぶり、黒いマフラーが風に揺れている。濃い灰色外套のポケットに手を突っ込んだまま、彼はまっすぐ僕を見ていた。
「……ノエルさん」
「ちょい、話せるか」
外で話し込むには寒いけど、アシモフはまだまだ帰宅しそうにない。僕たちは広場の隅にあるベンチへ座った。アシモフは、友だちとたのしそうにじゃれている。
結局書かなかった手紙は、レヴィ氏が言うように、ふさわしい時があるんだろうと思う。まさか、ノエルさんの方から来てくれるとは、思わなかった。
しばらく互いに無言で、ノエルさんはポケットに手を入れたまま脚を投げ出していて、僕はアシモフを見ている。しばらくしてから、ノエルさんが「こないだ、悪かったな」って言ってきた。
「べつに、なにも。悪いことなんてなかったよ」
「……そうかよ」
また、二人で黙って。ディルゼー行きの汽車の中で雄弁に話していたノエルさんを知っているから、ちょっとだけそれが悲しく感じる。僕たちの間にはやっぱりブリアック兄さんがいて、ノエルさんが兄さんの不在を確認した今、きっとその場所は深い溝みたいになっている。
互いの吐く息が白いこと以外、僕たちには共通点がなくなってしまった。
アシモフが、僕が知らない人といることに気づいて爆速でやって来た。ノエルさんはびびってた。ノエルさんの膝のあたりをふんふん嗅いで、首をひねって、わん、と一言物申してまた爆速で去っていく。ノエルさん、おしゃれだから香水しているんだ。たぶんそれが気に食わなかったんだと思う。
「……おまえの学校、あんなでかい犬飼ってんの?」
「オリヴィエ兄さんの家の犬だよ。奥さんのソノコじゃ力負けするから、ときどき僕が散歩させてる」
「ああ、あの、ちっこい女の子。本当に結婚したんだな」
「若く見えるけど、ソノコはオリヴィエ兄さんとひとつしか変わらないよ」
「まじかよ。若見えし過ぎだろ」
わりと本気でノエルさんはびっくりしていた。まあ、ソノコの容姿については、僕も初対面のとき同年代だと思ったくらいだからね。しかたない。
「あの、さ」
ノエルさんがそう切り出した。僕はちょっと緊張して「はい」って答えた。ノエルさんも緊張していた。ちょっと迷うような間があって、彼は「ブリアックのことだけど」と言った。
「……まあまあ、俺なりに、納得したっつーか。ああ、まじかーって。――理解、した、から」
「……はい」
言葉の合間に、ノエルさんは小さく肩を上下させていた。それは寒さのせいだったのか、それとも何かを振り切ろうとしていたのか、僕にはわからなかった。
ブリアック兄さんが、死んだってこと――ノエルさんは、お墓を見る直前までは本気にしていなかった。汽車の中でのノエルさんの表情や語り口は、僕には彼が兄さんの死を受け入れられていないことを示しているように思えた。というより、実感がなかったのかもしれない。
ブリアック兄さんは自分の意志でアウスリゼ陸軍を除隊して、マディア公爵軍へと参入していたけれど、その事実をだれにも話していなかったみたいだ。ジゼルさんにだって、仕事でマディアに行って来るって言っただけのようで。
ノエルさんは何度か、僕にブリアック兄さんの死因について話させようとしたけれど、僕は語る言葉をなにも持たない。ただ、親友のノエルさんにも、婚約者のジゼルさんにも、自分の進路を言わなかった理由。僕なりには考えた。
――こうなることも、覚悟の上だったんだね、ブリアック兄さん。
その気持ちを知る術は、きっと、永遠に失われてしまった。兄さんとともに。だから、僕はずっと考え続けて、悩み続けるんだと思う。生きていく限り。
「……なんつーかさ。殺しても死なないやつだと思ってたのよ、なんとなく」
僕ははしゃぎまわるアシモフたちを見たまま、ノエルさんの言葉に「はい」とあいづちを打った。なんとなくわかる。丈夫で、強くて、快活で、生命力の塊みたいな人だった。そっくりだけど物静かなオリヴィエ兄さんとは、本当に真逆の人。
「――そんなこと、ないんだよなあ。みんな、そこいらの人も、俺も、おまえも。刺されれば死ぬし、病気でも死ぬ。そうだよなあ。……なんか、やっとわかったわ」
僕も、よくわかっていなかった。人が死ぬってこと。僕の祖父母に当たる人は、僕が小さいころに亡くなってしまったから実感がなかった。
初めて身近な人の死に面したのが、ブリアック兄さんだった。棺の中に横たわる、緑のクラヴァットをして眠る姿を思い出す。
あんなに生き生きとしていた人だったのに。そう思う気持ちは、今でもある。
「こんな年になってまで、こんなこともわかってなかったんだなー、俺。情けねえよなあ。最後の最後で、ブリアックに、こんな形で勉強させられるなんて思ってもみねーよ、まじで」
実感のこもった声で、ノエルさんはどこか遠くを見ていた。僕は雪の中を転げ回るアシモフを見ていた。僕は、ノエルさんの言葉に付け加えるものがなくて、ただちょっとだけうなずいた。
「……だからよ。こういうの言う柄じゃねえのは知ってるけど。――ありがとよ」
言って、ノエルさんは「あー、寒っ」と立ち上がった。そして僕を振り返って、肩をすくめてすごく嫌そうな顔をする。
「おまえさー、前から思ってたけど、なんでそんな首元寒そうなかっこしてんだよ」
「……なんとなく。動いたら、寒くないし」
「見てるこっちが寒くなるんだよ。マフラーかなんか買え」
そう言って、ノエルさんは右手をポケットから出した。そして僕の胸元に折りたたんだ紙幣を押しつける。とっさに僕は受け取ってしまって、あわてて「えっ、なにこれ」って言った。
「マフラーでも、クラヴァットでも。なんでも。好きなもん買え。じゃあな」
けっこうな額だった。こんな高いマフラーって存在するの? って思った。僕は「ちょっと待ってよ」って歩き出したノエルさんに走り寄る。ノエルさんはまたポケットに手を入れてしまったから、返そうに返せない。
「もらえないよ。なにこれ」
「いーから。礼だよ礼。それか入学祝い。そういうことにしとけ」
「でも……」
「こーゆーとき、どうすりゃいいかわっかんねーんだよ。だから、受け取ってくれや」
足を止めて本気の声でそう言われたから、僕はちょっと迷って「わかりました」って言った。ノエルさんはもう一度「じゃあな」って言って、歩き始める。
「ありがとう」
その背中に言うと、片手を上げて振ってくれた。なんとなくだけどかっこよく見えて、こういう大人もいいなって思った。ちょっとだけだけど。とりあえず、もらったお札は胸ポケットに入れて、アシモフを呼んだ。無視された。だから、もう一時間くらいだけつきあって、お友だちの黒い犬も帰宅するときに捕獲した。まあまあ満足そうな顔をしていた。
「テオくん、ありがとうです! 晩ごはんなにがいいですか?」
連れて帰ったら、開口一番ソノコがそう言った。僕は「ごめん、今日の夕食は寮で摂るよ」と言った。
「えっ、どうしたんです?」
「買い物行ってくる。百貨店」
「えーっ、今から⁉」
たしかに、夕方くらいに閉店だからちょっと時間がないな。そしたらカミーユが「自動車出しましょうか?」って言ってくれたから、ありがたく送ってもらった。ついでにソノコからエリオじいさん印のチーズを頼まれてた。
百貨店前の通りは交通量が多くて、一時停車もできない。だからちょっと外れたところで降ろしてもらった。お互い手を振って別れて、僕は百貨店の方向へ歩いて行った。
そして、ふと。
前を通りかかって、僕は黒煉瓦の店を見た。硝子の大きな窓の中には、外側へ向けて冬物の女性用手袋とそれに合わせたネックレスが展示してある。店の名前はクリストー・アンシャンテ。知ってる。ブリアック兄さんとジゼルさんが、指輪を作った店。
閉店時間は十九時って書いてあった。百貨店より遅い。気まぐれってわけじゃないけど、僕はその重い扉を引き開けた。むわりとした暖房の温かさと「いらっしゃいませ」という声が同時にやって来た。
「――おひさしぶりでございます。ボーヴォワール様。本日はなにかお探しですか」
名前はわすれちゃったけど、見覚えがある男の人がていねいに僕へ言った。一度来ただけの客の顔と名前を一致させているとか、外交官とかできそうだなって思った。僕は「服飾雑貨って、置いてる?」って聞いた。男の人は「一部ですが、取り扱いがございます。どのようなものでしょうか」って言った。
「マフラーか、クラヴァット」
「承知しました、三階へご案内いたします」
百貨店でもないのに蒸気昇降機があった。僕はべつに階段でもいいんだけど、たぶん案内してくれている男の人がレヴィ氏と同年代に見えたからなにも言わずいっしょに乗った。高級な店の中で犬の散歩をしてきた僕の服装は不格好だったけれど、すれ違う店員さんはみんなおじぎしてくれる。あらためてなんかすごいよね。
通された売り場は紳士物の服飾が並んでいた。硝子台の中には、最近開発されたばっかりで話題になっている腕時計ってやつもある。懐中時計を改良して作ったんだって。新聞広告で見た。思ったよりも小型で、これなら腕にしていてもじゃまにならないなって思う。まあ、僕はあんまり必要ないけど。でも実物を見るのは初めてだったから、しげしげと眺めてしまった。値段は、まあ、高いね。
「着けてご覧になりますか?」
「買わないよ」
「試着だけでもかまいませんよ」
そう言ってくれたから、着けてみた。利き手じゃない腕に着けた方がいいって。僕は両利きだからちょっと迷ったけど、左手にした。ずっしりとした重みを感じるけど、嫌な感じはしない。こういうの、きっとオリヴィエ兄さんとかが必要なんだろうなって思った。分刻みで仕事している人だから。
そう思ってから、なんでかレヴィ氏の顔が思い浮かんだ。べつにこれまで腕時計の話とかしたことないけど。でも、僕が試した銀色のやつはレヴィ氏には似合わないなって思う。たぶん、あの人には金色とか木目とかのが、似合う気がする。
僕は外して、お礼を言って返した。男の人はにこやかに受け取った。
「こういうの、どういう人が買うの?」
「男性のお客様がほとんどです。女性用の小型のものもございますが、まだ型も多くはございませんので」
「ふーん」
金色のやつもあった。値段の数字の桁を読み間違えたかと思った。僕が首を振ったら、男の人は「お若い方が身に着けられるのでしたら、こうしたものもございます」って、もうひとつ出してくれた。金色だけど、値段を聞いたらさっきのやつの半分くらい。
「なんで安いの?」
「こちらは、他の金属に金の表面処理加工をしたものです。純金ではありませんので、お求めやすくなっております」
「大人がしたらへん?」
「どのご年齢の方でも、問題なく着用していただけますよ」
僕はもう一度「ふーん」って言った。そして、マフラーとかの売り場へ行った。
なんか、種類がいっぱいあって、どれがいいってわかんなかった。こういうの、自分で買ったことないし。でもざっと見て、僕の視線はひとつの商品に吸い込まれた。
白いシャツに合わせて飾ってある。
緑色の、クラヴァット。
僕は、それを手に取った。
「試着されますか?」
「ううん、いい。……このまま、もらう」
自宅用か贈答用か聞かれて、自宅用って答えた。でも、ノエルさんからの贈り物だから贈答用なのかな。ブリアック兄さんの顔を思い出した。これまで何度もそうだったように。けれど、今の僕は、ちょっと気持ちが落ち込むくらいで平気だって思った。
成長できているんだろうか、僕は。レヴィ氏の背丈を越えたように。
胸ポケットから、ノエルさんからもらった紙幣を出した。三分の一くらいしか使わなかった。やっぱ、そんな高いマフラーもクラヴァットも存在しないんだよ。どうしようかなって思う。
僕は、もう一度腕時計のところへ行った。金もどき腕時計の値札を見る。元々の僕のお財布の中身と合わせればギリギリで買えそうだった。ちょっと確認しないとわからないけど。
男の人は何時間でも僕につきあうような構えでにこにこしている。この人にも、笑顔の向こうに悲しいことがあったりしたのかな。どうかな。僕はまだ自然に笑えない。
「これ、ください。贈答用で」
「かしこまりました」
財布の中身を合わせて、本当にギリギリだった。だから、帰りは蒸気バスを使わないで走って帰る。寮の食堂の時間に間に合わせなくちゃならないから。四十分くらいかかったかな。
「あれ、テオ、めずらしいね。早いじゃない」
廊下で行き合ってレオンが言った。僕は「今日は、こっちで夕食摂るから」って言った。目ざといレオンは僕が持っていた黒い紙袋を見てちょっとびっくりした顔をする。
「えっ、あの宝石店、また行ってきたのかい?」
「うん。買い物してきた」
「うわあ、大人だなあ。僕にはそんな度胸はないよ」
僕の部屋の前に来たとき、なんとなくだけど紙袋からクラヴァットの箱を取り出した。ふたを開けて、僕の首元にかざす。
「……どう?」
レオンはさっきみたいにちょっとびっくりして僕を見て、そして笑った。
「似合うよ。君のためのクラヴァットって感じだ」
僕はその言葉を聞いて、自分の部屋に入った。なんとなく、泣きたかった。泣けなかった。





