第24話 婚約破棄 annulation des fiançailles
根雪になるより前に用事を済ませようとして、街の中には忙しない空気が流れていた。学校の中までその雰囲気は来ないけれど、僕はときどき苦いカフェを飲みにコブタ通りへ出かけていたから、よく知っている。
白い息を吐く人々の中、寒気に晒されても首周りを空けている僕は奇異に見られているかもしれない。けれど、レヴィ氏が指輪を外さないのと同じで、きっと僕の首は寒々しいままだ。ずっと。
それが『僕の一部』と共存する方法なのかは、わからないけれど。
父さんが、表向きは生徒たちのためって感じで派遣してくれた剣術の先生は、まるでもうずっと前からそうだったかのように学校に馴染んでいる。エスクライムと呼ばれる剣術競技にて、世界王者だったジョゼフ・マルラン氏だ。マルラン家はボーヴォワールの傍流だから、もちろん彼が扱うのはボーヴォワール流だった。
第一線を退いて王者の座を空けたと以前報道されたマルラン氏だけれど、べつに腕が落ちたわけではない。普通に若い者に道を譲ろうとしただけだって。自分が譲った道を行く若者を育てるってことで、父さんの申し出には二つ返事で承諾したらしい。孫もいるおじいさんなのに、ぜんぜん元気だよ。現役でいいんじゃないか、これ。父さんより年上だし、あんまり無理しなくていいのにね。
初めて会ったとき、彼は「君がテオフィルくんかね」とぎらぎらした目で僕を見た。それ以来、事あるごとにしごかれている。午前中に体を動かして午後には全身筋肉痛なんて、初めて経験したことだった。僕以外の見込みありそうな男子も、全員もれなく同じ経験をしている。
人生で初めてってくらいの運動量で、ふくらはぎがぱんぱんになった。なんで腕じゃないかって言うと、実技なんかまだまだ早い、まずは体力づくりって、授業で走り込みさせられるから。それに、僕も自主的に走ってる。朝の風呂へ行く前に。最近それにレオンが加わった。まあ、そういうことするからなおのこと目をつけられるんだけどさ。
週末、エスクライム公式の模擬戦があって、それにマルラン氏が急きょ参加することになった。首都のルミエラに居るってわかったら、エスクライム協会のアウスリゼ支部から熱烈な招待を受けたらしい。観戦自由だって話で、マルラン氏が観に来てほしそうだったから、僕は行った。ルミエラ円形室内競技場。他の男子もぱらぱらと来て、なんでか女子もそれなりに来た。べつにエコール・デ・ラベニューの生徒はここって決まってるわけじゃないけど、なんとなくみんな、僕が座っている区画に集まってる。でもまあ、それでも距離は置かれてるけどね。
「――テオ、誘おうと思っていたら部屋に居なかったよ。早いね」
レオンがそう言いながら、がらんとした僕のところへ来て隣りの席に座った。僕は目がいいから、一番後ろに座っていた。ちらちらと同じ組の顔ぶれのやつらがこちらを見ているし、前の方にレオンと仲いい面子もいる。だから、あっち行けばって言おうと思ったけれど、そんなことわざわざ僕が言わなくたって自分の好きにするだろうと思って、黙った。
「マルラン先生はいつ出るんだろう?」
「……たぶん、二試合後。なんかさっき、そんな案内放送があった」
「へえ、親切だね。まあそりゃそうか、けっこう宣伝してたしな。一般の方も観戦できるし」
レオンは僕の隣りに居座るらしかった。その気持ちが、僕にはわからない。
競技場内は、どこかから隙間風があるらしくて肌寒かった。冬場は氷を張って氷上競技を行うこともあるから、元々そういう設計なのかもしれないけれど。僕は平気だったけど、南方のレテソル出身のレオンは、外套の上から何度も腕をさすっていた。
「――ちょっと、手洗い行ってくるよ」
「食堂行ってれば。暖房入ってるんじゃない」
「いやあ、せめてマルラン先生の試合は観なきゃ」
僕が促した言葉に、レオンは苦笑しながら「じゃなきゃ、なんのために来たんだか」と言った。それはそうだ。世界王者の試合を生で観られることも、そんなにあることじゃないしね。
競技場には、剣が触れ合うたびに鋭い金属音が響き渡り、ときおり観客が息を呑む音さえ聞こえてきた。試合を観る彼らの目は真剣そのもので、その緊張が場内の空気を張り詰めさせていた。
観客席はそれなりに埋まってきた。レオンが帰って来る前に、僕が座っている最後部座席の列にも人が来る。気にもしていなかったんだけど、ひとつ開けて隣りの席に座った人がいた。ちょっとだけ退屈な気分で試合を眺めていた僕へ、その人から話しかけられる。
「――すぐに失礼するけれど。……話を聞いてくれる。テオフィルくん」
問いかけだったけど、それは質問じゃなくて確定事項っぽかった。低い女声で、僕はそれが誰だかすぐにわかった。なので、ちらっとそちらを見てから、試合へと視線を戻した。
黒くて平らのツバなし帽をかぶって、真っ黒くて目が見えない遮光メガネをかけている。黒い外套に、栗色の波打つ豪奢な髪の毛。
「……あなたと関わるなって両親に言われてるんですよ。ジゼル・デュビュイさん」
僕は言った。母さんがここに居たら、とんでもないことになっただろうなと思う。僕は、彼女に思うところはなにもないけれど。
「あら、意外。あたしの名前、知ってたのね」
「もちろん。ブリアック兄さんから聞いてました」
僕がそう言うと、相手は黙り込んだ。――ブリアック兄さんの、恋人だった人。
しばらく剣戟が響いた。レオンはまだ帰って来ない。僕はこの時間をどうしようかと思う。……ジゼルさんは、ブリアック兄さんと付き合う前は、オリヴィエ兄さんと付き合っていたんだって。そんな話を聞かされたことがある。
そしてブリアック兄さんを悼む場で、堂々とオリヴィエ兄さんと結婚するって宣言した。ちょっと意味わかんなかった。そりゃ、追い出されるよね。あれは、ちょっと同情はできなかったかな。
この試合が終わったらマルラン氏の試合だから、何人かが手洗いに立って行った。
「――これ、もらって」
黒い手袋をはめたままの手で、こちらを見ずにすっと差し出されたのは、小さな封筒だった。一筆便箋とか入れるやつ。僕は反射的に受け取ってしまって、ちょっと悩んでから開いて中を見た。キレイな文字でブリアック兄さんとジゼルさんの名前が書いてある。そして、その下には店の印章と、もう過ぎた夏の日付け。
「……クリストー・アンシャンテ? 宝石店ですか?」
僕が尋ねると、ジゼルさんはどこか遠くを見るように顎を上げた。その目の表情は見えなかったけれど。
「……作ってあったの。マディア領の仕事が終わったらって。……結婚指輪の、受け取り票よ」
驚いて僕はジゼルさんの横顔をまともに見た。
背後で気配がして、レオンが帰って来たのがわかった。なんだかもぞもぞしているから、きっと僕らが会話しているのを見て、席に座りかねているんだろうと思った。
「……そう、だったん、ですね」
そう言うのがやっとだった。
沈黙が落ちた。レオンは、ちょっとためらうような気配をさせてから、階段を下って前の席に座っているやつらのところへ行った。ちらちらとこっちを見ている。僕は受け取った小さな紙切れをじっと見た。ジゼルさんが、これを僕に渡す気持ちを考えた。
「――あたしが、受け取りに行けるわけ、ないじゃない? そんな惨めな話、ある?」
笑うような泣くような、そんな声だった。僕は彼女を見ないようにした。
ブリアック兄さんの哀悼日に、あんな振る舞いをした彼女は、もしかしたら誰よりもブリアック兄さんを悼んでいたのだろうか。……わからないな、と思った。僕には、とても難しい。
「……どうしたら、いいですか」
絞り出すように僕は言った。結婚指輪が、女性にとってどんなものなのか。
レヴィ氏の左手の、鈍い光を思い出す。死んでしまったレヴィ氏の患者女性は、そうやってレヴィ氏を指輪で閉じ込めた。そんな大きな思いが乗る物を、僕に、どうしろと。
「……好きに処分してよ。あたしじゃできないから」
もし、ブリアック兄さんが生きていたら。
九月に挙式を上げたのは、オリヴィエ兄さんじゃなくて、ブリアック兄さんだったんだろうか。
もしあのとき、僕が、だれかが――兄さんを止めていられたら。
なにもかもが、空しい仮定になってしまうけれど。
「……じゃあ、よろしく」
そう言ってジゼルさんが立ち上がったから、とっさに僕は「待って」と言ってしまった。呼び止めてから、なにを言えばいいのかわからなくて「どうするんですか、これから」と尋ねた。
「……アウスリゼを出るわ。もう、こんなところ、こりごり」
「どこかにアテが?」
「ないわよ。この国で生まれ育ったんですもの。でもこんなキズモノ嫁き遅れ女が、生きて行けるわけがないわよ」
……現在、女性の社会進出が目覚ましい発展を遂げているのは、僕が生まれる前に戦争があったから。男性の数がすごく減って、女性が外で働く必要があったから。こうして平和になった今、昔ながらの家庭を守る女性という価値観もまた台頭している。いや、元々廃れてなんかなかったんだ。
まだ女余りって言われているらしいけれど。それでも、独身女性が生きて行くには、特殊な技能や資格が必要なんだろうと、想像はできた。ブリアック兄さんの声がふっと思い出される。
『あいつ、なんにもできないんだよなあ』
ぼやくように。まだ小学生だった頃の僕へ言った。そんなこと子どもに聞かせるなよって、ちょっと思うけど。でも、たしかにそんなグチ、僕ぐらいにしか言えなかったのかもしれない。
「……結婚したくないなら、そう言ってくれればよかったのに。死んで逃げるとか、無責任な男よね」
――僕は、ブリアック兄さんとジゼルさんが実際にどんな風に思い合っていたのか知らない。ジゼルさんと話したのはこれが初めてだから。
でも今僕の手には二人の名前の記された紙があって、僕は、手向けとなる言葉を知っている。
「結婚、するつもりでしたよ。兄さんは」
僕がそう言うと、ジゼルさんは、ちょっとだけこちらに顔を向けた。
「……言ってました。ジゼルさんは、家事も炊事も苦手で、あんまり賢くもないって」
「ひど!」
泣き笑いの声でジゼルさんは吹き出した。僕は続けて言う。
「だから、俺がもらってやらなきゃな、って」
競技場内が歓声に湧いた。たぶんマルラン氏が出てきたんだろう。指笛もどこかで聞こえる。僕は、ジゼルさんの震える背中を見ている。鼻をすすり上げる音がした。
「――ほーんと! 無責任な男!」
その声は、無理したみたいに明るかった。
ジゼルさんは「じゃあ、元気で」と振り返らずに歩き出した。僕はそれ以上、なにも言わなかった。
僕は彼女の顔をしっかり見たことがなくて、だから記憶し続けることは難しいかもしれないと思う。
でも、それでいいような気がした。ジゼルさんについての思い出は、きっと、ブリアック兄さんが持って行ったんだ。
きっと。