第21話 過去 passé
レヴィ氏がおどけるのは、僕の気持ちをなだめるためだって知ってる。そして僕の口をなめらかにして、話しやすくするんだ。わかっていたけれど、それに反抗してやろうって気持ちにはならなかった。ただ、シャクだなって思う気持ちが僕にないのがシャクだった。
「怖かったです」
僕はぼそりと答えた。ただ、手合わせしてほしいって、頼んだだけ。それだけだ。でも僕にはとても大きな意味があった。
だって、父さんはボーヴォワール家の現当主であると同時に、代々伝わるその剣術の師範でもあったから。ボーヴォワール流の教室の会長でもある。もし、ブリアック兄さんが、生きていたら――そのまま、父さんと同じ道をたどったはずだ。そのために本当に小さい頃から習っていて、すばらしい使い手だったんだから。
父さんに頼んで、その答えを待つ間、心臓が耳元でうるさいくらいに鳴っていた。汽車の発車音にかき消されないくらいに、大きく。
「でも……なにもしなかったら、なにも変わらないと思ったから……」
父さんと母さんは、僕に歩み寄ってくれた。僕を理解するために、わざわざ来てくれた。そのことをうれしいと感じる気持ちと、感謝とが僕にはある。なにか返せるとしたら行いによって。きっと、僕が剣術を真面目に学ぶこと自体が、両親への贈り物ではあったと思う。
わかってるよ、自分がなにを頼んだか。そして、両親はそれをどういう意味に捉えたか。今からじゃ遅いかな。ブリアック兄さんは赤ん坊のときすでに木製の剣をおもちゃにもらってたって。僕はもう十五になってしまった。
ブリアック兄さん。あなたが歩めなかった道、僕が行けると思う? 今からでも。僕でも、いい? 僕でも、兄さんが目指した場所にたどり着けるだろうか? この手で、兄さんの代わりになれるのだろうか。頼りない弟だけれど。
失望に至る可能性だってある。それでも今の僕には手を伸ばすしかない。つかめるか、どうか。手当たり次第、できることを、なんでも、何度でも。
レヴィ氏は僕の言葉に「そっか」と言った。そして釣り竿を少し引いてみて、恨めしそうに池の中を覗いた。
「変化するのって、すごく気力がいるのよね。体力だって。だから、テオフィルくんがそうやって、自分から行動するの、本当にすごいと思うわ」
なにもしてないけど。なにも変われてないけど。でも、レヴィ氏がそう言ってくれるのは、純粋にうれしかった。身動きも取れないでいるように思えた。同じ場所を、ずっとぐるぐるしている。
「あのねえ。釣りって、本当にいいのよ」
脈絡なくレヴィ氏が言った。ただ大きい池に向かっているだけの僕は、意味わかんないなと思った。椅子に座り直してレヴィ氏は言葉を続ける。
「なーんかね。なにもしたくないときってあるじゃない。変化って、すごく大変だから。なにもかもそっちに持ってかれちゃって、もう他になにもしたくないってなることもある。そんなときに来るの」
レヴィ氏にもそんなことがあるんだ、と僕は驚いた。なんでものらりくらりと、器用にこなしてしまいそうな印象がある。僕は釣り竿を握る彼の手を見た。左手の人差し指の、金の指輪が鈍く光った。
「――ここではね、釣り針垂らして、じっとしてるだけでいいのよ。なにもしなくていい。でもね、魚がかかってもかからなくても、釣りをしたっていう結果は残せる。最高じゃない?」
そんな理由かよ。でもすごく納得した。なにをする気力もないとき、ぼーっとここで座っているのも悪くないなと思った。かかってもかからなくてもいい。確かにね。
「レヴィ先生は、だれかに助けてもらおうって、考えないんですか」
瞬間的に口をついて出た言葉に、自分でも驚いた。なにか考えがあったわけではなくて。レヴィ氏も、驚いた顔で僕を見た。モンブランの栗みたいな彼の瞳と視線が合ったとき、僕は抱いていた疑問を口にした。
「きっと大事な指輪だって、言ってた。それ……結婚指輪じゃないなら、なんですか?」
唐突な質問だったかもしれない。それでも、聞きたかったんだ。レヴィ氏はなにかを背負っていて、きっとなにかを手放したんだと思う。僕が視線を外さずにいると、観念したようにレヴィ氏は笑った。
「もう。テオフィルくんってけっこう周囲の人のこと、細かく見てるんだから」
「そうでもないですよ。クラスのやつらとか、どうでもいいし」
「あらあ、僕はどうでもよくないってことかしら? 光栄だわあ」
池に向き直って、ちょっとしてから、レヴィ氏は言った。
「……僕ね、女性を死なせてしまったことがあるの」
驚いて、僕はその横顔を見た。いつものようにほほ笑んでいて、言葉の重みとは比例しない。もしかして、レヴィ氏も泣けないのかな、とそのとき思った。
「死なせてしまったって、どうして」
「患者さんだったのよ。一年くらい担当していた」
レヴィ氏は釣り針を引き寄せて、餌をつけ直してまた池へ垂らした。僕も真似した。並んで座っている沈黙の時間も、重苦しくはない。僕は、レヴィ氏がさんざん僕へ接してくれたのと同じように、回答をせかしたり、質問を重ねたりはしなかった。
「ある秋にね。好きだって告白されて。結婚してほしいって言われたの」
レヴィ氏はキリッとした顔で僕を見て「ほら、僕って美男子だから」と言った。無視した。傷のない瞳で、彼は言う。
「それってね、精神科分野では、ちょっとあることなのよ。気持ちが弱っている患者さんを、支える医師だからね。だから僕も深く考えなかったし、相談した先輩医師もそうした方が良いって言って、担当代わってもらったの」
池の中の魚影が、僕たちの釣り針をつつく。レヴィ氏が「来たっ!」と言って引いた。けど戻って来たのは針だけだった。
「――告白されたその場で、もちろん断ったし。それに、あなたは気持ちが揺らいでいるから、僕のことを好きになってしまっただけだ、と説明もした。担当を代わることも、それが必要なことも、ぜんぶ、手順通りに説明した」
餌をつけ直して、もう一度。こんなに長いセリフを、レヴィ氏から聞くのは初めてかもしれないな、と僕は思った。いつも、僕が聞いてもらってばかりだから。
「説明責任は、果たしたんだ」
それっきり、レヴィ氏はなにも言わなかった。僕はなんとなくだけれど、レヴィ氏が書いた論文を思い出していた。タイトルは『逆境体験における心的外傷性悲嘆とその回復へ向けて』だ。空で言える。
僕の釣り竿が深く引いた。驚いて取り落としそうになって、握り込む。レヴィ氏がうれしそうな声で「やった、おっきそうね!」と言う。僕は「これ、ちょっと、どうすればいいの?」とあわてて言った。
「――巻き取って! 釣り上げて! 僕が網ですくうから!」
「え、こう?」
「そうそう!」
大きかった。びっくりした。水面でバチャバチャしているのを、力負けしないようにどうにか引っ張り続ける。あっちも必死だ。どうにか釣ったところでレヴィ氏が即座に長い柄の網ですくった。僕は大きく息をついた。
「すごいわあ! 初釣りでしょ?」
「はい」
「それで、こんなに立派なの! すごいじゃない! 記念写真撮れるわよ、撮りましょうよ!」
僕は、まだ釣り上げた興奮が冷めやらぬまま、レヴィ氏に急かされて事務所へ向かった。店員はよっぽど暇だったのか、僕たちのことを大歓迎してくれた。本当に撮影機材があって、僕とレヴィ氏は撮影台に乗る。で、生きたまんまの魚を持っているのは大変だから、店員さんが慣れた手つきで魚を処理し、僕の手に持たせてくれる。え、魚を素手で持つの? 嫌だなあ、と思ってたら、レヴィ氏もいっしょに持ってくれた。頭の方。
「はい、じゃあこの印のところを見ていてください。露光は六分です」
最近の写真機って、たしか露光時間二分のもあるはずだけどな。さすがにそんな最新のやつは、流行っていない釣り堀にはないか。無理に笑顔は作らないで、じっと待ってた。店員さんが「はい、ではいきまーす!」と言って撮影する。
現像されたものは、郵送してくれるそうだ。求められてレヴィ氏が自分の住所を書いていた。僕は店員さんが引き取ってくれるまで、どうしていいかわからずに魚といっしょに立っていた。なんか、焼いて出してくれるんだって。僕はレヴィ氏とともに食堂へ移動した。さすがにお手洗いへ行って、しっかり手を洗った。レヴィ氏も。
「いい釣果ね! これは自慢できるわよ!」
「学校サボって来てるのに、自慢していいんですか?」
「あっ、それはそうね!」
からからとレヴィ氏は笑う。そんな姿を見ていると、彼がなにか心に抱えているとは思いにくい。でも、彼は指輪をしていて、それはきっと、さっき言っていた女性に関係するんだと思った。
温かい茶をもらってテーブルに着いていたら、それほど時間もかからずに魚が出てきた。ソノコが練習していたのを見ていたからわかるけど、これは『二枚におろした』状態だ。二人で食べやすくしてくれたんだと思う。しっかり焼けていた。
「じゃあ、いただきましょうかー」
互いにフォークで魚をつつく。白身から湯気が出て、塩気もちょうどよくて美味しかった。僕は、きっとレヴィ氏だったらここで聞かないと思ったけど、僕だから聞いた。食べながら「女の人、どうなったの」って。
どうして指輪につながるか、わかんなかったから。知りたいと思ったから。
レヴィ氏は「あんまり気持ちのいい話じゃないわよお?」と言った。そして「食べ終わってからね。帰りに話しましょ」と付け加える。僕はうなずいた。
べつにお腹が空いていたわけじゃないけど、わりとキレイに食べられた。美味しかったんだ。毎回釣れるわけじゃないだろうけど、また来たいなって思った。でも魚を持った手の匂いが気になって嗅ぐと、レヴィ氏が「いいことを教えましょう」と得意顔で言った。
「寮に戻ってから、歯磨き粉で手を洗ってみて」
「それで匂いが取れるの?」
「ええ、すっかり魚の匂いが取れるわ! 代わりに歯磨き粉の匂いが着くけど!」
「だめじゃん」
借りた道具を返して駐車場へ向かうと、入れ替わりに男性がひとり来た。会釈してくれたので僕たちも返して通り過ぎる。僕はレヴィ氏の外套を返して、助手席へクッションを抱いて乗り込んだ。レヴィ氏は自動車の前部分を平手で叩いた。
郊外にあった釣り堀だったので、市街地に戻るまでにそれなりに時間がある。レヴィ氏はいつもの鼻歌を歌わないで、ちょっとだけ考え深そうな沈黙を保っていた。そして、砂利道から舗装道へ出たときに口を開いた。
「さっきの、女性の話だけど。聞きたい?」
僕は「うん」って答えた。対向車線をすごい走行速度で走っていく自動車がいて、すれ違うときにレヴィ氏の自動車が揺れた。やっぱり買い替えた方がいいと思う。
「……担当を代わって。二週間くらいしてからかな。僕が出勤した朝にね。病院の上の方から、僕を呼ぶ声がしたんだ」
ちょっと、不穏な空気を感じた。本当は聞いちゃいけないことのような気がした。けれど、レヴィ氏は話そうとしてくれている。だから、僕は好奇心とかじゃなくて、いやそうかもしれないけど、ただ「うん」って聞いていた。
「立ち止まって。上を見て。屋上に、彼女がいた」
あ、これ聞いちゃまずいやつだった。
レヴィ氏は、長い時間沈黙した。僕もなにも言えなかった。それは、本当は触れちゃいけないことだったから。でもレヴィ氏は、ここまで話した義務感からか、最後まで述べてくれた。僕は、彼がたぶん、今も傷ついていると思った。
「――気がついたら、彼女は地面に横たわっていた。でもね、僕を呼んでいたんだ。すぐに駆け寄って。彼女は笑って」
冷静な声に聞こえた。こう話せるようになるまで、どれだけの時間がかかったんだろう。
「これ、もらってください、って、握っていた拳を開いた。そこには、指輪があった」
みんな、自分自身の傷を、抱えているんだと気づいた。
僕は、レヴィ氏の論文にあった症例を思い出す。
『症例一:二十代。男性。知人の死を直接目撃したことによる深い精神的動揺。また目撃した事柄に類する事柄・要素への激しい身体的拒否反応。思い出そうとしていない状況での強制的な記憶の揺り起こしがある。多くの場合手足の震えや冷や汗を伴い、嘔吐感を覚える。焦燥感や怒り、悲しみといった否定的な感情を表す。場合により恐慌状態に陥り、他者や周囲を認識できなくなる。』