第20話 釣魚 poisson de pêche
仕事始めの朝は、どこもまだ眠たそうに見えた。父さんと母さんが、グラス侯爵領へ戻る。僕は見送るために蒸気バスでルミエラ駅へ向かった。寮まで迎えに来るって、二人も、オリヴィエ兄さんも言ったんだけど、見送りに行くのを迎えに来るってなんだよって断った。いい加減、小学生みたいな扱いはやめてほしいよね。
父さんたちが呼んでくれた剣の講師は、アウスリゼで知らぬ人はいないっていうほどの人物で、競技としての剣技の公式指導者だった。本当は一線を退いたばっかりだったんだけど、たぶん孫とかを人質に取って頼んだんだと思う。まあ、それは冗談としても。
名前を聞いたときに僕でも「もう一度言って」って聞き返してしまったくらいには、有名人。しかも、僕個人が放課後に学校や寮から離れた場所へ行って、個人指導を受けるのは効率が悪いからって、なんだかエコール・デ・ラヴェニューの授業に教師として現れるらしい。どうせ雇うなら元を取ろうってことなのかな。それで足りない分は、補習って形で僕に着いてくれるってさ。ここまで職権乱用したら、いっそすがすがしいよね。
蒸気バスに乗り合わせた人たちは、みんな大きな荷物を抱えている人ばかりだ。きっとルミエラから蒸気機関車で国内各地のどこかへ行くんだろう。以前僕が四日もかけてマディア公爵領へ行ったときは、着の身着のままで行ったんだけどさ。今考えると、ほんと若気の至りってやつで恥ずかしくなる。
つり革に捕まって揺られながら、でも悪いことばかりじゃなかったはずだ、と僕は思い返そうとした。ソノコや、その友人のレアといっしょに過ごせたし、冬季キャンプで好きなファピー選手を間近に見られた。時間がたっぷりあったから、自分のこと、とりわけ進路について真剣に考えられた。レオンに会ったのもそこが初めてだった。
レオンには、謝れていない。返されたノートを、ごまかすように受け取っただけ。自分でもわかっているよ。ほんと、僕はガキみたいだ。
ルミエラ駅の円形交差点には、ひっきりなしに蒸気バスが出入りして、たくさんの人を吐き出して行った。僕も吐き出されたひとりとして、駅構内に入る見送り専用券を券売所で買った。そして、人々の波に飲み込まれていく。
グラス侯爵領へ向かう汽車のホームは通常六番だけれど、父さんと母さんが普通車に乗るわけにはいかないから、特別運行列車が出るんだ。だから四番ホーム。
背の低いソノコが人に流されそうになっていたのを見つけて、確保した。オリヴィエ兄さんはやっぱり朝早くから仕事で、来られなかったらしい。ホームに着いたら、両親の他に、なぜかレヴィ氏がいて、三人で立ち話をしていた。
「おはよーう、テオフィルくん」
「……なんでいるんですか」
「あらあ、いいじゃなーい。かわいい生徒の親御さんにあいさつするくらいー」
なんか煙に巻こうって気配を感じたんで、それ以上つっこまなかった。どうせ母さんあたりが、僕のことを心配してレヴィ氏と連絡を取ってたんだろ。わかるよそのくらい。
母さんは、今生の別れみたいな表情で僕を見た。父さんはいかめしい顔でなにかを考えていた。僕が「じゃあ、二人とも。気をつけて帰ってね」って言うと、そっくりな仕草でいっしょにうなずいた。やっぱ夫婦って似るんだね。
車両に乗り込んで行く二人へ、僕は他になにかかける言葉はあるかな、と思って、ふと僕は「父さん」って声をかけた。
「なんだ」
「まあまあ、剣技の授業、がんばろうと思うんだ」
深くうなずいて、父さんは「そうだな、それがいい」と言った。
「だからさ。――次、僕がグラス領に帰ったとき。手合わせしてよ」
父さんの目が見開かれた。母さんが、泣きそうな顔をした。
駅構内はいつでも音で満ちている。どこか行きの列車が発進するに当たって、駅員が誘導笛を吹いている。雑踏。話し声。こすれ合う金属音。蒸気が抜ける音。それらが通り過ぎていく中、父さんの声ははっきりと聞こえた。
「――ああ、わかった。毎週でも帰って来るといい」
母さんが深く深くうなずいた。
発進したら、あっという間に列車は小さくなって行った。完全に見えなくなったところで、レヴィ氏が「どう、三人でモンブランでも食べに行かない?」って聞いてきた。ソノコは一瞬「いいですね」と言ってから「……駐車場で、カミーユさんが待ってるんです。このあと予定もあって」と悔しそうにした。
「あらあ、残念。じゃあ、二人で行こうかー、テオくん」
「この前の店ですか? お決まりですね」
「えーっ、なにそれー。いいじゃないあの店。じゃあいいわよー、他のところ連れて行ってやるー!」
僕が同行するのは決定事項らしかった。まあいいけど。ソノコと駐車場の入口で別れて、僕はレヴィ氏のポンコツ自動車に乗り込んだ。そういや、これは二人乗りなんだけどな。ソノコはどうやって乗せる気だったんだ?
べつに、どこに行くんでもいいから、僕は行き先を尋ねなかった。どっかに買い物とか、モンブランじゃなくてパイを食べるだとか、そんなんだろうって思ってた。
「ねえ、テオくん、その上着じゃ寒くない?」
「べつに」
「寒いと思うのよねえ。僕の外套でよければ、後ろに積んでるのあるから、上にひっかけてよ」
「なんで」
郊外まで走って着いた場所を見て、その言葉の意味がわかった。ていうか、ルミエラにこんな場所があったなんて知らなかった。砂利道の入口には、大きな看板に『釣り堀』とだけ書かれていて、その背後には緑に囲まれた池が広がっている。意外すぎるだろ。
「釣りはいいわよー! まあ、僕はあんまり釣れないんだけどね!」
釣れないのになんで釣りをするんだろう。意味がわからない。けれどなんだか状況に流されたり押されたりして、僕は人生初の釣りをすることになった。だってさ、自動車に乗ってここまでやって来てしまったんだから、レヴィ氏に乗せてもらえなきゃ帰れないんだよ。
上着の上に外套を着るっていう、変な格好で釣り道具一式を借りる。なんだか、釣っても魚を持ち帰らなくてもいいらしい。そこで食べたり、堀に戻したり。釣れてしまったらどうしようと思ったからちょっとほっとした。
「ねえー、たのしいでしょー!」
並んで、堀へ釣り針を落とした直後にレヴィ氏が言った。なんでだよ。まだなにも起こってないだろ。僕がちょっと呆れて答えないでいると、レヴィ氏は「釣りはね、こうやって構えたら、もう釣ったも同然なのよ!」とよくわかんない持論を述べた。
堀の中は少し淀んでいて、魚影はあるけど、本当にかかるのか疑問だなって思った。僕たち以外の客の姿はない。そりゃ、週が始まった朝だからね。普通はこんなところで釣りなんかしてないよ。
でも、なんとなく、その状況がおもしろく感じてきた。僕もわりと乗せられやすいんだなって思った。釣れなくてもいいや。なんか、無心になれそうな気がする、この感じがいい。
「ねえ、テオくん」
レヴィ氏が釣る気満々の表情で堀の中をじっと見ながら、声をかけてきた。
「さっき駅でご両親を見送ったときのこと、どう感じた?」
「……べつに、普通ですよ」
「ほんとに?」
「普通です」
僕がそっけなく答えると、レヴィ氏は「うふふふふふ」と笑った。なんだよ、そのキモい笑い方。
「そうなんだー。じゃあ、もう少しだけ『普通』ってどんなんだったか、教えてくんない? テオくんの『普通』がどんなか、知りたい」
まるで告白みたいじゃんって思ったけど、口にはしなかったよ、もちろん。
隠すことでもないから、僕は、駅で聞いた音や、父さんとの短い会話のことを言おうとした。でも、それって『普通』なのかな。僕の感じたことってなんだろう。
僕が言葉に詰まっているのを、レヴィ氏は急かすわけでもなくて、ただ「うわっ、今ちょっと引いたのにー! おっしい!」と言った。ぜんぜんおしくないと思った。
「さっきね。お父さんに剣のことを頼んだとき。あの瞬間、どんな気持ちだった?」
しばらくしてから、レヴィ氏が言った。僕は、レヴィ氏を見た。彼は「やだー、恥ずかしい! 見つめないで!」とか言った。なんだよそのノリ。