第16話 打鍵 jouer
ラスタラン連峰の山影が朝日に染まって扇状地や平野を飾る。僕の故郷、アウスリゼの北東部にあるグラス侯爵領は、そんな自然に囲まれた土地だ。今僕がいる首都ルミエラから領都ディルゼーへは、蒸気機関車で約五日の道のりの場所だった。
確かに美しい場所なんだ。でも、僕にとっては自分の置かれた状況を思い出させる地でもある。地位も名誉もある評判の良い両親。それに大きすぎる手本である兄たち。小さなころはその重みを理解していなかった。でも今は違う。僕の姓がボーヴォワールであることを、窮屈に感じ始めている。僕がその名にふさわしいか、つい考えてしまう。
僕は僕のことが嫌いなんだと思う。これまで考えたこともなかったけれど。考えずに済んでいたのが不思議なくらい、今はそれを強烈に感じている。両親の期待を背負う自分。兄たちの足跡に追いつけない自分。そして、それでも自分を変えられない。それらが、きっと嫌なんだ。そのことに愛だとか劣等感だとか、難しい名前をつける必要なんかなくて、ただ、僕は僕が嫌い。それだけ。
明解なのに割り切れない気持ちでいるのにも理由があるんだろう。でもそれを追求する気力がなくてすべて宙ぶらりんだった。破れかぶれな気分で、それでいいやって思っている。
両親が来るのだと言う。庭師と剣の講師を派遣してくれって頼んだだけだと思ったのに、いったいオリヴィエ兄さんはなにを伝えたんだろう。どんなに急いでも週末になるけれど、それまでに僕は、何事もなかったふりの笑顔を思い出さなければならない。
表面を作るのは、わりと簡単だった。すぐに慣れた。日常に戻れた錯覚。なるべく教室でもそうするようにしていたら、あいさつをしてくるヤツが増えた。
「テオ、最近調子がいいのかい?」
レオンが探るような目で僕を見た。僕は笑顔で「そうかもね」と言った。
音楽の授業もあった。あの女性教師ではなく中年の男性教師になっていた。興味がなくて、どういう経緯なのかはだれにも尋ねなかった。彼は僕に目もくれなかったし、周囲がどう思っていようが、僕は僕のままだ。
以前約束したように、レヴィ氏の、この学校での実績作りのために毎日顔を合わせている。午後、ただあの部屋に行って、他愛のない話をしたりしなかったり、いっしょに時を過ごしているだけなんだけど。ときどきキリッとした顔で「心理相談していい?」って言われるから、そのときはちょっとだけ真面目に受け答えするくらいかな。
僕はオルガンを弾くようになった。レヴィ氏の鼻歌の曲とか、猫を踏んでしまった曲とか。あるとき、オルガンの椅子に座った僕へ、レヴィ氏が言った。
「好きなように弾いてみたら?」
部屋の中は静けさと、苦い茶の甘い香りで満ちていた。風が強くて、時々思い出したように窓を叩く。僕は「好きなようにって、どう?」と尋ねた。
「曲にならなくてもいいのよ。好きな鍵盤を押して、いいなと思う音を出してみればいいの。気分転換になるわよ」
そう言われて、僕はオルガンの鍵盤を見下ろした。窓がガタンと大きく鳴った。特別なにかを考えていたわけではないけれど、少しの時間沈黙が部屋に落ちて、僕は左手の人差し指で白い部分を押した。低いラだった。
何度か、同じところを押す。
指先が鍵盤へ触れるたびに、響く音が部屋に広がる。低いラの音が空間を揺らし、風が窓を叩く音と混ざり合った。その音の中で、僕の中のなにかが、少しずつ、解けていく。
左手で低いラを押し、右手でそれに続けた。ラ、#ソ、ラ、#ソ。重いけれど、ピアノとは違うどこか愛嬌のある音。レヴィ氏みたいだなって思った。
低いラの音は、初冬の夕に響く鐘のようだった。それが部屋の中を包み込み、次第に他の音が重なり合って、小さな世界を作り上げる。
なにか考えがあって弾いたわけではない。もちろんりっぱな曲になんかならない。それでも僕は不思議な気持ちで、僕によって鳴らされる鍵盤を見ていた。しばらくそうしていた。窓がガタガタと鳴って、それに合わせて押したりもした。強弱をつけて。抑揚をつけて。韻律をつけて。
なんとなく、コツをつかめた気がして、音楽みたいのを弾いてみようと思った。オルガンの楽譜なんか見たことがないし、ちゃんと弾けるのは二曲だけ。でもどの鍵盤がどの音を出すのかはわかるから。
名前のない曲を作った。もう二度と弾けないけれど。低く静かに始まって、単純な音の連なり。ときどき高い音を入れる。ゆっくりと。少しずつ大きく。またゆっくり。そして連弾。強く。強く。強く。音が部屋に広がり、風の音と混ざり合う。
手を離した。何拍かのち、もう一度鍵盤へ両手を添える。指でなぞった鍵盤は軽くて、力を入れなくても音を鳴らす。弱く。弱く。弱く。とても弱く。弱く。弱く。
そして、最後に強く、ひとつ。
終わり。弾いている間、僕はなにも考えていなかったように思う。ただ手が動いた。体が音を迎え入れて反応した。それが少し驚きで、なぜかほっとする。レヴィ氏が背後で拍手した。
「すごいわねえ。即興でこんな風に弾けるなんて。作曲の才能あるかもね?」
感心した口ぶりで、本当にそう思っていそうだった。レヴィ氏は「沸かし直すわ。もう一度お茶しましょう?」と言った。オルガンのふたを閉じて、ソファへ移動した。止まっていた風がまた突然窓を叩きつける。アルコールランプで沸き上がる湯が、こぽこぽと小さな音を立てた。
「きっとねえ、さっきの曲は、テオくんの心の中を表現したものじゃない?」
茶を淹れながらレヴィ氏が言う。僕はその横顔を見上げた。その表情は穏やかで、茶化すつもりで言っているわけじゃないと理解できた。
「――強い部分、弱い部分、穏やかな部分、そして急いている部分に悲しげな部分。テオくんの曲には、いろんな感情が詰まっている。喜びも、悲しみも、強さも弱さもね」
カップを差し出されて、僕は受け取った。甘い香りが鼻腔をくすぐる。口に含むと苦い味がする。
僕は自分がどんな音を作ったかを思い出す。ラ、#ソ、ラ、#ソ、それに両手で。また片手で。
「でも、そういういろいろな感情があるからこそ、人間らしくて素敵だと思うわ」
その言葉に、びっくりした。たくさんの鍵盤を押した。そのすべてが、ふさわしいと僕が感じた音だった。それが僕の感情の表現だとしたら、僕の中は本当に色づいた音にあふれている。
混乱していて、ちょっとよくわからなかったんだ。僕はどんなヤツか。ただ、僕は僕のことが嫌いだというどうしようもない気持ちの自覚だけが強くて、それがなぜかとか、どこがとか考えられもしなかった。
あの音すべてが僕なのだとしたら、僕は、僕のなにが嫌なんだろう。
強いところかな。弱いところかな。それとも、緩やかに消えていく#ファの音かな。
「明日も、オルガン弾いてもいい?」
気づいたら、そうレヴィ氏へ尋ねていた。レヴィ氏は茶を飲みながら「もちろんよお」と、のんびりと言った。
「自分で刻む音楽は、心をそのまま映し出すものだと思うわ。弾いて、どんな気持ちだったか少しでも振り返られるなら、それはすばらしいことよ」
レヴィ氏が医者っぽいことを言った。ときどきこうやって自己主張するんだ。そして、またいつもの鼻歌を歌った。
僕が嫌いな僕は、身勝手な思い込みについてかもしれない。あるいは、僕の中の弱さかもしれない。でも、鍵盤を押すたびに、その弱さがひとつの音になるなら、少しだけ自分を許せる気がしたんだ。
嫌いな僕は、どの音だろう。両親が来るまでに、僕はその音を受け入れられるだろうか。オルガンをじっとみつめ、僕が次に紡ぐ音はなにかを想像する。
レヴィ氏が鼻歌のまま、机の上の書類に向かう。僕の弾いた音が僕の心だとするならば、その歌はレヴィ氏の心を映し出しているんだろうか。独身であるはずの、彼の左手の人差し指に光る指輪が、たえず僕へなにかを訴えかけている。





