第15話 愛情 affection
おでこにひんやりとした心地よいなにかを感じて目を開いたとき、その感触が消えていくのも感じた。遠ざかる指に金色の指輪が光る。追いかけそうになって、寝ぼけていると気づいてやめた。僕は寮の自分の部屋のベッドへ横になっていて、傍らにはレヴィ氏がいる。
「起こしちゃったわね。気分はどう?」
深呼吸をして、一度目を閉じて、ゆっくりと起き上がる。そして座ったまま少しの間前傾姿勢でいた。制服じゃなくて、寝間着を穿いているのに気づいた。レヴィ氏はなにも言わなくて、僕もなにを言っていいかわからなくて、静かな時間がただ過ぎた。べつに嫌な気がするものではなかったから、いいんだけど。
僕は「だいじょうぶです」と言った。自分の声なのにちょっと遠くから聞こえたように感じる。
「ごめんね、寝てる間に着替えさせちゃったわよ。ズボンだけ。汚れていたから、洗いに出したわ」
「……ありがとうございます」
「どういたしまして! いちおう拭ったけど、手は洗ってちょうだいね」
「はい」
僕は立ち上がって部屋にある小さな洗面台へ行った。左手はまだクラヴァット・リボンを握っていて、僕はなにもなかったと自分へ言い聞かせながら手といっしょにそれも洗った。オリヴィエ兄さんがくれた、清潔な香りの高級石けんで。僕は無言で、レヴィ氏はやっぱりなにも言わなくて、握って搾ったリボンは頼りなく思えた。蛇口にかけて干そうとしたけれど、垂れ下がるそれを見て、どきりとしてやめる。……なにかを吊るすみたいで。文机の上に広げて置いておこうとタオルで手を拭ったら、手紙があるのを見つけた。
「緊急通信よ。さっき届いたの。ご両親から」
驚いて、僕はベッドに腰掛けたレヴィ氏を見る。手紙じゃなく、国有会社で運営している腕木通信での緊急連絡なんて、本当に火急の用事のときだけだ。僕がマディア公爵領にいたとき、内戦を停めるためにひんぱんに用いられていたことをよく知っている。なにかあったんだ。あわてて開封して内容を確認する。
『すぐにそちらへ向かう。心安らかに。』
……それだけだった。宛名は間違いなく僕で、本当にそれだけ。でも、状況から今の僕を心配しての文面なのはよくわかった。だから、振り向いてレヴィ氏を睨み「報せたんですか」と僕は聞いた。自分でも驚くくらい棘のある声だった。
「んーん、僕はなにも! お兄さんからなにか行ったんじゃないかしら」
「兄さんには? 今日のことを?」
「ぜんぜん! レオンくんに呼ばれてから、ずっとここにいたもの」
レヴィ氏はおどけた表情で右手の拳を心臓あたりに当て、誓いのしぐさをする。なに伝えたんだよ、オリヴィエ兄さん。たしかに、剣の講師を呼んでほしいとはお願いしたけれど。
少しうなだれて僕は首を振った。心臓がうるさく跳ねている。こんな、自分で自分が不安定だとわかる状態で親に会いたくなかった。弱い人間だと思われたくなかった。……ちゃんと笑顔を作れるか不安だった。
「――心配されているんでしょう? 親御さん」
とても優しい声だったから、僕はレヴィ氏の方を向けなかった。下を向いたまま「たぶん」とつぶやくと、レヴィ氏は「愛されているわね」と同じ声で言った。やけに現実感のない響きを持ってその言葉が迫ってくる。
「あなたは、とても多くの人に愛されているわよ、テオフィルくん。ご両親に、お兄さんに、ソノコちゃん。家族みんなから。それにレオンくん」
なんでレオンがそこに入るんだよ。僕は通信をノートに挟んで、文机に立てかけた。レヴィ氏は「もちろん僕もよお!」と言う。無視した。
こんな状況で、こんな状態の、僕が愛されているなんてあり得ない。
愛されてるってなんだよ。僕だって、ブリアック兄さんを愛していた。それとどう違うんだよ。
違うのか? だから僕は苦しいの? どうしたらいいんだ。意味がわからない。
僕は今朝のことを考えた。あまり考えない方がいいというのはわかる。でも考えてしまうんだ。数時間経った今、思い出せるのは棺の中のブリアック兄さんだけではない。ちゃんと笑顔の兄さんだって。――けれど、意識しないでいると、クラヴァットの緑があざやかに目の前に広がる。
今さら、自分のことを偽るつもりはない。レヴィ氏の論文の内容は、概要を空で言えるし、理解もした。僕は、傷ついている。
でも、泣けないんだ。オリヴィエ兄さんみたいに、ブリアック兄さんを思い出しても泣けないんだ。泣きたいはずなのに。僕も泣きたいはずなのに。まぶたの裏にはきっと僕にだって、ブリアック兄さんのための涙があるはずなのに。
母さんは少しの時間、部屋へひとりでこもって歌劇の円盤を蓄音機でかけた。父さんは半日、山登りへ行った。ちゃんとみんな、ブリアック兄さんのために泣いたんだ。僕だけがそれをできない。いまだに。出てもいない涙が枯れてしまったの?
愛されてるってなんだよ。愛ってなんだよ。よくわかんないよ。必要ないんじゃないか? だからわからないんじゃないか? じゃあなんで苦しいんだ? 僕はどうしたらいいんだ。
ブリアック兄さんを愛していないから、僕は泣けないんだろうか。
みんなはきっと、僕も泣いたと思っている。僕だけが出来損ないだ。悲しいはずなのに、悲しいって表現できない。愛してるって思い込みながら愛がわからない。バカみたいだ。きっと僕はどこか欠けている。だからよくわかんないんだろう。
僕は、あの家の中でひとりだ。僕だけが、泣くことさえできない。出来損ないだ。
「――みんな、心配しているのよ。あなたのことを」
レヴィ氏がもう一度、僕をじっとみつめて言った。僕は心が冷えて、小さな声で「出来損ないだから?」と言った。即座に茶化さない真面目な早口で「なんてことを言うの。だれもそんなこと思ってないわよ」と返って来た。そのとき僕は、レヴィ氏を見れなかった。
ふさわしい言葉も思いつかなくて、目を泳がせたら、本棚に置いた借りっぱなしの論文の本が目に入った。そろそろ返さなきゃと思う。なので、その場をごまかすみたいに「本、ありがとうございました。返します」と歩み寄り手を伸ばしたら、レヴィ氏が「あらあ、いやだ!」と言う。
「そんな重たい本、僕、持ち歩けないわあ。テオくんが部屋まで持ってきてよ」
それはさっきとは違ういつもの彼の声で、ほっとする。息が楽になった。一拍後に僕は「……自分が気色悪いこと言ってる自覚あります?」といつもの調子で返した。
「ひどーい! 年長者を労ってくれたっていいじゃない! じゃあお部屋で待ってるねー。ちなみに、今午前二授業が始まったばっかり」
今移動すれば、だれとも会わないって言いたいんだろう。レヴィ氏は、あのいつもの苦いお茶の甘い香りをかすかに残して、さっさと部屋を出て行ってしまった。
僕は盛大にため息をついて、もう一度ベッドに沈む。心は疲れ切っているのに体に眠気はまるでなくて、布団は僕の意識を持って行ってくれない。
洗った手から、清潔なオリヴィエ兄さんの匂いがする。要領のいい立ち回りを真似て来たつもりだけれど、外付けの香りくらいしか身につかなかった。背伸びしたところでまだ、あの丈の高さに届かない。――僕には、遠い。伸ばした手が、まだ届かない。
いつか、届くことがあるんだろうか。それは途方もなかった。
レヴィ氏の茶が飲みたいな、と思う。しばらくそのままぼーっとして、いろいろ考えて、でもなにもまとまらなかった。まぶたの裏にあの緑色がちらつくから、目を閉じるのが怖い。愛ってなんだろう。どうして泣けないんだろう。
――親が来る前に、この状況をどうにかしなければならないと思う。ため息の数ばかりが増えて行く。
起き上がって着替えてから、僕は分厚い本を手に取った。