第13話 形見 souvenir
たいした内容は話さなかったけれど、幼いころの思い出を話せたのはよかった。途中、オリヴィエ兄さんが感極まってメガネを外し、目頭を押さえる場面もあった。それも夜更け過ぎのこと。そろそろ寝ようと客間の前で別れ、温石の入ったぬくぬくとしたベッドに横たわった途端、僕はすぐに眠りについた。
いつもより少し遅めの朝、すっきりと目が覚めた。オリヴィエ兄さんもソノコもすでに起きていて、ふと体が重いと思えばアシモフが僕の上に乗っている。兄さんは僕の顔を見ると、少し照れくさそうに「おはよう」って言った。レテソルの公使館にいたときみたいだなって思いながら「おはよう」って返した。静かな休日だった。
本当はもう一泊する予定だったけれど、朝食を摂りながら「寮に戻るよ」と伝える。ソノコがびくっとして「えっ、えっ、なんでですか⁉ ミルク足りなかった⁉」とエリオじいさん印のミルク瓶を持ち上げる。僕は注がれるのを阻止しながら「せっかくの新婚水入らずだろ。二人の時間取りなよ」って言う。ソノコは真っ赤になったし、オリヴィエ兄さんはきらきらした涼し気な笑顔で「そうだな」と言った。
本当は植えたばっかりの庭木の冬囲いを手伝おうって思っていたんだ。やってみたかったんだ、やったことなかったから。それはオリヴィエ兄さんもソノコもいっしょで、やっぱり一度は本職の人にお願いしてやり方を教えてもらった方がいいねってことになった。でも外注業者さんを呼ぶよりは気心知れた人を呼ぶのがいいだろうって、ちょっと時間かかるけど、グラス侯爵領のボーヴォワール家から庭師を派遣してもらおうかってことになった。
「あっ、じゃあジョアキムさんってお願いできますかね?」
ソノコが思い出したように言ったら、オリヴィエ兄さんが足を組み替えて「ふん? それは誰かな。親しかった人?」と涼しい顔で尋ねた。
「お庭の手入れとか馬の管理とかされていたお若い方です。アシモフたんをかわいがってくれていて。すごくお世話になりました!」
「ふん? 彼は家庭を持っているの?」
「独身みたいです。彼女募集中だって言ってました!」
オリヴィエ兄さんの笑顔が深まった。ソノコが「ふおっ、視力が超回復する! サバンナに生きる!」といつも通り挙動不審だった。オリヴィエ兄さんはキレイな笑顔のままいけしゃあしゃあと言った。
「残念だな。たしかジョアキムはその腕を見込まれてマディア公爵のところへ派遣されたはずだ。十年くらいは向こうで元気にやっているだろうね」
「ええっ、そうなんですか⁉ そうかー、いい人ってやっぱ引っ張りだこなんですねえ」
僕はつっこまなかったよ。
「――ああ、兄さん。グラス領から人を呼ぶなら。お願いがあるんだけれど」
僕がつぶやくと、オリヴィエ兄さんは珍しいものを見るような目で僕を見た。そして「なんだ。なんでも言ってくれ」と早口で言った。
「講師を、派遣してもらってくれないかな。ボーヴォワール流儀の、剣の」
ソノコが息を呑んでむせた。オリヴィエ兄さんはその背をさすりながら黙って、数拍後に「わかった」と言った。
カミーユが出勤して来たときに、自動車で寮まで送ってもらった。ソノコから厳重に包まれたエリオじいさん印の小分けチーズを持たされる。なんでだよ。
寮の自室に戻ると、ひとりの時間がこんなに静かなんだと気づく。僕はチーズを机に置いてから、ベッドの下の大きな引き出しを開けた。そこには、グラス領から持って来た物が入っている。
練習用の細身剣。柄の部分はグラス侯爵領の土地色に合わせて、深い緑色。しばらくじっと眺めてから、僕はそれを両手で持ち上げた。ずっしりとした重み。
立ち上がって、鞘から出して僕は構えた。これを、ブリアック兄さんからもらったときみたいに。
でも、あのころより僕はずっと大きくなっていて、握るのがやっとだった柄をしっかりと握り込める。
ブリアック兄さんは、優しかったけど、こと剣に関しては厳しかった。兄さん自身が、父さんから厳しく教えられて来たのだと思う。ブリアック兄さん自身がこれを七歳のときにもらったんだって。持つことも一苦労だったけれど、大人扱いしてもらえたみたいでうれしかったって。だから、僕が七歳のときに譲ってくれた。僕もうれしかった。この剣で、僕もブリアック兄さんみたいなかっこいいボーヴォワール流の使い手になるんだって思ったし、兄さん自身も「俺みたいになれよ」って言ってくれた。
でも結局、僕はこれを使ってブリアック兄さんから学ぶ機会はなかったんだ。とても悲しいことだと思う。今になって悔やんだところで兄さんは帰って来ない。……両手で握っても重い。とても重い。
今から鍛えたら、ブリアック兄さんみたいな肩幅になるかな。僕の中には憧れと、やっぱり疑問が渦巻いていて、オリヴィエ兄さんと昨夜話したことだって、気持ちの整理にはまだ遠い。
ブリアック兄さんは、この剣で学んだことを、国への反逆へ用いたんだ。王太子殿下を支持するのではなく、マディア公爵を擁立するという道。
ただそうしただけならまだ赦されたのかもしれない。そうじゃなかったから。……そうじゃなかったから。
僕にとっては優しい兄さんだった。どんな理由があったっていうんだ。……そのことは、答えなんか出ないのかもしれない。
僕は臆病でずるいから、どうしても言えなかったし、聞けなかったんだ。昨日の夜、オリヴィエ兄さんへ。
ねえ、どうしてブリアック兄さんは、あんなことしたんだと思う? って。
それが、一番聞きたいことなのに。
――重い。とても、重い。
僕は、同じ道を行くことはない。どれだけブリアック兄さんを愛していても、なにが悪いかくらいの判別は着くから。だからあえて、形見となってしまったこの剣で学んで行こうと思ったんだ。
ずっとね。考えているよ。どうしてだよ、兄さん。ブリアック兄さん。僕は、兄さんみたいにならないよ。
剣を右手に持ち替えて、横にして捧げ持った。剣を振るう兄の後ろ姿をぼんやりと思い出しながら、ゆっくりとその動きを真似る。今の僕ならなにかできたかな。去年の今ごろ、僕はなにもできずにいたけれど。
動いてみると、少しずつ記憶の中のブリアック兄さんがこぼれて行ってしまうようだった。薄くなって、消えていく。泣きたくなった。オリヴィエ兄さんみたいに泣けなかった。
僕はブリアック兄さんとは違う道を行く。この剣で。
――それでいいよね、兄さん。僕は、兄さんとは違う道を歩んでいくよ。
僕の中の兄さんが、消えてしまったって。