第12話 対話 dialogue (あとがきに挿絵あり)
「テオくん。着いたわよ」
クッションを抱いていた腕の袖口を引っ張って言われた。どうやら眠りこけてしまったらしい。空回りさせている自動車の駆動音と振動が心地よくて、目を開けても少しの間ぼんやりしてしまった。レヴィ氏は急かすわけでもなくて、今は鼻歌を歌っていない。
「あのねえ、テオくん。お兄さんのこと、好き?」
その一言で、すっと眠気が引いた。レヴィ氏は前を向いていて、暗い中を照らしているガス燈の灯りあたりを見ていた。僕はちらりと、路駐された自動車の中から家の方を見る。玄関先に、オリヴィエ兄さんが立っていた。表情は見えなかった。
「――好きですよ」
修飾の必要がない言葉だったから、そのままを口にした。レヴィ氏は室内後写鏡の中から僕へ視線を送ってきた。それに僕は返したけど、ちょっとだけ笑顔の彼の次の言葉には、どう修飾しようか、って思った。
「どっちのお兄さんも?」
……だれかと話すことは、禁止だと思っていた。だからだれにも言えなかったし、聞けなかったし、話せなかった。レヴィ氏は悠々とその壁を越えて来て、僕にブリアック兄さんのことを語らせようとする。本当は飾らなくていいはずの言葉なのに、そうじゃない。僕は後写鏡の中のレヴィ氏も、玄関先で佇んでいるオリヴィエ兄さんも見れずに、ガス燈の灯りを見た。
「――はい」
嘘を述べることもできたけど、それは、飾ることではなく穢すことだと思ったんだ。だから聞き逃してもらえるような短い返事で済ませた。安全帯を外して、降車する。
「テオくん。――それを、お兄さんと話すといいわ。きっと……あなたと話したいと思っている」
僕が扉を閉めるときに、柔らかな笑顔のままレヴィ氏は言った。なにもかも見透かされているような気がした。僕は返事をしなかった。
気がついたらオリヴィエ兄さんが近くに来ていた。レヴィ氏は前照灯を点滅させてから発進した。暗闇の中に自動車の姿が消えて行ったあたりで、オリヴィエ兄さんが「家へ入ろう。もう、夜は冷えるから」と言った。僕はうなずく。
カミーユはもう帰宅したみたいだった。いちおう、この家に住み込みっていうわけではなくて、斜向かいのアパルトメントから通って来ているんだ。不便じゃないかな、と思ったけど、ソノコにとってもカミーユにとっても、それくらいの距離感がちょうどいいらしい。
居間へ行ったらソノコがなぜか緊張して挙動不審気味に「おっおかえりなさい!」と言った。そして台所へと走って行って、ちょっとしてから温めたミルクをふたつ持ってきて、居間のテーブルへ着いた僕と兄さんの前へ置く。ここ最近、ソノコは『エリオじいさん』っていう商標の乳製品にはまってるんだ。僕たちボーヴォワール家グラス侯爵の陪臣にあたる、エリオ子爵っていう牧畜家が生産しているんだけど。ミルクは日持ちしないからこまめに買いに行ってるっぽいのは知ってた。
「ああああああ、あの、あとは、お若い二人で!」
盛大に視線をあちこちにやって、なんかよくわかんないセリフを言って、ソノコはすごい速さで部屋を出ていった。階段を駆け上がって行く音が聞こえる。僕はあっけにとられた。兄さんよりソノコのが若くない?
オリヴィエ兄さんは、ここ二カ月近くでソノコの挙動不審言動には慣れたんだろう。高級茶を嗜むみたいにミルクを飲んでいた。僕は両手で器を持って、指先を温めた。
さっき、レヴィ氏に言われたことを僕の中で反芻する。どっちの兄さんも好きかってこと。そりゃあ、僕はそれに対して否定の言葉を出すことなんてできない。
オリヴィエ兄さんは「美味いな」とつぶやいた。僕も口に運んで「あったかいね」と言った。
オリヴィエ兄さんは、僕を溺愛してくれていると思う。昨年、内戦状態へ陥ったマディア公爵領に居た僕のところへ、公人でありながら理由をこじつけたり強行突破したりで迎えに来てくれたことは、強烈に記憶に残っている。腕木信号で、たくさん通信のやりとりもした。だから、オリヴィエ兄さんが僕を大切に思ってくれていることや、僕がそれをうれしく思うことは本当のことだった。
でも結局……オリヴィエ兄さんが来たことで、ブリアック兄さんの国家への離反が明らかになってしまった。……僕は、ブリアック兄さんに、会うことすらできなかった。ただ、すべてが終わったときに、終わったと告げられただけ。
あのとき、僕はなにもできなかった。僕の知らないところで、なにかがずっと動いているのは気づいていたし、置かれた状況下でちゃんと正確な情報を得ようと努力もしていた。オリヴィエ兄さんはなにも言わなかったけれど、ときどき、全権公使のミュラさんが、見かねたように僕の手の届くところへ書類を落としてくれていた。
僕は、なにもできなかった。でも、あのときブリアック兄さんに会えていたら、説得とかできたのかな。聞いてもらえなかったかな。どうかな。
いろいろ考える。でも、結果も結論もひとつだけ。
僕は、なにもできなかった。
ふっとミルクから目を上げたら、オリヴィエ兄さんが僕を見ていた。ブリアック兄さんと同じ、紫の瞳で。違うのはメガネをかけていることと、髪色くらい。昔から双子みたいだって言われていたって聞いた。
オリヴィエ兄さんはその、ブリアック兄さんそっくりな声で、でも違う抑揚でしゃべる。似ているのは見た目だけで、中身はまるで正反対な二人だったから。
長兄であるブリアック兄さんは、ボーヴォワール家を継ぐことが決まっていたから、伝統の剣術をしっかり学んで身に着けていた。もちろんオリヴィエ兄さんも僕も、型通り一辺倒なことはできる。でもそれだけなんだ。
ブリアック兄さんは、きっと剣術に関して言うなら、一流の人だったと思う。それで軍属になってからめきめきと出世して行ったし。でも、素行が悪くて打ち止めになったってことも聞いてる。たしかに、僕には言えないような遊びもしていたらしい気配はずっと感じていた。
「――なにを考えている? テオ」
僕はちょっと考えて、それから「さっき、レヴィ氏に言われたこと」と答えた。なにを言われたのか聞かれたから、そのまま「オリヴィエ兄さんと話すようにって言われた」って言った。肝心なところは、口にできない。
「なにについて?」
深堀りしてくるから、僕は逃げ場がなくなる。ミルクはまだ温かい。寝ぼけたアシモフが寝床で「ぉおう」と人間みたいな声をあげた。オリヴィエ兄さんは、息を詰めて僕の言葉を待っている。
「……僕が、オリヴィエ兄さんも、ブリアック兄さんも好きだってこと」
言ってしまったら、泣きたくなった。泣けなかった。
オリヴィエ兄さんは、ちょっと言葉を選ぶように息を呑んで、そして「私もだよ、テオ」と言った。
泣きたくなった。泣けなかった。
「愛しているよ。ブリアックを。……今でも。ずっと」
そのあと、少しずつ二人で話した。演説も講演会もずっとこなしているオリヴィエ兄さんなのに、まるで言葉を覚えたばかりの子どもみたいに、少しずつ。
僕は、どちらの兄さんにも似ていないと思う。でも、どちらの兄さんにもそっくりだとも思う。いつだって、すぐに思い出せる。兄さんたちとグラス侯爵領で過ごした小さいころのこと。胸がぎゅっとつかまれたみたいになる。
ブリアック兄さんには、怒られるようないたずらをたくさん教わって、たくさんいっしょに怒られた。
オリヴィエ兄さんには、怒られるようなことはしちゃいけないって教わって、たくさんいっしょに謝った。
どっちの兄さんも大好きなんだ。いなくなってほしくなかったんだ。二人とも僕の兄なんだ。いなくなってほしくなかった。
「――おまえを愛するように、愛しているよ。ブリアックを」
泣きたくなった。泣けなかった。
ミルクは、まだ冷めない。