第10話 兄弟 frères
「――逆境体験を経て生じる心的外傷性悲嘆は、通常の悲嘆過程とは異なり、感情的麻痺、無力感、そして深刻な自己価値の喪失を伴うことが多い。これらの症状は長期化する傾向にあり、患者の日常生活における機能を著しく損なう」
もう何度も読んで、わからない単語は調べて、把握した論文の序論は空で言えるようになってしまった。手元に置いておきたくて、この本がどこで買えるか調べてもみたけれど、普通の本屋さんでは入手できないみたいだ。欲しいから伝手を教えてなんてレヴィ氏へ言ったら、また「僕の研究室へ」とか言って来そうだし、まだしばらくは借りたままでいようと思う。私服で寮の個室のベッドへ横になり文字を目で追って、僕は自分が『悲嘆』しているのだろうか、とぼんやり考えた。
なんかすごく軽い性格の人だけれど、ちゃんと仕事はしているんだな、とレヴィ氏について少し見直している。僕が読み込んだ論文はひとつだけだったけれど、彼が書いたものは他に七つもあったよ。索引に名前が載っているくらいだ。ざっと全部読んではみた。なんか難しかった。
少しだけうとうとしていたら、夕方の鐘が鳴った。僕は起き上がって、一日分の着替えが入ったバッグへ本を押し込む。そして部屋を出て施錠。きっと寮の外に、迎えの自動車が来ている。
「テオくん!」
寮の敷地内の駐車場へ向かったら、ソノコの呼びかけが聞こえた。そちらを見たら、カミーユが運転する白い自動車の外ににこにこしたソノコとレヴィ氏がいる。レヴィ氏に手を振られたから頭を下げた。近づくとキリッとした顔になって「体調は?」と聞いてきた。
「まあ、まずまずです」
「そう。たのしんで来てね。しっかり気を休めて来るのよ」
「どうでしょうね。新婚の家とか、逆に気を遣いそう」
「あらあ、それもそうね!」
声を上げてレヴィ氏が笑った。ソノコは真っ赤になって「そんなこと、ありません!」と言ってそそくさと助手席へ乗り込んだ。そんなことってなんだ。レヴィ氏は僕を見るとちょっと目を細めて「テオフィルくん。お兄さんと会うの、緊張しちゃう?」とつぶやいた。僕は口をつぐんで彼の目を見返す。レヴィ氏の薄い笑顔は穏やかだった。
「――無理してなにか話そうとか、しなくていいから。自然体で、気楽に。気楽に!」
「……気楽って、どうすればいいんですか」
「あらあ、簡単よ! 僕を思い出して、真似すればいいの!」
自慢にもならなそうなことをレヴィ氏は得意顔で言った。僕は黙殺して後部座席へ乗り込んだ。
僕の学校の寮から、ソノコたちの家は片道三十分てところだった。夕方の喧騒と、帰宅の波に阻まれてもう少し時間がかかったと思う。オリヴィエ兄さんとソノコが結婚して住んでいる三角屋根の二階建ての一軒家。前はなかった、植えたばかりらしい庭木が紅葉している。キレイだ。
自動車を降りて玄関へと向かって歩いていると、一階の居間の窓に白くて大きいもふもふが張り付いて飛び跳ねているのが見えた。ソノコが飼っている犬のアシモフ。近づいて行くと窓から離れたから、きっと玄関へ回った。案の定、ソノコが解錠して扉を開けると僕へ飛びかかって来る。倒れないように脚をしっかり踏みしめて抱きとめた。
「二週間ぶり、アシモフ。元気だったか?」
僕の言葉がわかっているかのように、アシモフはばう、と返事をした。後ろ足で立ち上がると、もうソノコの背丈を越えてしまったんだ。だから僕がときどき来て、代わりに散歩へ行ったりしていた。さすがにこれ以上大きくはならないとは思うけれど、もう女性の力じゃ制御できないだろうな。きっといいもの食べさせて来たんだろう。
「散歩行ってきていい?」
「え、ありがとう。助かります……」
「うん。バッグだけ置いていく」
「夕食、できてるんで! いっぱいお腹すかせて来てください!」
はりきってたくさん作ったのかな。ソノコは嫁入りに当たって、実家から秘伝の調理法が書かれたノートを持ってきた。ひとつずつ作っては振る舞ってくれるんだけど、ときどき失敗する。僕は不味いって言葉を使わないで失敗していることを伝えるのが上手くなった。カミーユも似た感じ。
そわそわしたアシモフは自分で散歩用の袋をくわえて来た。賢くなったよなあ。アシモフといっしょにいるときは、自然と僕も笑顔になる。自覚してる。アシモフの首輪へ制御紐をつなぎ合わせる。
いつも行ってる大きな国立公園へ向かう。アシモフは僕の足並みに合わせながら、ときどき僕の顔を見上げる。路ですれ違った親子が「おっきーい!」と感嘆の声をあげて見て来て、ちょっとすまし顔をするのを見て笑ってしまった。
歩いていて、レヴィ氏がさっき僕へ言った言葉を思い出した。オリヴィエ兄さんと会うことに、緊張するかと。少しだけどきっとした。僕は、ブリアック兄さんの件で、どうしてもオリヴィエ兄さんに聞きたいことがある。
でも、オリヴィエ兄さんが結婚してからというもの、僕とはすれ違いばかりだ。仕事が忙しすぎて、学生の僕とじゃ活動時間のズレがあるんだ。それに少しほっとしている自分もいる。なぜなら、聞きたいことがあるのに、僕には聞く勇気がない。
レヴィ氏は、きっとそれを見透かしているんだろう。ちょっとだけシャクな気がして、でもなんとなくそれでいいやとも思う。
公園は、同じく散歩中の犬がけっこういた。アシモフと仲の良い黒い中型犬が飼い主を引きずりながら走り寄って来る。僕は頭を下げてあいさつをした。
制御紐を外していい区画で、アシモフと球遊び。投げて、取って来て。投げて、取って来て。無心になれる時間なんだけど、僕はずっと考えている。オリヴィエ兄さんと会ったら、なにを話そうか。
無理して話そうとするなってレヴィ氏は言った。でも実際顔を合わせたら、なにを言ったらいいのかな。ひさしぶり。元気? 仕事どうなの? たまには早く帰って来てあげて。当たり障りのない話題って、その程度だよね。
僕が本当にオリヴィエ兄さんと話したいのは、そんなことじゃないんだ。どうして平気な顔でいられるの? ブリアック兄さんのこと、わすれようとしてる? 二人の間になにがあったの? どうしてブリアック兄さんは、あんな、バカなことしたんだと思う? なにか知ってるの。僕の知らないこと。ねえ。
でもね、聞けないと思う。僕は、とても臆病だ。
風が冷たくなって来た。夕日もほとんど沈みかかって、残光が街を赤く染めている。僕はアシモフを呼び寄せて「帰ろう」と言った。おとなしく制御紐を着けられてくれた。
公園を出たところで、チョコレート色の自動車が慌てた様子で停まって、少し後退した。そして後部座席の扉が開いて、長い脚が出てくる。
「テオ」
オリヴィエ兄さんだった。どきっとした。ちょっと疲れた顔で、でも瞳と同じ紫のクラバットはキレイに結ばれていた。長い銀髪だって乱れなくひとつに結ってある。アシモフが飛びかかろうとしたので制御紐で抑えた。兄さんの完璧な仕事服に毛が着くだろ。
「おかえり。今日は早く帰って来れたんだね。仕事は?」
「おまえが泊まりに来ると聞いていたから。秘書に丸投げして来た」
「ウスターシュさんもたいへんだね」
僕がそう言うと、互いに沈黙した。僕たちって、これまでどうやって会話をしていたんだっけ。そう思っているのはオリヴィエ兄さんもいっしょなのかもしれない。戸惑った様子で、何拍か後に「乗れ。いっしょに帰ろう」と言った。
「いいよ。そんな高級車、アシモフを乗せて汚せないよ」
「だいじょうぶだ、ウスターシュが清掃する」
「秘書ってなんでもしなきゃいけないんだね」
またもう少し沈黙が落ちてから、僕は「いいよ、先に自動車で帰ってて。アシモフは歩きたいだろうし、ソノコも兄さんを待ってるから。たまには普通の時間に迎えさせてあげなよ」と言った。するとオリヴィエ兄さんは「じゃあ私もいっしょに歩こう」と言った。僕は少し驚いたけれど、オリヴィエ兄さんはややぎこちない笑みを浮かべ、アシモフを見下ろしてゆっくり手を差し伸べた。アシモフは、ひとまず兄さんの匂いを確認すると、安心したようにその手をぺろりと舐めた。
「なに言ってんのさ。護衛もなしに国の重鎮が公道歩き回らないでよ」
「平気だ、私だってアシモフの散歩くらいはする」
「あのさあ、自分有名人だってわかってる?」
僕はちょっと呆れてそう言った。でも言ったら聞かないオリヴィエ兄さんは、送りの自動車の運転手を説得して帰してしまった。ちょっとだけため息をついて、僕は従った。
「アシモフも、去年よりずいぶんと大きくなった」
「だよね。ソノコがたぶん、いい餌をあげ過ぎてる」
少しだけ笑ったけれど、僕たちはまたすぐに沈黙に戻った。気まずさが漂う中で、歩く音だけが響いている。でも、今だけはこの沈黙を受け入れてもいいのかもしれないと思った。僕には、オリヴィエ兄さんに聞きたいことがたくさんあるけれど、その重い質問の数々が喉の奥でつっかえて出てこない。歩いていると、兄さんが突然つぶやいた。
「テオ、お前がこんな風に犬の散歩をするとは思わなかったな。前は、散歩なんて退屈だと嫌がっていただろう?」
「うん、まあ、アシモフとなら退屈じゃないし……散歩って、意外と頭が空っぽになれていいよ」
「そうか……たしかにそうだな。私も最近、なにも考えずに済む時間が少なくなった」
兄さんの言葉に、少しだけほっとしたような、むずがゆいような気持ちになった。僕たちは互いになにも聞けず、なにも語れずにいる。でも、それでも一緒に歩いている今が、ただ静かに心地いい。
夕闇が迫る街を、オリヴィエ兄さんとアシモフと一緒に歩きながら、僕はただこの時間がずっと続けばいいと思った。今はまだ、心の奥にある問いをぶつける準備ができていないけれど。それでも、少しずつ近づけると……信じたいと思った。
逆境体験における心的外傷性悲嘆とその回復へ向けて
ジョズエ・レヴィ
アウスリゼ医科大学 病態病理学研究室
序論
逆境体験を経て生じる心的外傷性悲嘆は、通常の悲嘆過程とは異なり、感情的麻痺、無力感、そして深刻な自己価値の喪失を伴うことが多い。これらの症状は長期化する傾向にあり、患者の日常生活における機能を著しく損なう。本研究は、逆境体験により引き起こされた心的外傷性悲嘆の回復過程に焦点を当て、その機序を解明するとともに、臨床的な介入方法を提案する。
文献検証
心的外傷性悲嘆に関する先行研究では、主に心的外傷後外部刺激障害や抑うつ症状との関連が論じられている。中でも、感情の分離や、無力感の原因となる神経生理学的機構への理解が進展しているが、個々の患者における回復過程には明確な差異が見られる。本研究は、各患者の独自の感情的反応や回復に至る過程の違いを詳細に検討することで、より個別的な治療の必要性を示す。
方法
本研究では、異なる逆境体験を持つ成人四名の患者を対象とし、それぞれの治療進展を詳細に記録した。主な治療方法は、認知行動療法と、心的外傷に基づく介入法である。各支援計画では、患者の感情的反応や身体的反応、行動の変化を観察し、感情の再接続を目指した働きかけを実施した。
結果
回復過程には個別の特徴が見られたが、共通して観察されたのは『感情再接続』の重要性である。
(中略)
特に、複数の心的外傷を持つ患者Ⅱにおいては、初期段階での感情遮断が顕著であった。しかし、治療の進行に伴い、自己に対する理解を深め、感情を少しずつ表出することで最終的に回復に至った。この結果は、感情再接続が心的外傷性悲嘆の回復において中心的な役割を果たすことを示唆するものである。
考察
本研究を通じ、逆境体験からの回復には、患者が自らの感情に再びつながる能力が不可欠であることを示唆された。これは、感情の再接続がなされない場合、自己評価の低下や感情の麻痺が持続し、長期的な悲嘆反応が続く可能性を意味する。今後の治療法においては、患者が自身のペースで感情を再認識し表出できる支援を行うことが、重要な治療戦略となり得る。
結論
心的外傷性悲嘆からの回復は、単なる時間の経過ではなく、適切な治療介入が不可欠である。特に感情の再接続を支援することが、患者の内面的成長および日常生活への適応を促進する要因であると考えられる。本研究は、感情再接続の働きかけが実用的であることを示すものであり、今後の治療の指針となることを期待する。
謝辞
本研究の遂行にあたり、リゼット・フォーコネ先生およびルミエラ大学のパトリック・デキュジ先生から多くの助言を賜り、深く感謝申し上げる。また、ギー・マントゥー先生からいただいた先行研究に関する指摘も、本研究において非常に貴重であった。心より敬意と感謝を表する。