2-1.pietosamente~優しく、情をこめて~
カシャン、と何かが割れる音がして、理乃はまどろみから目覚めた。いつの間にかうたた寝していたらしい。
柔らかなベッドを軋ませて上体を起こす。借りた寝間着は大きく、胸元が大きく空いていた。いけない、と胸辺りを片手で掴み、素足でフローリングの床を踏んだ。
寝室には自分しかいない。縦張りのウッドタイルの壁。時を刻む丸い時計。一瞬、どこにいるのかわからなくなりそうだった。だがすぐに我に返る。
「……宇甘さんの部屋」
そう、昨日は貞樹のマンションに泊まったのだ。しかし何もなかった。危惧していたことは何一つ。
自失状態の理乃に、貞樹は紳士として振る舞った。あらかじめ沸かしていた風呂に入れてくれたり、着替えを貸してくれたり。バイオリンの様子も見てくれた。
ベッドも理乃に譲った貞樹は、リビングのソファで寝ると言っていたことを今、思い出す。最初は緊張して眠りにつけなかったのだが、三時頃からの記憶が曖昧だ。
(さっきの音、リビングから……?)
白いカーテンが窓を塞いでおり、外の様子はわからない。時計を見上げると時刻は午前五時を示していた。どうやら二時間ほど、うとうととしていたみたいだ。
寝ぼけた頭をはっきりさせるため、頬を叩く。それから恐る恐る寝室を出た。
リビングにはすでに明かりがついている。ダイニングキッチンの側で普段着の貞樹が床にうずくまっているのを見た理乃は、慌てて側に駆け寄った。
「う、宇甘さん、どうしたんですか?」
「……ああ、瀬良さん。なんでもありませんよ」
「でも、顔が真っ青です」
よく見ると、貞樹は左手首を右手で押さえている。気難しい顔も確かに青白い。周囲には薄いマグカップが割れた痕があり、落とした音が響いたのだと理乃は推測した。
「大丈夫、ですか……?」
「お見苦しいところを。朝になるとどうにも左手が痺れましてね。すぐ治まります」
「左手が、ですか? まさか、昨日ので怪我を」
「いえ、違います。自転車事故に遭いまして、昔。そのときからの後遺症です」
「あ……」
もしかして演奏家をやめた理由は、と口元に手をやる。貞樹が苦笑を漏らした。
「気になさらずとも、いつものことですから。それより裸足は危ない。今、掃除してしまいますのでソファに座っていて下さい」
「わ、わたしも何かお手伝いします」
「……それではお茶を入れてくれますか? カップも茶葉も、全て棚にありますので」
「はい、そのくらいなら」
理乃はマグカップの破片を踏まないように注意し、キッチンへと向かう。
棚に置かれていたカップ、茶葉などを準備して、ケトルで湯を沸かし始めた。その間にも貞樹は黙々と掃除を進めている。
理乃はお湯が噴きこぼれないように注意しながら、そっと貞樹の方を窺った。
群青色の普段着に、縛られておらず垂れ下がった髪の毛。愁いを帯びた顔からは今まで以上に大人の色気が感じられた。
(……わたしの馬鹿)
内心で自分を罵倒し、ティーポットに茶葉とお湯を突っ込む。貞樹に見惚れている場合ではない。昨夜の出来事を思い出せば自然と溜息が出る。
隆哉との関係のことも、姉のことも、貞樹は何も聞いてこなかった。それが慰めになった。もしかしたら、理乃がバイオリンを弾けない理由はそこにあるから、と気付いたからかもしれない。それでも口出ししてこなかった優しさに救われている。
(厳しいけど、優しい人……)
掃除用具を片付けた貞樹と、目が合った。不意に微笑まれる。稽古の時では見られない穏やかな顔に、なぜか頬が熱くなる。慌ててまた、空いた胸元部分を握った。
「その様子だとあまり眠れていないようですね。隈ができています」
「いえ、あの、少しは楽になりましたから、気持ちが……」
「お腹は空いていませんか?」
「空いてません」
言った瞬間、くう、とお腹が鳴った。思わず腹を押さえる理乃に、貞樹が笑いを深める。恥ずかしくて顔から火が出そうだ。昨夜は酷いことがあったというのに、夕飯を食べていないだけで空腹を覚えるなんて。
内心で嘆く理乃に、貞樹はそれでも柔らかな笑みを崩すことをしなかった。
「少し早いですが朝食にしましょう。お作りしますよ」
「でも……これ以上ご迷惑になるには」
「料理はリハビリを兼ねてやっているのです。一人で食べるのも寂しいですから、ぜひ」
「じゃ、じゃあ、お言葉に甘えて……」
「では場所を交代ですね。お茶を飲んで待っていて下さい。ああ、服も乾いてますから、今のうちに着替えてくるといい。バイオリンを置いている別室にあります。風呂場横の」
理乃は小さく頷き、ティーポットなどを持ってキッチンから出た。リビングのガラステーブルにカップ類を置いて、違う別の部屋へと移動する。
小さな部屋には、理乃のバイオリンと共に、鞄や簡単に畳まれた服が置かれてある。ぶかぶかの寝間着を脱ぎ、着替えを終えた。楽器置き場になっているのだろう、貞樹のものと思しきバイオリンもケースに入っている。
昨日から見ていないスマートフォンの電源をオンにした。連絡アプリを確認するのが怖くて、そのまま鞄に戻す。
(洗濯してから返した方がいいよね、これ……)
頭から隆哉のことを追い出し、床に置いた寝間着を見た。料理は得意ではないが、他の家事くらいはできる。
バイオリンは、無事だ。袋とケースに入れてあったため、雨に当たってもいない。荷物を抱えてまたリビングへと戻った。
貞樹がつけたのか、スピーカーからクラシックが流れていた。クリーグ作曲、ペール・ギュントの『朝』だ。曲の合間に、野菜などを切っている音が響いている。油の匂いも香ばしい。
手際よく調理を進めていた貞樹へ、遠慮がちに声をかけた。
「宇甘さん、パジャマ、洗濯してお返しします」
「お気になさらずともいいですよ。洗濯カゴに入れておいて下さい」
「せ、せめてそのくらいは……お世話になってばかりですし」
こちらを見た貞樹が、なぜか少し残念そうな面を作る。理乃はまばたきし、小首を傾げた。少しの間を置いて貞樹が首肯する。
「ではそうしていただきましょう。返すのはいつでも大丈夫です」
「はい、すぐにお返しします」
理乃は提案が受け入れられたことに胸を撫で下ろし、乾いた袋へパジャマを入れる。
「二、三品作るのでもう少しかかります。ゆっくり待っていて下さい」
「手はもう大丈夫ですか?」
「ええ。起きた時に軽い痺れが若干あるくらいですから。ソファへどうぞ。お茶が冷めますよ」
言われてこれまた遠慮がちに、コの字型になっているソファへと腰かけた。温かい紅茶を飲んで、流れる音楽に耳を傾ける。
リビングは、穏やかな空気に満ちていた。男性の部屋にいるという緊張はまだあるが、心がほぐされていく。
それでも昨日のことを思えば胸が苦しい。バイオリンを上手く弾けなかったこと、隆哉を置いていったこと。二つの事実が重くのしかかってくる。
(上江さんは何を言ってたんだろう……)
罵倒の類いだろうか、それとも莉茉の名前を叫んだのか。自分がここにいるのも含めて、わからない状況ばかりだ。
暗く落ちていく思考をすくい上げたのは、トースターの音だった。パンの匂いがリビングにまで広がってくる。
「お待たせしました。簡単なものですが、気に入って下さると嬉しいですね」
どこか上機嫌で、貞樹がリビングへと皿を持ってきた。テーブルに置かれた料理が湯気を立て、食べられるのを待っている。
「ジャーマンポテトにキャベツのザワークラウト、それとプレッツェルです。口に合えばいいのですが」
「凄い……ドイツ料理なんですね。どれも美味しそうです」
フォークを渡され、理乃はそっと受け取る。貞樹が間隔を開けてソファに座った。
「どうぞ、熱いうちに」
「はい。いただきます」
ほくほくのジャガイモを口に運んだ。塩味と甘さが絶妙で、炒めたソーセージの肉汁とあいまってとても、美味しい。つい、口元がほころびる。空腹にこの料理は衝撃過ぎた。
「味の方はいかがでしょう?」
「とっても美味しいです……こっちのキャベツも、パンも」
何もかも忘れ、笑みを浮かべる。どれも本当に美味だ。特にジャーマンポテトが気に入って、香ばしい炒め加減に食が進む。
「そちらの方がいいですよ」
「……?」
「笑顔の方がいい。あなたには笑った顔が似合う」
貞樹の言葉に理乃は思わずはっとし、緩んだ顔を引き締めようとした。だめだった。美味しい料理に温かいお茶、貞樹の微笑みが、難しい面を作ることを許してくれない。
「な、何かごめんなさい」
「何がでしょうか」
「その、気楽になってしまって……色々していただいて」
「そういう時もありがとう、ですよ」
「……ありがとう、ございます」
「どういたしまして」
ようやく聞けたお礼の言葉に、だろうか。貞樹はとても嬉しそうだ。
和やかに食事の時間は過ぎていく。無言でも重苦しい空気などどこにもなく、むしろ少しずつ英気が養われていく感じがした。今はこの時間を大切にしたいと理乃は、思う。