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1-7.furore~激情~

 器用に片眉を跳ね上げた隆哉(たかや)が、苦み走った表情でこちらを見ている。視線と小雨の冷たさに、理乃(りの)はその場に釘付けになった。


「俺からの連絡を無視するとはいい度胸だ」

「あ……」


 言われて初めて、スマートフォンの電源を落としていたことにはっとする。コンサートへ行った際に電源を切り、そのままにしていたのだ。


「ご、ごめんなさい、上江(かみえ)さん。わたし……」

「それしか言えないもんな、お前は。謝罪なんて聞き飽きてる」


 隆哉(たかや)が鼻で笑い、唇を歪めた。酔っているのだろうか、それとも何か用事があったのか。理乃(りの)の頭は真っ白になる。スマートフォンの確認、隆哉(たかや)からの呼び出し、無視。そんな単語が並んでは消え、考えることすらできない。


 困り果てて動けない理乃(りの)へ、隆哉(たかや)が大股で近付いてくる。強い力で腕を掴まれた。


「いいからお前の部屋に上げろ。待ちくたびれた」

「あの、わたし」


 明らかに不機嫌で、傲慢な態度。そんな様子の隆哉(たかや)に見下ろされ、理乃(りの)はただうろたえる。不意に、隆哉(たかや)の視線が紙袋へと注がれた。


「……バイオリン、だと?」


 しまった、と思った時には遅い。腕を掴んでくる力がより強くなり、痛みに顔が歪む。


「なんでお前がバイオリンを持ってる! 莉茉(りま)のことを忘れたのかっ」


 怒鳴られ、体が硬直した。口から何も出てこなかった。泣いちゃだめだ、とそればかり考えてしまい、ただ首を横に振った直後だ。


「やめなさい、みっともない」


 車の扉が開く音と、教室で聞いた鋼にも似た強い声音が背後からした。怖々と振り向く。車から降りた貞樹(さだき)が、これまで以上に厳しい眼差しでこちらを見つめていた。


「近所迷惑ですよ。それに、女性へ乱暴を働くのはよろしくない」

「……お前。確かコンクールの……宇甘(うかい)か」

「おや、覚えて下さっていたんですね、上江(かみえ)隆哉(たかや)さん。それより私の大事な生徒から離れてもらいましょうか」

「生徒? こいつが、お前の?」


 どこか愕然とした様子の隆哉(たかや)は、目を見開いて理乃(りの)貞樹(さだき)を交互に見る。しかしそれも一瞬だ。は、と嘲笑し、馬鹿にしきった笑い声を上げた。


「なんだお前、ガキどもの講師に成り下がったのか? 笑えるな」

「あなたには関係ないことです。それより彼女を放しなさい。痛がっているでしょう」

「黙れ。宇甘(うかい)、お前には関係ない話だ」

「いいえ、見過ごせません。彼女は物ではない」


 一歩も引き下がらない貞樹(さだき)に苛ついたのだろう。隆哉(たかや)理乃(りの)を突き飛ばすように振り払い、貞樹(さだき)の元へと歩いていく。


「か、上江(かみえ)さん、やめて」


 たたらを踏んだ理乃(りの)の制止も意味をなさない。車の後ろで二人が対峙する。


 長躯の二人はほぼ同じ背丈だ。思いきり苦々しい顔をした隆哉(たかや)と、冷めた(おもて)をしている貞樹(さだき)。二人の間、いや、理乃(りの)を含めた三人の間に緊張が流れる。


「俺があいつをどう扱おうが、お前の知ったことじゃないだろ」


 口火を切ったのは隆哉(たかや)だ。眼鏡を押し上げた貞樹(さだき)が、首を傾げた。


「何をそんなに怯えているんですか」

「なんだと?」

「私にはそう見えますので。子どもは果たしてどちらなんでしょう」


 貞樹(さだき)が不敵に笑う。隆哉(たかや)が刹那、寂しげな顔を作ったように理乃(りの)には見えた。


「何も知らないで……偉そうにしやがって」

「本当のことを言ったまでですよ。酔っ払って女性に絡むだなんて、大の大人が情けない」

「この……っ!」

上江(かみえ)さん、だめ!」


 激昂した隆哉(たかや)が拳を貞樹(さだき)へ振るう。理乃(りの)が叫ぶのと、貞樹(さだき)がそれを片手で受け止めるのは同時だった。手を握り、貞樹(さだき)がこれ見よがしに溜息をつく。


「今度は暴力ですか。やはり彼女をあなたに渡すわけにはいかないですね」

「お前、いい加減に……」

「酔っ払いに構っている暇はありません。車に戻って下さい……理乃(りの)


 貞樹(さだき)が誰のことを呼んだのか、理乃(りの)は一瞬わからなかった。隆哉(たかや)の拳をふり払う貞樹(さだき)が横目でこちらを見てくる。


理乃(りの)、大事なバイオリンが濡れてしまいますよ」

「あ……」


 理乃(りの)はためらった。酔った隆哉(たかや)を介抱するのは、いつも自分の役目だと思っていたから。けれど今日は、どうしてもそんな気分になれない。


 迷ったのち、逃げるように車へ乗った。隆哉(たかや)の顔をまともに見られない。莉茉(りま)のことを思い出しそうで、嫌だった。


 隆哉(たかや)を軽くいなした貞樹(さだき)が運転席に戻ってくる。バックミラーに映る隆哉(たかや)が、雨の中、呆然と理乃(りの)たちを見ているのがわかった。


「少し飛ばします」


 車は急速に走り出す。すっかり濡れた二人を乗せて。隆哉(たかや)が何かを叫んだ気がするが、水たまりの音でかき消される。


(置いて……いった……わたしが、上江(かみえ)さんを置いて……)


 角を曲がったところで、完全に隆哉(たかや)の姿は見えなくなった。独りにさせたという事実が急激に、現実味を帯びて理乃(りの)の胸を締めつける。雨に塗れた紙袋を抱き、体を震わせた。


「……怖かったでしょう」


 違う、と貞樹(さだき)の声に小さく頭を振る。自分の行動が信じられなかった。普段なら、何を言われても隆哉(たかや)の相手をしていただろう。罵詈を浴びせられても、皮肉な態度を取られても、独りぼっちの彼を見捨てられなかったから。


 けれど――


「わたし、わたし……」


 姉と比べられたくなかった。自分に莉茉(りま)を投影してほしくなかった。醜い自分が顔を覗かせたようで、情けなくて泣きそうになる。


 未だ死者を愛する隆哉(たかや)隆哉(たかや)に思慕の念を抱いている自分。歪んで爛れきった関係だ。歪な思いはしこりとなり、胸の奥に沈殿していく。全身が重く、目の前が暗い。雨に打たれた以上の寒気が、堪えきれないほどの震えを全身にもたらした。


上江(かみえ)君に、今まで暴力を振るわれたことはありますか」


 黙ってまた、首を横に振る。思い出してはならない一夜の関係――強引に押し倒された記憶が頭の片隅によぎったけれど、あれは事故のようなものだ。口にする気もない。


 二年前の夜、それ以上一線を越えないように細心の注意を払ってきた。隆哉(たかや)が強引に腕を掴んだりしてきたことはあるが、体を交えたのは一度だけ。殴られたりしたことはない。


「それならいい……いや、よくはありませんね。あなたと上江(かみえ)君がどのような関係性であれ、あのような態度をとられて怒りはわいてきませんか」

「怒り……」


 そんなもの、と唇が歪んだ気がした。姉の代わりになれない自分が、持ってはならない気がして。


「……あなたは優しすぎる」


 少し走ったところで車が止まった。貞樹(さだき)の声が、やけに大きく響いた。


「優しくなんて、ありません……馬鹿なだけです」


 雨粒が大きくなる。車のボディを叩く雨音につられ、理乃(りの)は自嘲気味に笑った。


 貞樹(さだき)は何も言わない。スマートフォンを取りだし、何か操作をしてからまた、車を走らせる。


宇甘(うかい)さん、もうこの辺で……」

「結構走ってしまいました。今から帰れば、バイオリンもあなたも雨に当たるでしょう。それに私は、彼のような人間にあなたを預けられない」

「違うんです。上江(かみえ)さんは、本当は」

「そのままでは風邪を引きますね。今から私の家に向かいます」


 理乃(りの)の言葉を遮り、貞樹(さだき)がなんてこともないように言った。


「……家?」

「体を温め、バイオリンの確認をしなければいけないでしょうから」


 ゆっくり、理乃(りの)はうつむかせていた顔を上げる。男性の家に上がるなんて真似は、隆哉(たかや)以外にしたことがない。しかし馬鹿でも鈍感でもわかる。女性が夜に男性の家へ向かうという意味合いが何を指すのかを。


「ご安心を。あなたに野蛮な真似をするほど飢えてはいません。信頼、とまではいかないまでも、せめて信用くらいはして下さい」


 いつもだったら警戒していた。拒絶もしていたはずだ。だが、疲れた。反論するのも身の危険を案ずることも考えられないくらいには。


 そんな心身に、貞樹(さだき)の言葉はとても優しく染み渡る。甘い誘惑だ。振り切ることができない自分は、きっと世界中の誰より間抜けだろう。


 何も答えない理乃(りの)の無言を肯定と取ったのか、貞樹(さだき)は容赦なく車のスピードを上げた。


 街灯も、店の明かりも、今の理乃(りの)には入ってこなかった。暗闇だけが、そこにある。

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