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1-4.scioltamente~流れるような~

 貞樹(さだき)もコートを脱ぎ、ネイビーのシャツを露わにしている。ボタンは白。ネクタイはしておらず、色合いは全体的に暗いが、爽やかな印象を感じさせる格好だ。


「あの……月謝と入会金をお支払いしようかと思うんですけど」

「そうでしたね。それではいただきます」


 理乃(りの)貞樹(さだき)に封筒を渡した。貞樹(さだき)は中を改めると、納得したかのようにスラックスから出した長財布へと紙幣を入れる。


「確かに受け取りました。瀬良(せら)さん、これからよろしくお願いします」

「こちらこそ……」

「さて。食事をしながらお話しましょうか。ここは私が奢りますので、好きなものを注文して下さい」

「え、でも」

「真似事と言っても瀬良(せら)さん、あなたは私の恋人です。このくらいは当然のことでしょう」

「わ、わかりました。ありがとうございます」


 水を飲む貞樹(さだき)の台詞に、理乃(りの)は顔が熱くなるのを感じた。思わず(おもて)を隠すようにメニュー表を掲げる。ピザセットやライスセットなどの文字列が頭に入ってこない。視界の隅で、貞樹(さだき)が苦笑を浮かべた気がする。


「おすすめはエビパスタですよ。私は今日、違うものを注文しますが」

「は、はい。ならエビのクリームパスタセットで」

「食後の飲み物はどうしますか」

「アイスコーヒーを……」


 飲み物を持ってきた店員へ貞樹(さだき)が注文してくれた。理乃(りの)は全身が熱く、置かれた冷たい烏龍茶を静かに飲むことしかできない。冷たいものを飲んでも、紅潮した頬はそのままだ。


 店員が去った。いつまでもメニュー表を持っていても仕方ない。頬の赤さがわからないようにと願いながら、手にしていたそれを横のスタンドにかける。貞樹(さだき)と目が合う。黒い切れ長の瞳がこちらを見ていた。視線はやはり、優しい。


「まずはお互いのことを知る方が先決ですね。私はミュンヘン音楽大学で、バイオリンとピアノを習っていました。日本に来て、音楽講師として働いていたのです」

「凄い……ミュンヘンの大学なんて。紹介がないと入れないと聞いてますし。あの、楽団に入ったり、演奏家として活躍はしてなかったんでしょうか?」

「ええ。私は教える方が性に合っているものですから。それに元々ドイツに住んでいたんです。両親ともに日本人ですが、音楽関係につてがありまして。大学もそのおかげで入ることができました」

「音楽のご一家、なんですね」


 理乃(りの)が言うと、貞樹(さだき)がより深く微笑む。貞樹(さだき)に関して調べてこなかった理乃(りの)を責める様子など、微塵も感じられなかった。


「一応両親も音楽家です。瀬良(せら)さんはどこか、大学を出てらっしゃいますか? それとも音楽は独学で?」

「札幌の音楽大学を卒業しました。姉とは違って才能なんてものはなかったですけど……」

「ああ、確か莉茉(りま)さんでしたね。お姉さんはご壮健でしょうか」


 何気ない一言に理乃(りの)は刹那、顔が強張るのを感じた。胸の疼きを堪え、目を伏せがちにぽつりと答える。


「亡くなりました……二年前に」

「……そうでしたか。嫌なことを思い出させたようで、申し訳ありません」

「いえ……」


 周囲の談笑で声がかき消された。少し重苦しい空気が降りる。


 莉茉(りま)の死因は、くも膜下(まっか)出血から来る脳梗塞(のうこうそく)だ。処置が間に合わず、あっという間の出来事だった。風邪で頭痛がする、と二日ほど寝込んでいたのだが、それがくも膜下(まっか)出血のサインだったことを誰もが見逃した。


 姉が死んだとき、家族でオーケストラを聴きに行っていた。自宅で倒れていた莉茉(りま)を発見したのは、先に帰ってきた理乃(りの)だ。泣きながら、うろたえながら救急車を呼んだが、もう手遅れだった。今でも鮮明に思い出せる姉の死に、涙が出そうになる。


 そんな理乃(りの)の顔を見てだろう、貞樹(さだき)が悼ましそうに瞳を細めた。


「お辛かったでしょう。もしかして、バイオリンをやめていたのはそのためですか?」

「……嘘をついてごめんなさい。実はそうなんです」

「あなたを責めてはいません。ですがなぜ、今になって再び楽器を手にしようと?」

「それは……」


 隆哉(たかや)のため、と理乃(りの)は言えなかった。姉の恋人、慕う相手のためだなんて不純な動機を知られたら、と怯えが先んずる。しばらく悩みあぐねたのち、なんとか笑みを作ってうつむかせていた顔を上げた。


「バイオリンと……バイオリンを弾くわたしを、好きになりたいからです」


 半分嘘で、半分は本音だ。昔持っていた情熱を取り戻したい、その気持ちは少しある。技量も何も考えず、ただ音に触れ、楽しく演奏をしていた頃の自分を取り戻したい。例え根幹に、隆哉(たかや)という存在がいたとしても。


 貞樹(さだき)は黙って理乃(りの)を見つめていたが、納得したのか軽く頷く。


「わかりました。お力になれると思います。ただし」

「ただし?」

「わたしのレッスンはハードです。覚悟して下さい」


 不敵に笑った貞樹(さだき)に、理乃(りの)は体を縮こませた。


「そ、それは、はい。ブランクもありますけど……頑張ります」

「まずは技術を思い出すことから、それと音楽を楽しむことからですね、瀬良(せら)さん。普段、音楽に触れていますか」

「あ、一応ですけど。家で聞いたりします。クラシックもそうですけど、友達にポップスが好きな子もいますし」

「生演奏はどうでしょう。オペラやコンサートには」

「この二年、生演奏は聴いていません……」


 ふむ、とどこか考えたように貞樹(さだき)が唸る。聴覚を研ぎ澄ませるにはやはり、楽器に慣れ親しむことと演奏を直に聴くのが一番だと理乃(りの)もわかってはいた。だが、コンサートを聴きに行った日に死んだ姉のことが、どうしても忘れられないのだ。


 今でもコンサートホールへ足を向ける気にはなれなかった。姉の死とコンサートはセットになって、トラウマのように根強く理乃(りの)の胸を締めつけている。


 二人、無言になったとき、丁度よく食事が運ばれてきた。貞樹(さだき)が不意に立ち上がった。


「少し失礼します。瀬良(せら)さん、先に食事をしていて下さい」


 首肯し、下に降りていく貞樹(さだき)の後ろ姿を理乃(りの)は見送る。緊張をほぐした瞬間、無意識に溜息が出た。目の前には温かそうなパスタと、新鮮な野菜のサラダがある。


 食事に手をつけるより先に、時間を確かめるため鞄からスマートフォンを取り出した。もう三十分以上が経過している。


(こんなに話してたんだ……)


 時間が気にならない相手というのは珍しい。いつもは隆哉(たかや)のことが気になって、飲み会の時もスマートフォンをちらちら見てしまう癖がついているのに。これも巧みに話を振ってくれる貞樹(さだき)のおかげだろうか。


(姉さんのことを話したのも珍しいかな)


 少しだけ心が軽くなっている。スマートフォンを片付けた。サラダを食べながら、自分のことを話すという事柄が、こんなにもすっきりするものだと初めて気付く。


 和風のドレッシングサラダを半分ほど食べた時、貞樹(さだき)が席に戻ってきた。


「お待たせしました。どうですか、料理の方は」

「はい。美味しいです」

「それは何より。では私もいただきましょうか」


 貞樹(さだき)の前にはキノコのアラビアータがある。丁寧な所作で食事をする貞樹(さだき)の姿に、理乃(りの)は印象を悪く感じない。二人で食事を進めていた時、不意に貞樹(さだき)が口を開いた。


瀬良(せら)さん。よろしければこのあと、コンサートを聴きに行きませんか」

「え……?」

「二時から公演のものがあるのです。A席を取ることができました。演目はバッハ、ベートーヴェン、ブラームスです。四時に終わるので、そののち教室に向かうというのは」


 貞樹(さだき)の唐突な提案に、返答しようとした唇が震える。声が上手く出せなくて、フォークを持っていた手すら止まってしまった。


「で、でもわたし……コンサートは」

「耳を鍛えるのも大事なリハビリですよ」


 滑り出した台詞に返答する貞樹(さだき)は、当然、という様子を崩さない。理乃(りの)の心臓が脈打つ。不安と、怖さで。姉の死を想起させる場所に向かうのは、とても恐ろしい。


「これもレッスンの一つです。授業だと思ってお付き合い願えませんか」

「レッスンの一つ……」


 淡々と言われてしまえば、上手い反論が思いつかなかった。


 エビのパスタを口に運び、鼓動を抑えようと必死になる。気付かぬうちに大分客が入ってきており、周囲の談話する声がかしましく聞こえた。


(怖い……でも、わたし、決めたはずだもの)


 ここを乗り越えられなければ、きっとバイオリンを弾くことだって難しいだろう。パスタを咀嚼(そしゃく)し、震えそうになる手を堪えて静かに深呼吸する。カーペットに倒れ伏した姉の姿、家族たちの泣き声、それらをなんとか頭の隅に追いやり、再び口を開いた。


「……ご一緒します」


 計らずとも、決意したような口ぶりになってしまったかもしれない。強めの口調に自分でも驚いた。貞樹(さだき)が少し目を見開いたのもわかる。しかし、貞樹(さだき)はすぐに口元を緩めた。


「よかった。S席ではありませんが、いい機会だと思いますよ」

「席の代金をお支払いしますね」

「レッスンの一環です。お気になさらずとも結構」

「でも……ここだって出してもらうのに」

「言ったはずですが? 恋人に対してこのくらいは当然だと」

「……ふり、ですよね?」


 理乃(りの)の疑問に、しかし貞樹(さだき)はなぜか答えず笑みを深め、食事の手を進めている。


(本当になんか……デートみたい……)


 内心で思ったことを打ち払うように、理乃(りの)もまた、食事を進める。不安や困惑が交ざった胸の高まりで、料理の味もほとんどわからない。

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