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【完結】歪みの旋律~わたしが愛を知るまでのレッスン~  作者: 実緒屋おみ@忌み子の姫は〜発売中
第七章:脱却のための旋律

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7-5.O lieb so lang du lieben kanns~おお、愛しうる限り愛せ~

 五月三日。自主公演当日。中島公園にあるコンサートホール・小ホールのリハーサル室に理乃(りの)はいた。


 午後の開場から、来場者がホワイエから退出するまでにかかる時間を三時間として計算すると、予想していた演目は短すぎる。


 貞樹(さだき)(しゅん)が相談したのち、今年に入り、曲目は生徒たちが演奏する『G線上のアリア』『パッヘルベルのカノン』に続き、バッハ作曲『ヴァイオリン協奏曲第二番 BWV・1042』となった。


 それだけではない。美智江(みちえ)葉留(はる)と共にベートーヴェンの『ヴァイオリンソナタ 第五番・春 Op.24 ヘ長調』を弾く。


 注目されるのは、やはり理乃(りの)貞樹(さだき)が演奏する『クロイツェル』だろう。アンコール用にシューベルトの『華麗なるロンド D八九五』、ピアノソロとしてピアノ編曲版、ワーグナーの『タンホイザー・序曲 S442』なども用意してある。


(緊張してきちゃった。落ち着いて、大丈夫)


 買ったドレスを纏ったまま、理乃(りの)は室内をうろうろと彷徨う。貞樹(さだき)は確認と激励のために、もう一つのリハーサル室に行ったきりだ。直前の日曜に一度、全体の通し稽古をしてあるが、本番になるとやはり話は別というものだろう。


瑤子(ようこ)たちのところに行ってみようかな……」


 客席の様子も気になる、と扉を振り返った直後、そこから貞樹(さだき)が現れた。


「待たせましたね、理乃(りの)

「あ。いえ、大丈夫です、貞樹(さだき)さん」


 貞樹(さだき)は黒のスーツにロイヤルブルーのネクタイ、同じ色のポケットチーフという服装だ。ネクタイとポケットチーフは貞樹(さだき)の誕生日に理乃(りの)が贈ったもので、鮮やかな色合いが爽やかな印象を与えている。


「客席の方を軽く見に行きました。(しゅん)のおかげでほぼ、満席です」

貞樹(さだき)さんのおかげだとも思いますよ? 貞樹(さだき)さん、凄い経験者ですし」


 貞樹(さだき)を見上げながら理乃(りの)は微笑む。彼の家で、様々なコンクールの動画や表彰状などを見て感嘆したことは記憶に新しい。教室のサイトにも新しく経歴を記入済みだ。


 一方、自分のものは昔、何個か獲得した国内のコンクール入賞経歴だけ。貞樹(さだき)葉留(はる)と比べると、やはり見劣りするだろう。


「私自身はほとんど思い出せないままなのですが、お客様が興味を持って下さるならば、それに越したことはないですね」

「はい、そう思います」


 貞樹(さだき)の笑みに、素直に頷く。


 彼の健忘症は治っていない。記憶は失われたままだが、ピアノの技量は確かだ。


「……理乃(りの)、座って話をしませんか」

「練習はしなくていいんですか?」

「時間はまだあります。ほんの少し、あなたと話したい」

「わかりました」


 二人並んで椅子に腰かける。ドレスの裾が引っかからないように、注意を払いながら。膝に置いた手に、貞樹(さだき)が両手を重ねてくる。


「あっという間でしたね、今日に至るまで」

「はい……いろんなことがあった気がしますけど、本当に……」

「今日のあなたは一段と美しい。化粧も、少し違いますね」

「そ、そんなこと……化粧は友達にやってもらったんです。その子のおかげです」

「ドレスも似合っていますよ。あなたの肌を観衆に見せるのは、多少妬けますが」

「わたしだって貞樹(さだき)さんのかっこいい姿、他の人に見せたくないです」


 照れながら呟けば、貞樹(さだき)は笑う。これ以上なく優しく、暖かい笑みだ。手が移動し、肩をそっと引き寄せられた。スーツに露出した二の腕が触れる。


「手の痺れが、消えました」

「本当ですか?」

「ええ。リハビリにはここ数ヶ月行っていなかったのですが……不思議ですね。あなたを抱きしめるたび手が自由になるのです。もう朝の痺れは感じません」


 理乃(りの)は顔が朱に染まるのを自覚した。貞樹(さだき)とはすでに何度も体を重ねている。毎回愛をささやかれ、法悦へ導かれていることを思いだして全身までもが熱くなった。恥ずかしさに縮こまりつつ、口角を微かにつり上げる。


「そ、それはよかった、です……」

「あなただからなのでしょうね、理乃(りの)。やはり私の女神(ミューズ)だ。なくした記憶は惜しいことをしましたが」

「……わたしが覚えてます。貞樹(さだき)さんと出会ったときのことも、私を勇気づけてくれたことも、全部」


 肩に頭を預け、目を閉じた。


 貞樹(さだき)からもらったもの――捧げられた愛、隆哉(たかや)との歪んだ関係を許容してくれた寛大さ。それらがなければ今もまた、冬の季節が続いていただろう。正しく自分を導き、春へと手を引き、本当の愛を教えてくれたのは紛れもなく彼だ。


 姉の影に怯えることも、もうない。自分の音色も取り戻せた。バイオリンを弾く自分を好きになれたことは、大きな成長と呼べるだろう。


 理乃(りの)の二の腕を抱き締めながら、貞樹(さだき)は小さく笑みを零した。


「そのときの……記憶があった頃の私と、今の私、どちらが好きですか? 理乃(りの)

「どっちもです。どっちも、えっと……あ、愛してます」

「よかった。私もあなたを愛していますよ」


 理乃(りの)の頭頂に唇を落とす貞樹(さだき)は、どこか安堵したような声を漏らす。


「これでも私は、なくした自分に嫉妬をしていましてね。二年前、あなたを見つけた記憶を早く取り戻したいと考えているのですよ」

「そうなんですか……?」

「自分に嫉妬しているのもおかしいかもしれませんが、あなたのことならなんでも知っておきたいので」


 強く、二の腕を掴まれた。抱き寄せられ、理乃(りの)は化粧がつかないようにスーツの胸板へと手を添える。貞樹(さだき)の言葉が胸を激しくときめかせた。


 激しい愛情を、彼は理乃(りの)にいつも捧げてくれる。執着的だと誰もが言うだろう。だが、それに確かな喜びを感じる自分がいた。


貞樹(さだき)さんのためのクロイツェル……わたし、絶対に上手く弾きます」

「そうですね。私もあなたに全てを捧げますよ、理乃(りの)。お客様には悪いですが」


 微笑み合う。情熱的な視線につられ、理乃(りの)は思わず口付けをしたくなったが、あいにくと口紅をつけている。代わりに化粧が落ちない程度、軽く頬を触れ合わせた。瞬間、体を強く抱き締められる。


理乃(りの)、あなたに愛を」


 甘い吐息が耳元にかかった。背中に手を回し、それに応えるように微笑み、首肯する。


 愛と幸せ、そして喜び。様々なものを噛み締めて理乃(りの)は静かに体を離す。貞樹(さだき)が講師の顔で頷く。


「それでは最後のリハーサルをしましょう。私たちの愛を音に変えるために」

「はい。よろしくお願いします、貞樹(さだき)さん」


 立ち上がり、それぞれバイオリンとピアノを弾く準備に取りかかった。


(わたしと貞樹(さだき)さんの音色を……皆に知ってもらえたら、いいな)


 バイオリンを構え、ピアノに合わせてリズムをとりつつ、理乃(りの)は心の底から願う。


 本番は、すぐそこまで迫っている。

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