6-6.Ohne Sorgen~憂いもなく~
年が、開けた。
今貞樹たちがいるのは、札幌で最も有名な神宮・北海道神社だ。貞樹の家から近いこともあり、初詣はそこに決めた。初詣も、年越しそばも、ドイツに住んでいた時にはおこなっていなかったので新鮮味がある。
それにしても、と貞樹は境内の隅を理乃と共に歩きつつ、周囲を見て苦笑を漏らした。
「なかなか人がいますね。休みの朝だというのに」
「元旦、外してもこれですから。一日の昨日はもっと凄かったんじゃないかな……」
今は朝の九時過ぎ。天候にも恵まれ、森林の隙間から差す日が眩しい。そこら中人だらけだ。人混みはあまり得意ではないが、恋人と一緒である事実が気分を和ませる。
緑のマフラーに首を埋めた理乃が、嬉しそうに笑った。
「出店の甘酒が美味しいんです。貞樹さんは甘酒、飲めますか?」
「多分飲めるかと。葉留に聞いたところでは、二年前からここにもお参りに来ていたそうなので。健忘症のせいで味も忘れていますが」
「記憶……早く戻るといいですね」
「そうですか? 私は、これからあなたと歩く道の方が大事だと思っていますよ」
微笑み返せば、彼女はほんのりと頬を朱に染め、頷く。
二十八日から理乃と幾度愛を紡いだことか。彼女は体を交えると少し幼い姿を見せてくれる。甘えたがりで、舌っ足らずの口調。本当に可愛らしくて夢中になってしまい、思い返すだけで顔が自然と緩んだ。
もちろん体だけが彼女の美点ではない。懸命に料理へ向かうひたむきさ、掃除を行う時の手際のよさ。数え切れないほどの美徳が理乃にはあり、すっかり心奪われていた。
「あ、貞樹さん、手水舎の作法は知ってますか?」
「一通り調べてきたので大丈夫ですよ。拝礼は二礼二拍手一礼、でしたね」
「そうです。お参りしてから出店に行きましょう」
人の列に並び、手と口を浄めてから神門をくぐる。貞樹も理乃も、賽銭を雪の積もった地面へと入れ、二礼二拍手してから目をつむった。神社は願いを頼むところではなく、日頃の感謝を述べるところだという。
(理乃と会えたことに。私がまだ演奏できていることに礼を申し上げます)
それだけを内心で述べ、頭を下げた。貞樹は別にカトリックでもなかったため、他の神を拝むことに抵抗感はない。
拝礼のあと、社務所でお守りを選んだ。理乃が健康守りを購入してくれる。貞樹は悩んだ末、水晶守りというものを買った。おみくじも引く。貞樹と理乃、共に中吉だ。
「ここのおみくじ、当たるって評判なんです。辛口ですけど」
「なるほど。健康は……ゆっくり療養せよ、ですか。休んでいるつもりなのですが」
「貞樹さんはずっと食事とか作ってくれてますし。もっとわたしが頑張らなくちゃ」
「脳のリハビリにもいいのでお気になさらず。食べているあなたが可愛いので作る甲斐があります」
「だ、だって貞樹さんの手料理、美味しいんですもん……太っちゃいます」
「もう少し太っても問題ないと思いますが?」
「服が入らなくなりますし……お肉ついちゃうと落ちないからだめなんです」
「では甘酒はやめておきましょうか?」
「そ、それは別ですっ」
必死の形相に貞樹は小さく笑った。甘酒一杯程度なら肥える心配はないだろう。
おみくじを財布に入れ、二人で再び神門から出る。人通りは出店が並ぶ場所だと一際酷い。幸い、目当ての店は奥まったところではなく手水舎近くの通りにあるため、そこまで混雑はしていなかったが。
甘酒の代金を払う前に、理乃が小銭を先に用意していた。紙コップに入った甘酒、その片方を彼女から手渡される。
「熱いから気をつけて下さいね」
「ありがとうございます、理乃。いただきます」
端っこの方に寄って甘酒を口にした。粒が大きくなく飲みやすい。甘さも程よく、貞樹の口に合う。体内から暖められて少し暑いくらいだ。
「これからどうしますか? 家に帰って朝食をとってしまいましょうか」
「うぅん……」
甘酒を飲みつつ、理乃は悩んでいる素振りを見せた。
ドイツでは基本朝食を二回取る。朝は冷たいものでさっと済ませたのち、二度目は十時頃に職場や学校などで。その習慣が日本ではないことが入院中にわかったため、今は普通に一回で済ませているが。
紙コップを備え付けのゴミ袋に入れた理乃は、控えめに口を開く。
「迷惑じゃなければ、わたし、教室で貞樹さんのピアノを聴きたいです。明日は夕方に帰っちゃいますし……」
「構いませんよ。練習もしていなかったことですし、二人で弾きましょうか」
「いいですか? 嬉しいです」
微笑む理乃の手をとり貞樹は首肯した。二十九日に一度、彼女と教室で伴奏している。大分理乃の演奏は柔らかくなった。悲しみだけではなく、様々な情感を音に乗せることができ始めている。
技巧が正確というのも彼女の強みの一つだ。感情を表すのももちろんのこと、表現があってこその技巧である。両者のバランス感覚が理乃はいい。
「クロイツェルの練習もしないと、ですね」
「ええ。自主公演まで今月を入れて五ヶ月ですから。本腰を入れて行いましょう」
やる気を見せる理乃と共に、混雑する神社を後にした。少し長い距離を歩き、地下鉄で教室直近の駅に降り立つ。外の風は弱く、甘酒を飲んだためか寒くはない。
教室についた。シャッターと扉を開けて中に入る。室内は冷え冷えとしていた。
理乃に手伝ってもらい、二人で教室の準備を行う。電気と加湿器、暖房などをつけて室内の気温と湿度を調節した。部屋が暖まるまで時間があったため、理乃と共に楽譜を読み、協調やリズムをなぜこのようにしてあるのか紐解いていく。
「クロイツェルは以前にも言ったと思いますが、ダイナミックであり懐が深い、まさに帝王と女王のための曲です。情熱的な部分、ロマンティックな部分が複合しています」
「まだわたしには……情熱的なものが足りていない、かも」
「この間聞かせてもらった時は、以前より遙かに感情を乗せることができていましたよ。ただ、焦る部分がまだありますね」
小さく理乃は頷いた。しかしそこに、以前のような臆病さは見受けられない。真剣に譜面を読む彼女には、若干自信がついてきているように貞樹の目に映る。
「それでは練習を始めましょうか」
「あ、その前に、貞樹さんのピアノソロが聴きたいです」
「おや? 上江君のピアノではなくていいのですか?」
「もう……意地悪です。確かに上江さんのピアノも好きですけど、今は、その……」
「その?」
「……貞樹さんのピアノが、一番好きです。甘くて、正確で。でも大胆で」
「嬉しいですね。それでは一曲披露しましょう。大事な私の恋人のために」
頬を赤くする理乃の前でコートを脱いだ。何も言わずに彼女はそれを受け取ってくれる。礼を述べ、楽譜が置かれている部屋へと足を運んだ。理乃といると不思議なことに手の痺れをほとんど感じない。温もりのおかげか、それとも別の要因があるのだろうか。
考えることを一旦やめ、年始めということ、理乃に捧げる曲としてふさわしい曲はないかと悩む。
「……ふむ」
少し考えたのち、チャイコフスキー作曲、四季より『ひばりの歌』をチョイスした。これはロシアの一年の風月を曲に落とし込んだ一曲で、優しい音遣いが特徴的な曲目だ。
楽譜を持って部屋から出る。理乃もまたコートを椅子に置き、アップライトピアノの前に立って目を輝かせていた。
「チャイコフスキーは好きですか?」
「好きです。序曲『一八一二年』とか。『ナタ・ワルツ』とか……」
「それはよかった。今回は『ひばりの歌』にしました。座って下さって構いませんよ」
「はい。楽しみ……」
近くの椅子に理乃が腰かけたのを見計らい、譜面をセットする。何回か鍵盤に指を乗せ、音をとったあとに滑らかに演奏を始めた。
教室にピアノの音が響く。思いを込めて弾く。虚空の中、羽ばたくひばりをイメージして。三月の空に啼くひばりの儚さ、同時に力強さを音に乗せる。
指は動いてくれた。自由に、痛みも痺れもなく。愛しい女性に贈る曲だと思えば胸も弾んだ。切なく、それでいて優美に。愛らしさも込めて二分少しの間、演奏に集中する。
最後、優しく鍵盤を叩いた。余韻を残して天を仰ぐ。控えめな拍手が聞こえてそちらを見れば、理乃は陶酔した表情を浮かべていた。
「とっても素敵な演奏でした、貞樹さん……やっぱり上手」
「あなたが喜んでくれるのなら、いくらでも曲を弾きますよ、理乃」
微笑み合う。ふんわりとした理乃の笑みは紅潮しており、やはり可愛らしく見えた。
それから何曲かピアノを弾いたのち、クロイツェルの練習へと入る。
貞樹は今、心から幸せだった。記憶などなくとも、生きている喜びを理乃とピアノが与えてくれる。それが本当に嬉しくて堪らない。




