6-2.Perche dolce, caro bene~優しい愛しい女よ~
貞樹は隆哉に教室近くの薬局まで送ってもらった。別れ際までほとんど無言だったが、気にしない。仲良しごっこをする間柄ではないのだから。「理乃によろしく」と車を降りる時に言われ、適当に相槌を打つ。
珍しく晴れている空の下、それでも風は冷たい。トレンチコートの前を掴みながら教室まで歩く。教室の外から葉留や美智江、他生徒の姿が確認できた。まだ理乃は来ていないようだ。
「あ、さだだ。お帰りー」
「宇甘先生、お帰りなさいっ」
中に入ると、笑顔で出迎えられた。生徒たちにすぐ囲まれてしまう。
「体、大丈夫ですかぁ?」
「心配しました! でも無事でよかった」
「ありがとうございます、皆さん。心配をおかけしたようで」
無表情のまま謝辞を述べた。退院したのちにレッスン中の動画を葉留からもらい、生徒の名前と顔を一致させてある。記憶障害のことは他には話したくない。
「葉留、俊も来るそうですが」
「神津さんは会議終えてからだってさ」
葉留の返答に頷いた。俊にも生徒に記憶障害のことを話さない、ということは通達済みだ。上手くごまかしてくれるだろう。
「宇甘先生っ、今日くらいは差し入れ、食べてくれますよね?」
「永納さん、お気持ちはありがたいのですが」
「瀬良さんにも連絡して、皆で出し合ってケーキを買ったんです。それなら、ね?」
生徒たちの視線が痛い。しかし理乃も金銭を出したというのなら、断ることは難しいだろう。
「……わかりました。受け取ります」
「やったぁ。じゃあ早速、お祝いしましょっ」
美智江の声に合わせてはしゃぐ生徒たちは皆、顔が生き生きとしている。
すでに紙皿などが用意されたテーブルはそれぞれくっつけられ、椅子も並んでいた。葉留が肩をすくめ、給湯室に向かう。すぐに戻ってきた彼女の手には、少し大きいサイズの箱がある。
「そんじゃ、開封しますよっと」
箱が開けられ、中からホールのショートケーキが出てきた。白いチョコプレートには「快復おめでとうございます」と文字が書かれている。
拍手され、また喜びの声をかけられた。葉留に勧められて貞樹は椅子に座る。すぐ右隣に美智江が腰かけ、それを合図に、他の生徒たちも我先にとばかり椅子を取り合っていた。
「宇甘先生、退院おめでとうございますっ」
「おめでとうございますー!」
「……どうも」
眼鏡を押し上げ、こっそり溜息をつく。どうにも賑やかすぎるのは趣味ではない。だが、祝ってくれる厚意を無下にもできず、葉留がケーキを切る姿を静かに見守る。
「もう始まっていたか」
「こんにちは……」
紙皿へ葉留がケーキを分けていた時、教室に理乃と俊が入ってきた。理乃はともかく、男性――しかも整った顔をした人物の登場に、黄色い歓声が上がる。
「わー、カッコいい! 宇甘先生のお知り合いですか?」
「瀬良さんの友人、じゃなさそうね?」
「待っていましたよ。彼は神津俊。私の音楽仲間です。二人とも、どうぞ座って下さい」
「ああ。宇甘、これは快気祝いのスティックラスクだ。よければ食べてくれ」
「お菓子だらけだー。幸せすぎるっ」
「池井戸先生、何かお手伝いすること、ありますか?」
「あ、じゃあ紅茶入れてもらえる? ごめんねー、来たばっかりなのに」
「いえ、大丈夫です。給湯室、お借りしますね」
言って、理乃はベージュのコートを脱いだ。その姿を貞樹はじっと見つめる。視線が合わない。彼女はこちらを見ない。まるで、敢えて顔を合わせまいとするように。
コートを隅に置いた理乃は、そそくさと教室の奥へ向かってしまう。
「オレも手伝ってくる。この人数だと彼女一人にやらせるのは大変そうだ」
「いえ、それなら私が」
「主役は大人しく座っていろ」
俊の言葉に、貞樹は渋々浮いた腰を元に戻した。
理乃と俊は何かを話しながら、給湯室へと入っていく。友人と思い人の組み合わせ。知らない間柄ではないというのに、嫌な胸焼けがする。
いただきますと小声で呟き、チョコプレートが載ったケーキをつついた。一口食べるも、味がよくわからない。高級ということは確かだろう。しかし理乃と俊のことが気になって味わうことなんてできやしなかった。
(俊のことだ。理乃に手を出すはずはないと思うが……)
どのくらい彼が誠実かわからない。覚えていない。馬に蹴られたくはない、と笑っていたが、問題は理乃の方だ。なぜ彼女は、自分と顔を合わせようとしないのだろう。
(……昨日怯えさせたからか。少しやり過ぎたかもしれない)
飛び交う黄色い声へ適当な返事をしながら、昨日のことを悔いた。それでも抑えきれない愛情、そして欲情が今も溢れてやまない。
「宇甘先生、来年開けからまたレッスンするんですよね?」
「……ええ。その予定です」
「また宇甘先生と弾きたいですっ、バイオリン」
「えー、永納さんずるい! いつ弾いたのよ、先生とっ」
生徒たちのかしましい声を聞くたび、溜息をつきそうになる。はしゃぐ姿は理乃だけのを見たい。いや、全てが見たい。彼女のあられない姿も含めて、全部。
「紅茶、できました」
貞樹がまた不埒な考えを頭の隅に追いやった直後、背後から理乃の声が届いた。俊と理乃は互いにトレーを持ち、皆に茶を配っていく。
二人は最後に自分の席へ座り、茶を飲みつつ何かを談笑し始めた。貞樹はむっとするも、嫉妬心をどうにか出さないよう努める。
結局、快気祝いが終わるまで、貞樹は理乃と一度も顔を合わせなかった。
夜になり、教室から生徒たちが帰ったあと。美智江は最後まで残る、と駄々をこねていたが、葉留にいなされ肩を落としながら教室を去っていった。テーブルの上は紙皿や包装紙などで大分汚れてしまっている。
残ったのは自分と葉留、そして理乃と俊の四人だ。
「はー、食べた食べた。さて、片付けしましょっか」
「わたし、紙コップ捨ててきますね」
「ありがと、瀬良さん。神津さんは帰っていいんですよ?」
「その前に少し、ピアノを弾いても構わないか? 先程から気になっていてな」
俊がこちらを見て聞くものだから、貞樹は軽く首肯した。確か楽譜はベートーヴェンの『月光』に変えてあったはずだ。俊が早速椅子に腰かけ、鍵盤に手を置いた。
ピアノの柔らかく、どこか温かみのある旋律が流れる。その技術は巧みだ。葉留はすっかりピアノへ夢中になっているため、必然的に片付けは自分と理乃が担当することになる。
ゴミ袋に紙皿や紙コップ、包装紙などを入れた理乃が、給湯室へと向かった。貞樹は葉留と俊の様子を尻目に、理乃の後を追う。
彼女が部屋に入るのと同時に体を滑り込ませ、給湯室の扉を閉めた。理乃が肩を跳ね上げ顔を背けるのを見て、意地悪く笑う。
「なぜ私と顔を合わせないのですか」
「え、えっと……」
「そんなに私が怖いのでしょうか。昨日のようなことをされるから?」
ちらりと理乃がこちらを向く。その面は、赤い。困惑と照れが交ざっている表情に、貞樹は笑みを深めて彼女の側へと近付いた。
給湯室は狭い。すぐに理乃との距離は縮まる。奥でうつむき、うろたえる彼女を逃がさない。壁へ背中をつけた理乃が、怖々と顔を上げてくる。目が、潤んでいた。
そのまま貞樹は、両手で彼女の頬を挟んだ。中腰になって顔を近付ける。理乃が目をつむったと同時にその唇を奪う。柔らかく、甘い。
『月光』が室外から流れてくる中、長い口付けは続く。理乃は抵抗する素振りを見せない。そのことが嬉しかった。満たされていく。空っぽになった心が。
しばらくしてから唇を離すと、緩やかに理乃の瞳が開いた。潤んだ瞳に赤く染まった肌。それらがあいまって、とても色っぽかった。彼女を壁に押しやりつつ、貞樹は続ける。
「俊と何を話していたのですか」
「ク、クロイツェルの……弾き方を、少し……」
「だめですよ、私以外の男に教えてもらうなんて真似は。お仕置きが必要ですか?」
「お、お仕置き?」
「……それは明日に持ち越しですね。あなたはもっと、自分の魅力に気付いて下さい」
小首を傾げ、困ったように目をまたたかせる理乃が可愛らしくて堪らなかった。くぐもった笑いを零し、もう一度、今度は額にキスをする。
「ここ、教室です……」
「構いません。ずっとあなたとこうしていたい」
うう、と呟く理乃からは、相変わらず甘い香りが立ち上っていた。
(フェロモンのようなものなのか。この匂いが私を壊す)
紺色のストールをずらし、彼女の首筋を見る。昨日のものと思しき赤痣が残っていた。
「さ、貞樹さん……」
理乃の吐息が、心地よい。声も、息も、匂いも全て、自分のものだ。隆哉のものでも他の男のものでもない。何度か啄むキスをしたのち、ようやく体を離す。
「明日が楽しみですね」
「は、はい……」
理乃が照れくさそうにはにかむ。今、自分はどんな笑顔を浮かべているのだろう。きっと野兎を追い詰める、狼のような笑みをしているに違いない。
明日、二十四日。理乃と一線を越えるだろうことを、貞樹は確信していた。




