5-8.O del mio amato ben~ああ、愛する人の~
三階に到着した。廊下を歩いて行けば、すぐそこに理乃の部屋はある。
カチャリと鍵が開く音がして、三〇二号室の扉が開いた。うかがうように理乃が面を出している。近付く貞樹の姿を見てだろう、泣き笑いのような笑みを彼女は浮かべた。
「さ、貞樹さん。こんにちは」
「こんにちは。寒いでしょう、部屋に入っていて構いませんよ」
そういう間にも部屋の前へと辿り着く。ドアを開けられたままだったため、中に入っていいものだと解釈して玄関に足を運んだ。壁には丸い鏡、靴箱の上にはお洒落な形をした消臭剤が飾られている。
「これはお見舞いです。大したものはありませんが」
「あ、ありがとうございます」
灰色と紺色のスウェット姿を恥じているのか、理乃は控えめな所作で買い物袋を受け取った。うつむき加減の顔には化粧がなく、しかし素顔は実年齢よりも若く見える。
「熱は下がりましたか?」
「はい、おかげ様で。本当に微熱程度でしたから……あ、あのっ」
「なんでしょう」
「……お茶でも飲んでいきませんか? 外、寒かったと思いますし……よければ」
遠慮がちな提案に、貞樹は少し迷った。理乃に無理はさせたくないという思いがある。それに――
「怖くはないのですか」
「え……?」
「私が、です」
理乃は目をまたたかせた。何を言われているのかわからない、といった顔つきで。少し困った笑いを浮かべ、彼女は首を横に振った。
「貞樹さんを怖いだなんて思ったこと、ないです」
紡がれた台詞に、貞樹は内心胸を撫で下ろす。彼女に嫌われたくない、という思いがあった。無論、レッスンでは厳しく当たるつもりだ。しかしそれ以外で彼女の青白い、悲しみに満ちた顔は見たくはない。
「……では少しの間、お邪魔することにします」
「はい。部屋、散らかってますけど」
頷く理乃はちょっと嬉しそうだ。貞樹はその場で黒いコートと靴を脱ぎ、案内されるままリビングへ赴いた。
散らかっている、と言ってもゴミなどは散乱していない。ソファに座っていたのか、正面のテレビがついている。バラエティ番組が小さな音で流れていた。
「アールグレイで大丈夫ですか? あ、でも前と同じディンブラの方がいいかな……」
「前にも私は、この部屋に来たことがあるのですね」
「……一度だけですけど。あの、座って待っていて下さい」
キッチンに入った理乃が、なぜか頬を朱に染める。貞樹はうながされ、ソファの隅に腰かけた。だが、落ち着かない。軽症とはいえ動かせて大丈夫なのか、という懸念がある。
「やはり私がお茶を入れますよ。あなたは休んでいた方がいい」
「すぐに終わりますから平気です。もう平熱に戻りましたし」
「そうですか……無理はしないで下さい、本当に」
小さく「はい」と返事をする理乃を見て、貞樹は周囲へ視線をやった。
シンプルな作りの部屋に、やはり覚えがない。しかし清潔感のある室内に好感が持てた。近くのサイドボードには写真立てが飾られており、よく目をこらしてみると理乃とそっくりな顔を持つ女性が、理乃と一緒に笑っている。
(確か双子だと言っていましたね、亡くなったお姉さん……莉茉さんは)
写真をよく観察した。理乃とは違い、少し派手めな化粧を施した女性――莉茉の笑顔は快活そのものだ。自信に満ち溢れているのが写真でもわかる。一方の理乃も微笑みはあるが、奥ゆかしさが強調されている気がした。
一卵性と思しき二人はこんなにも違う。多分莉茉と出会っていても、ここまで心を揺さぶられなかっただろう。理乃だからこそ思いが募るのだ。
「貞樹さん? お茶、入りました」
「ああ……ありがとうございます。いただきます」
紅茶と共にカステラを出してくれた理乃は、貞樹と間を開けてソファに座った。その際、ふんわりとオードトワレ、そしてシャンプーか何かの甘い香りがして、貞樹は咄嗟に口を開く。
「プリン」
「えっ?」
「上江君がプリンを持ってくれたのではないのですか?」
「は、はい。でも、断りました。確かに好きなケーキ屋さんのでしたけど……貞樹さん、上江さんと会ったんですね」
「ええ、エントランスで。あなたがプリンにつられなくて、よかった」
「お、美味しいものは好きですけど……わたしだって馬鹿じゃないですから」
「ですがゼリーを持ってきた私を部屋に招いた。どうしてでしょう」
紅茶を飲みつつ意地悪く尋ねてみた。理乃は慌てふためき、口ごもる。真っ赤になって縮こまった姿は、兎のように愛らしい。
「……貞樹さんだから、です……」
「おや、顔が赤いですよ。まだ熱があるのでは?」
言って、貞樹は腕を伸ばして理乃の額へ指を当てた。火照った額が冷たい手に心地いい。ひゃ、と小さく叫んだ彼女は、それでもされるがままだ。
ティーカップを置いて、理乃との距離を詰める。理乃は逃げる。また間を詰める。
「ど、どうして追いかけてくるんですか……」
「さて、なぜでしょう」
ついにソファの隅へ追いやられた理乃が、頬を染めたまま目をつむった。貞樹は無意識に笑みを浮かべ、彼女の額に手のひらを優しく押し付ける。
「やはり熱いですね。これも疲れの熱ですか?」
「……貞樹さんの意地悪」
「私がそうだということを、恋人のあなたなら知っていると思いましたが」
「さ、最近知ったんです……」
瞼と睫を震わせる理乃に、ますます愛しさが募る。
失った記憶の中――過去ではどう彼女に接していたのだろう。紳士的に振る舞っていたのだろうか。多分、そうだ。理乃は自分のことを優しいと評した。冷徹な自分がおかしくなるくらいに彼女へ焦がれていたはずだ。女神と称するほどに。
そっと手のひらを移動させ、頬を撫でる。柔らかくて滑らかだ。吐息が漏れた。
(このまま全てを奪えたら)
熱情的な衝動に突き動かされ、縮こまる理乃の体を多少、乱暴に引き寄せる。胸部同士ががぶつかった。そこから伝わる脈は非常に速い。
なんの香りなのか、理乃から甘い匂いが立ち上る。芳しい甘さを吸い込むように頭頂へ顔を埋めた。
「あなたの匂いがします。甘くて、柔らかい……落ち着く香りが」
「シャ、シャワー浴びてないです……嗅がないで下さい」
離れようとする理乃を、両腕で閉じ込める。スウェットの上からでもわかる彼女の体の輪郭が、自分の理性を壊していった。抗いがたい興奮。頭の片隅で警鐘が鳴り響く。
「あなたを壊してしまいたい。私だけのことしか考えられないように」
肩に顎を乗せ、耳元でささやいた。凶暴なまでの思いに驚いたのか、びくりと理乃が四肢を震わせる。
「ん……」
鼻を鳴らす理乃の首元へ、啄むように唇を落とした。所有の痣を残すために。彼女が自分のものだと主張するように。
空白の期間、抜け落ちた過去の自分は、彼女へ欲を吐き出していたのだろうか。隆哉は彼女の痴態を知っているのだろうか。艶やかな肢体を貪ったことがあるのだろうか――
「さ、貞樹さん。だめ」
「……ああ……そうですね」
制止の声で我に返る。どうしようもなくなった愛情を持て余し、ただ、理乃を強く抱き締めた。しかし彼女の腕が背中に回されることはない。
一抹の寂しさを感じながら体を離すと、理乃は相変わらず顔を赤くしながら小さくなっている。怯えさせてしまったな、と貞樹は苦笑した。
「すみません。つい、やり過ぎてしまいました」
「い、いえ……」
恥ずかしそうに顔を背ける様子に、少し考える。
この様子だと、まだ肌を重ねる一線は越えていないようだ。口付けくらいはしたかもしれないが。今はまだ、それでいい。ゆっくり、じんわりと糸で絡めとるように理乃の全てを奪っていこうと決意する。
「そろそろ私はおいとまします。十分な休養をとって下さいね」
「はい。ありがとうございます……貞樹さん」
面を上げた理乃が、はにかむ。そのあどけない顔が艶やかに歪む姿を想起し、脳裏の隅へと追い払った。
紳士のふりをしながら、貞樹は近いうちに必ず、理乃をこの手にしようと決める。
その時には自分の体に、彼女の手が触れてくれることを信じて。




