表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【完結】歪みの旋律~わたしが愛を知るまでのレッスン~  作者: 阿住しおみ/忌み子の姫は〜発売中
第五章:神妙なる旋律

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

34/47

5-8.O del mio amato ben~ああ、愛する人の~

 三階に到着した。廊下を歩いて行けば、すぐそこに理乃(りの)の部屋はある。


 カチャリと鍵が開く音がして、三〇二号室の扉が開いた。うかがうように理乃(りの)(おもて)を出している。近付く貞樹(さだき)の姿を見てだろう、泣き笑いのような笑みを彼女は浮かべた。


「さ、貞樹(さだき)さん。こんにちは」

「こんにちは。寒いでしょう、部屋に入っていて構いませんよ」


 そういう間にも部屋の前へと辿り着く。ドアを開けられたままだったため、中に入っていいものだと解釈して玄関に足を運んだ。壁には丸い鏡、靴箱の上にはお洒落な形をした消臭剤が飾られている。


「これはお見舞いです。大したものはありませんが」

「あ、ありがとうございます」


 灰色と紺色のスウェット姿を恥じているのか、理乃(りの)は控えめな所作で買い物袋を受け取った。うつむき加減の顔には化粧がなく、しかし素顔は実年齢よりも若く見える。


「熱は下がりましたか?」

「はい、おかげ様で。本当に微熱程度でしたから……あ、あのっ」

「なんでしょう」

「……お茶でも飲んでいきませんか? 外、寒かったと思いますし……よければ」


 遠慮がちな提案に、貞樹(さだき)は少し迷った。理乃(りの)に無理はさせたくないという思いがある。それに――


「怖くはないのですか」

「え……?」

「私が、です」


 理乃(りの)は目をまたたかせた。何を言われているのかわからない、といった顔つきで。少し困った笑いを浮かべ、彼女は首を横に振った。


貞樹(さだき)さんを怖いだなんて思ったこと、ないです」


 紡がれた台詞に、貞樹(さだき)は内心胸を撫で下ろす。彼女に嫌われたくない、という思いがあった。無論、レッスンでは厳しく当たるつもりだ。しかしそれ以外で彼女の青白い、悲しみに満ちた顔は見たくはない。


「……では少しの間、お邪魔することにします」

「はい。部屋、散らかってますけど」


 頷く理乃(りの)はちょっと嬉しそうだ。貞樹(さだき)はその場で黒いコートと靴を脱ぎ、案内されるままリビングへ赴いた。


 散らかっている、と言ってもゴミなどは散乱していない。ソファに座っていたのか、正面のテレビがついている。バラエティ番組が小さな音で流れていた。


「アールグレイで大丈夫ですか? あ、でも前と同じディンブラの方がいいかな……」

「前にも私は、この部屋に来たことがあるのですね」

「……一度だけですけど。あの、座って待っていて下さい」


 キッチンに入った理乃(りの)が、なぜか頬を朱に染める。貞樹(さだき)はうながされ、ソファの隅に腰かけた。だが、落ち着かない。軽症とはいえ動かせて大丈夫なのか、という懸念がある。


「やはり私がお茶を入れますよ。あなたは休んでいた方がいい」

「すぐに終わりますから平気です。もう平熱に戻りましたし」

「そうですか……無理はしないで下さい、本当に」


 小さく「はい」と返事をする理乃(りの)を見て、貞樹(さだき)は周囲へ視線をやった。


 シンプルな作りの部屋に、やはり覚えがない。しかし清潔感のある室内に好感が持てた。近くのサイドボードには写真立てが飾られており、よく目をこらしてみると理乃(りの)とそっくりな顔を持つ女性が、理乃(りの)と一緒に笑っている。


(確か双子だと言っていましたね、亡くなったお姉さん……莉茉(りま)さんは)


 写真をよく観察した。理乃(りの)とは違い、少し派手めな化粧を施した女性――莉茉(りま)の笑顔は快活そのものだ。自信に満ち溢れているのが写真でもわかる。一方の理乃(りの)も微笑みはあるが、奥ゆかしさが強調されている気がした。


 一卵性と思しき二人はこんなにも違う。多分莉茉(りま)と出会っていても、ここまで心を揺さぶられなかっただろう。理乃(りの)だからこそ思いが募るのだ。


貞樹(さだき)さん? お茶、入りました」

「ああ……ありがとうございます。いただきます」


 紅茶と共にカステラを出してくれた理乃(りの)は、貞樹(さだき)と間を開けてソファに座った。その際、ふんわりとオードトワレ、そしてシャンプーか何かの甘い香りがして、貞樹(さだき)は咄嗟に口を開く。


「プリン」

「えっ?」

上江(かみえ)君がプリンを持ってくれたのではないのですか?」

「は、はい。でも、断りました。確かに好きなケーキ屋さんのでしたけど……貞樹(さだき)さん、上江(かみえ)さんと会ったんですね」

「ええ、エントランスで。あなたがプリンにつられなくて、よかった」

「お、美味しいものは好きですけど……わたしだって馬鹿じゃないですから」

「ですがゼリーを持ってきた私を部屋に招いた。どうしてでしょう」


 紅茶を飲みつつ意地悪く尋ねてみた。理乃(りの)は慌てふためき、口ごもる。真っ赤になって縮こまった姿は、兎のように愛らしい。


「……貞樹(さだき)さんだから、です……」

「おや、顔が赤いですよ。まだ熱があるのでは?」


 言って、貞樹(さだき)は腕を伸ばして理乃(りの)の額へ指を当てた。火照った額が冷たい手に心地いい。ひゃ、と小さく叫んだ彼女は、それでもされるがままだ。


 ティーカップを置いて、理乃(りの)との距離を詰める。理乃(りの)は逃げる。また間を詰める。


「ど、どうして追いかけてくるんですか……」

「さて、なぜでしょう」


 ついにソファの隅へ追いやられた理乃(りの)が、頬を染めたまま目をつむった。貞樹(さだき)は無意識に笑みを浮かべ、彼女の額に手のひらを優しく押し付ける。


「やはり熱いですね。これも疲れの熱ですか?」

「……貞樹(さだき)さんの意地悪」

「私がそうだということを、恋人のあなたなら知っていると思いましたが」

「さ、最近知ったんです……」


 瞼と睫を震わせる理乃(りの)に、ますます愛しさが募る。


 失った記憶の中――過去ではどう彼女に接していたのだろう。紳士的に振る舞っていたのだろうか。多分、そうだ。理乃(りの)は自分のことを優しいと評した。冷徹な自分がおかしくなるくらいに彼女へ焦がれていたはずだ。女神(ミューズ)と称するほどに。


 そっと手のひらを移動させ、頬を撫でる。柔らかくて滑らかだ。吐息が漏れた。


(このまま全てを奪えたら)


 熱情的な衝動に突き動かされ、縮こまる理乃(りの)の体を多少、乱暴に引き寄せる。胸部同士ががぶつかった。そこから伝わる脈は非常に速い。


 なんの香りなのか、理乃(りの)から甘い匂いが立ち上る。芳しい甘さを吸い込むように頭頂へ顔を埋めた。


「あなたの匂いがします。甘くて、柔らかい……落ち着く香りが」

「シャ、シャワー浴びてないです……嗅がないで下さい」


 離れようとする理乃(りの)を、両腕で閉じ込める。スウェットの上からでもわかる彼女の体の輪郭が、自分の理性を壊していった。抗いがたい興奮。頭の片隅で警鐘が鳴り響く。


「あなたを壊してしまいたい。私だけのことしか考えられないように」


 肩に顎を乗せ、耳元でささやいた。凶暴なまでの思いに驚いたのか、びくりと理乃(りの)が四肢を震わせる。


「ん……」


 鼻を鳴らす理乃(りの)の首元へ、(ついば)むように唇を落とした。所有の痣を残すために。彼女が自分のものだと主張するように。


 空白の期間、抜け落ちた過去の自分は、彼女へ欲を吐き出していたのだろうか。隆哉(たかや)は彼女の痴態を知っているのだろうか。艶やかな肢体を貪ったことがあるのだろうか――


「さ、貞樹(さだき)さん。だめ」

「……ああ……そうですね」


 制止の声で我に返る。どうしようもなくなった愛情を持て余し、ただ、理乃(りの)を強く抱き締めた。しかし彼女の腕が背中に回されることはない。


 一抹の寂しさを感じながら体を離すと、理乃(りの)は相変わらず顔を赤くしながら小さくなっている。怯えさせてしまったな、と貞樹(さだき)は苦笑した。


「すみません。つい、やり過ぎてしまいました」

「い、いえ……」


 恥ずかしそうに顔を背ける様子に、少し考える。


 この様子だと、まだ肌を重ねる一線は越えていないようだ。口付けくらいはしたかもしれないが。今はまだ、それでいい。ゆっくり、じんわりと糸で絡めとるように理乃(りの)の全てを奪っていこうと決意する。


「そろそろ私はおいとまします。十分な休養をとって下さいね」

「はい。ありがとうございます……貞樹(さだき)さん」


 (おもて)を上げた理乃(りの)が、はにかむ。そのあどけない顔が艶やかに歪む姿を想起し、脳裏の隅へと追い払った。


 紳士のふりをしながら、貞樹(さだき)は近いうちに必ず、理乃(りの)をこの手にしようと決める。


 その時には自分の体に、彼女の手が触れてくれることを信じて。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ