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【完結】歪みの旋律~わたしが愛を知るまでのレッスン~  作者: 実緒屋おみ@忌み子の姫は〜発売中
第五章:神妙なる旋律

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5-6.Sento nel core~私は心に感じる~

 翌日――真冬の曇り空。その下で、貞樹(さだき)葉留(はる)は町の中央部である大通を歩いていた。札幌の町並みは整然としている。中心部などはわかりやすく碁盤の目状になっている、らしい。


 葉留(はる)の提案で、車ではなく地下鉄を使った。記憶だけでなく自車も失った今、交通手段を覚えることは大切だ。


「まあまあわかりやすいですね」

「でしょ。乗り間違えたりしなければ大丈夫だよ。そこら中に地下鉄の路線図もあるし」


 黄色いコートに身を包んだ葉留(はる)は、すっかりこの町に溶けこんでいる気がした。彼女曰く、貞樹(さだき)は二年ほど前に東京の実家から札幌に引っ越したという。葉留(はる)もまた、同じく。


神津(こうづ)さんに会うの久しぶりだなー」

「少しネットで調べたのですが、彼はクラシック音楽の企画や演出を行う会社の代表……らしいですね。札幌を中心に活動しているとか」

「うん。さだも数回コンサートに出たり、アドバイザーで神津(こうづ)さんに協力してたよ。東京で神津(こうづ)さんに会って、スカウトって言うの? されたって」

「ああ、それで私は札幌に。それにしても、あなたまでついてこなくても」

「実家にいても退屈だし。それにここで今の旦那に会えたからいいのっ」


 町並みを確認するように歩く自分へ気を遣ってくれているのだろう、葉留(はる)の歩みはゆったりとしている。葉留(はる)の夫とは入院中に一度、顔を合わせた。優しげな男という印象だけがある。


 人混みの中、デパートの横を通り、ドラッグストアのある角を曲がった。しばらくすると木目調の壁を持った喫茶店が見える。


「ここであってるよね?」

「ええ。名前も間違いありません」

「じゃあ中に入ろ。神津(こうづ)さんの顔は覚えてるから大丈夫」


 コーヒーの匂いがする店内に入れば、店員が声をかけてきた。待ち合わせの旨を告げる。貞樹(さだき)がモダンな造りの内装を眺めていると、すぐ近くの席でこちらに顔を覗かせた男がいた。


宇甘(うかい)、こっちだ」


 黒い短髪に、白のタートルネックが似合う男に名を呼ばれた。


神津(こうづ)さん、お久しぶりですー」

「ああ。池井戸(いけいど)さんも元気そうでよかった。ともかく座れ、話はそれからだ」


 やはり見覚えのない顔だったが、彼が神津(こうづ)(しゅん)で間違いないらしい。貞樹(さだき)は頷き、葉留(はる)と共に彼の対面へ腰かけた。適当に飲み物を注文し、店員が去ったところで(しゅん)が話を切り出す。


「久しぶり、と言ってもお前は覚えてないだろうが、オレが神津(こうづ)だ。神津(こうづ)(しゅん)。お前とは音楽仲間の一人だよ。体の具合はどうだ?」

「薬のおかげで大分よくなりました。(しゅん)、と呼んでも?」

「いつものようにそうしてくれ。いや、昨日は驚いた。記憶がないとあったのだから」

「自分でも驚いていますよ。と言うより困惑ばかりが勝っていましてね」

「突然記憶が抜けたんだ、当然だろう。池井戸(いけいど)さん、宇甘(うかい)はいつの記憶がないんだ?」

「四年前に戻っちゃってるんですよー。ミュンヘン国際音楽コンクールに出た記憶も、なし。ドイツに住んでた記憶くらいしかなくて」

「む、それは大変だ。それならオレとの出会いも忘れているだろうな」


 (しゅん)の言葉に首を傾げ、貞樹(さだき)は必死に思い出そうとしてみる。東京に住んでいたことも忘れているくらいだ。彼との出会いはやはり、思い起こすことができない。コーヒーに口をつけつつ、(しゅん)は苦笑を漏らした。


「オレが君のピアノとバイオリンに惚れて、札幌に来るよう頼んだ。少しの間はオレの会社に所属していたが、すぐに自転車事故に遭って……君は手の痺れで演奏家をやめた」

「確かにまだ、痺れはありますね」

「落ち込んでいたよ、大分な。音楽から離れようともしていた。二年前のコンサートを最後に、アドバイザーもやめて東京に戻ろうとしていたのだが」


 (しゅん)がカップを置いた。にやりと口の端をつり上げる。


音楽の女神(ミューズ)に会ったと言って、興奮していた。彼女のために音楽はやめないと、な」

女神(ミューズ)ぅ? うわっ、気取りすぎだわ、さだ」

「……その方のことをあなたは知っていますか、(しゅん)

「名前を聞いたのは最近だ。瀬良(せら)理乃(りの)、と言っていたな」

「えっ……瀬良(せら)さんと付き合い始めたのってちょっと前じゃなかったの?」


 驚く葉留(はる)をよそに、貞樹(さだき)は顎に手をやり、思案する。


 二年前のコンサート。そこで理乃(りの)と出会った。女神だと称するほどに、彼女へ焦がれたらしい。しかし、それなら声をかけていてもおかしくはないだろう。二年間のブランクは、と考えて、葉留(はる)に話を振ってみる。


葉留(はる)、確か理乃(りの)は姉を亡くしたと言っていましたね。そして私の教室でバイオリンのリハビリをしていたとも」

「うん。お姉さんが死んで二年……あ、二年」

「一致したな。瀬良(せら)という女性と再会したのが最近、ということなのではないだろうか」

「そうですね……」


 理乃(りの)が鍵を握っている、そんな気がした。しかし、と店員がテーブルに飲み物を置く中、頭を悩ませる。


 上江(かみえ)隆哉(たかや)という青年の存在。彼から放たれた、理乃(りの)を諦めないという宣戦布告。自分と理乃(りの)隆哉(たかや)。もしかしたら三角関係にあったのかもしれない。


 悩む貞樹(さだき)に、(しゅん)は真剣な眼差しのまま口を開く。


「君は言っていた。楽しそうに音楽を聴く人、弾く人に光を与えるようになりたいと。そして教室を開くことにしたはずだ。それまでの君は、こう……言ってはなんだが、どこか冷徹な(おもて)ばかりがあったからな。驚かされたものだ」

「こればっかりは瀬良(せら)さんに聞いた方が早いね。……連絡、してる?」

「ええ。朝の挨拶もアプリで。聞きたいことがあったので、昨日もやりとりしました」

「はー……よかった。さだと瀬良(せら)さん、仲悪くなるんじゃないかって心配してた」

「……彼女は悪い人ではないと思っていますよ」


 苦笑を浮かべ、貞樹(さだき)はコーヒーを飲んだ。嘘だった。悪い人どころか、彼女の奥ゆかしさに心を救われている自分がいる。無意識で彼女に惹かれている気がしてならない。今日だって、あのオードトワレをハンカチにつけてきているくらいには。


 それから(しゅん)に、色々なことを尋ねた。二年間札幌で彼の会社にて働き、そののち独立。(しゅん)以外にも、音楽を通じた友人や知人が多々いることを彼は教えてくれた。


「来年の自主公演にも、オレは一枚噛んでいる。ホールの場所やチケットの販売などで。そうは言ってもその様子なら……」

「やっぱキャンセルですよね。今は教室も休みだし」


 葉留(はる)(しゅん)の様子に、しかし貞樹(さだき)は首を振る。


「いえ、教室は開くことにします。そして自主公演もやり遂げたい」

「でも、さだ……」

「ピアノも無事に弾けました。幸い、音楽の勘は鈍っていない。講師として教えられることもあるでしょう。ならば、道は一つです」

「オレのところで働き始めても構わんが。君の席はいつでも空いている」

「ありがとうございます、(しゅん)。ですが私は、生徒を見捨てたくないので。今の状態なら、逆に記憶を呼び起こすきっかけになってくれるかもしれませんしね」

「演目は変わらないのか? クロイツェルを弾くと言っていたが」


 (しゅん)の言葉で脳裏に浮かんだのは、理乃(りの)美智江(みちえ)の両者だった。技巧で言えば美智江(みちえ)の方が理乃(りの)より上手(うわて)だ。だが、不思議なことに、美智江(みちえ)と伴奏する姿がイメージできなかった。


(講師失格ですね。私情を挟もうとしているなどと)


 内心で自嘲する。何度も溜息を漏らした、理乃(りの)の演奏。それでも彼女と共にクロイツェルを弾くことができたら、そんな夢にも似た衝動が胸を突き動かす。


「クロイツェルは弾きますよ。他の演目も変えません」

「伴奏……永納(ながの)さんに頼むの?」

「いいえ。残りの時間の大半を理乃(りの)につぎ込みます。確かに今は未熟ですが、彼女の可能性に賭けたい」

「驚いたな。君が不確定な要素に目を輝かせることがあるとは。よっぽど瀬良(せら)という女性は、君の根幹を変える力を持っているのだろう……興味が出てきた」

理乃(りの)はあげませんよ」

「出たよ、さだの独占欲……神津(こうづ)さん、気にしないで下さいね。さだ、実はこういうやつです」

「負けん気は強いと知っていたがね。安心してくれ、馬に蹴られて死にたくはない」


 (しゅん)が微かに笑う。つられて貞樹(さだき)も笑った。


「でも安心したな、あたし。さだはかなり冷たかったんだから。それでも気にしない、って瀬良(せら)さん、笑ってたんだからね」

「そうですね、彼女に酷いことをしました……ところでお二人に質問なのですが」

「なんだ?」

「何?」


 こほん、と一つ咳払いをする。そして少し迷ったあと、スマートフォンで撮影したホテルのルートを二人に見せた。


「どうやら私は、二十四日にここを予約しているようでして。その、まあ、理乃(りの)のために。場所が……今はわからなくて、ですね。行き方を教えていただけたらと」

「……ホテルだ」

葉留(はる)、うるさいですよ」


 にやけた葉留(はる)貞樹(さだき)は思わず仏頂面になり、眼鏡を指で押し上げた。(しゅん)は笑うこともからかうこともせず、横に置いていた鞄から手帳とペンを取り出す。


「札幌駅から近いな。宇甘(うかい)の使う東西線、大通駅から乗り換えて……」


 (しゅん)が地下鉄の乗換駅、地下街の一番近いと思しき出口を書いた紙を渡してくれた。


「まあ、スマートに彼女を誘いたいのなら一度行ってみるといい」

「そうさせてもらいます」

「ねー。実際に行った方がいいよねー」


 にやにやしている葉留(はる)を、貞樹(さだき)は無言のまま横目で睨みつける。(しゅん)が笑う。


「また何か困ったことがあれば、遠慮せずに連絡してくれ。今日はこれから会議があるんでな。そろそろオレは失礼させてもらう」

「ありがとうございます、(しゅん)。助かりました」

「またな、宇甘(うかい)。記憶が戻ることを願っているよ」


 言って(しゅん)は立ち去った。レシートまで持って。気を遣わせたか、と苦笑いを浮かべる貞樹(さだき)の肩を、葉留(はる)が叩く。


「それでは兄上、ホテルまでご一緒しましょっか。瀬良(せら)さんに「ホテルはどこですか」なんて聞けないもんね」


 笑ってくる葉留(はる)に、貞樹(さだき)は長い溜息を吐き出した。どうせこのあと、面倒を見ている代わりにと何かをねだってくることなんて、わかりきっているのだから。

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